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うつわが客体から主体になるとき


どんな感想も心からうれしい理由

「かわいらしい土鍋ですね」
「あれもこれもつくりたくなる土鍋ですね」
「かわいらしすぎる土鍋ですね」
「なにに使ったら良いかわからない土鍋ですね」



本来は土鍋もうつわも使い倒すくらいの気持ちでいて欲しいけれど、使うのでなく飾られることが大事にされている意味でもあったりするので、それもこれもうれしい。かわいらしくても、かわいらしすぎても、そこに使い手の心情を投影したら感情が変わるように仕組んであるので、どちらでも良い。外見プリティでなく、内面キュートの愛らしさを込めているのは事実なのだから。


主体としてのまなざし

うつわや調理器具は、ストレートに考えれば『客体』であるが、コッチョリーノのうつわは、小さな生活、大きな記憶のなかで、物語を進めてゆくにつれ『主体』となるように仕立てている。それは、親密で居心地の良い関係のなかで擬人化されていくように。内面のキュートさがじわじわ滲み出てくれば、なおさら良い。

つまりは、パフォーマンスを魅せるアートであり、生活を楽しくさせるデザイン。


余談だが、たとえば「世界の友だちシリーズ」(土鍋やカップの顔の絵)は、思い切り笑わない。けれども、どこに「客体」が現れても、「主体」としての眼差しを向けるように実はデザインしている。

絵が書いてある器は、分かりやすい例だが、実は単色であっても同じ。土鍋コッチョリーノには、長い時間をかけて、物語づくりのメソッドを練り込んでいるのだ。先に考える利便性は表層に留まりがちだ。愛されるものにこそ現れるじわじわと出てくる利便性は深層に。そして何より嘘モノでなく本物を。


最後に、そんなうれしい物語がつづられている記事をご紹介したい。

顔や絵柄が描かれたものではなく、シンプルな色柄だからこそ、抽象的な心情をそれぞれで読み取っていただけたらと思う。確実に土鍋コッチョリーノと使い手の両者が「主体」となっている。こんなふうに、生活の中で、器と一緒に主人公になれる時間があれば、疲れた日も、うなだれた日も、顔が少しでも前を向く時間が増えるんじゃないかな。

猛牛打線さん、いつもありがとうございます。そして、そもそも猛牛さんが大ファンであるスープ作家の有賀薫さん、ご縁をありがとうございます。



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