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南方熊楠のマンダラ思想について〜社会人大学生10000字超の期末レポート全文を公開!〜

こんにちは。たまえです。
社会人大学生として、仏教・空海・マンダラ・宗教思想史などを学んでいます。東京の会社のリサーチャーです。

👇受験に至った経緯はこちら

🐻🌳
今回の記事では、"南方マンダラ"を取り上げます。

南方熊楠(みなかたくまぐす)という明治〜昭和を生きた天才がいました。
彼が書いた図の中に、南方マンダラと呼ばれるものがあります。

一言ではとても語りきれない、奥深き南方マンダラの世界。

実は、社会人大学生になってみて
一番おもしろく夢中になった授業が、
南方熊楠についての授業でした(宗教思想史)。

その授業で提出した期末レポートが、
なんと「S」評価をいただいたのです…👀!

あらためて自分で見返してみると、ずいぶん夢中になって書いたんだなと感じます笑 きっと夢中になった熱量が先生にも伝わったのでしょう。

(完成した頃には、すっかり空が明るくなっていたのはいい思い出です🤭)


この熱量を一人でとどめておくのはもったいないので、10000字超えのレポート全文を公開します💫

どうぞお楽しみください💁‍♀️

南方のマンダラ思想について、
”近代化”をキーワードに あなたの考えを論じてください

レポートのお題

1,はじめに 本レポートで取り組む視点について

南方のマンダラ思想から私たちが受け取れる「問い」とはどのようなものだろうか。今回のレポートはこの視点からまとめてみたい。

現在進行形で日々研究が進んでいる南方研究において、とくに南方のマンダラ思想については多くの書籍や論文で読み解きがなされているが、それらの解釈は幅広く、切り口も研究者によって様々である。南方熊楠と向き合って4カ月しか経たない私が、それらの基礎研究をカバーした上でさらに発展させた考察をするには到底及ばないと感じた(当たり前である)。その上で、初心者ではあるが、南方熊楠の思想を学ぶことが悦びになりつつある現在の自分の立場から考察できる視点があるとすれば、素朴な好奇心からの探究の視点であると考えた。

熊楠が残したマンダラ思想は、近代化の只中にあった当時の彼の(1)どのような課題意識から来ていて、(2)どのような問いに答えようとして生まれたのか。彼が抱いていた「課題意識」と、向き合っていた「問い」を認識することは、熊楠が残したマンダラ思想を引き継ぎ、現代に生かすための最初の重要な足掛かりになるのではないかと考え、本レポートの主題に設定した。

南方熊楠 wikipediaより

2,近代化の渦中に生きた南方熊楠の課題意識とマンダラ思想の背景

南方熊楠が生きた時代は、明治維新から帝国として日本が世界と対峙していく変化の渦中にあった。特に近代国家を目指す中で、中央集権的な国家権力の影響が大きくなっていた。思想面では、蘭学から特に英学へと移行し、福沢諭吉をはじめとする啓蒙思想がこの時期に広がりを見せた。

熊楠は、「近代の発展は本当に利益になるものかどうか疑わし」いと、長期的かつ全体性の視点から近代化を少なからず批判的に捉えていた。1 彼は西洋の学問や短期的利益を追求する近代化政策に対し、それらを超えていく東洋の智慧を土台とした思想を模索した。この課題意識は、明治末期の日露戦争を経て、日本が帝国としての一歩を踏み出していくという歴史的背景とも密接に関係している。

熊楠の考えを象徴する活動として、神社合祀令に対する反対運動が挙げられる。この運動を通じて、熊楠は日本の伝統的な生態系や文化、景観の重要性を強調し、守るべきものの保存を訴える立場を取った。彼のマンダラ思想は、近代化に対する危機感を背景としながら、明治維新と開国を経た日本が、これからどのように世界に対峙していけばよいのかという課題意識から生まれたものと考えられる。

2-1,西洋と日本 ―世界の中の日本としての課題意識―

2-1-1,東洋の叡智

熊楠の思想の根底には、幼少期に触れた東洋の学問があったと言えるだろう。幼少期に熊楠が描いた『和漢三才図絵』や『本草網目』の写本の躍動感のある絵や、細かく丁寧に写された文字と図を眺めているだけで、熊楠が夢中になった東洋の百科事典的な世界観が伝わってくる。

また、熊楠の独創性の根源を探った鶴見和子氏によれば、「父母からは大日如来の信仰を、町の教育者たちからは心学の訓えを、物語のかたちで、しっかりと植え付けられた。その根っこが深かったからこそ、西欧の科学・合理主義と出会ったときに、火花を散らしてたたかうことができた」2という。

更に、同級生が西洋の学問に傾倒していくのに対して、熊楠は交友関係やネットワークは海外に持っていたものの日本の学問を土台にしており、ベクトルが逆ともいえる点が特徴的である。

具体例を挙げると、生物を主体として生物と環境の関係性を明らかにする学問としての「生物学」に対し、熊楠が研究したのは地域に住む生物同士の多様な相互関係を研究する「棲態学」であった。絶対的な主体を前提とするのではなく、相互関係が生まれてくる「場」を対象としている点は、仏教の空思想的であるとも言えよう。

次に、南方と土宜法龍の間で語られた科学論に注目してみたい。熊楠が自身の科学論について2カ月という短期間で複数回述べている箇所を抜粋し、熊楠の科学論をまとめて考察した雲藤等氏によると、『「科学とは、順序立てて智識を陳列整理することなり」、「科学とは整順せる智識ということなり」、「小生の申す科学とは順序立てた智識の儀なり」としつこいほど同じ内容を繰り返していることが確認され』、「熊楠の認識によると、科学というものは整理された知識の体系ということになる」3という。

さらに科学と曼陀羅について触れている箇所として「それよりは、教理の高いところを事実に応じて順序を立てて分るように述べ(すなわち科学)、実用に便すること、書籍の目録索引を作るごとくにして可なり。すなわち森羅万象を今の時代の必須に応じて、早く用に立つように分類順序づけるなり。いわば曼陀羅の再校なり」4という熊楠の土宜への書簡を引用し、熊楠のいう曼陀羅とは森羅万象を分類・順序づける体系であり、その構造は科学と同じものということができると整理している。加えて、欧州科学に対して東洋科学の存在を仮定して考え、西洋に対抗するためには曼荼羅の思想の研究が必須であると考えていたようだと読み解いている。5

2-1-2,熊楠の教育論 比較することの重要さ

熊楠は、土宜との書簡の中で教育論についても多くを記しており、「比較」することの重要性も訴えている。雲南氏によると「(熊楠は)狭い専門分野のみを学習するのでは、結局その分野の本質が理相できないままになることを鋭く指摘する。幅広い視野を持って学ぶことが重要なのであり、そのために図書館でいろいろな書物に接して学ぶことが不可欠である」6としており、具体的には、僧侶の教育においても仏教経典である内典だけでなく、仏教以外の幅広い教養としての外典を学ぶ必要性があると主張する。

「比較する対象がなければ、自分がどのような環境にいるのかさえ分からないことになる。同様に、内典だけを勉強してみても、それと比較対照できる外典がなければ、自分の勉強していることがどれほどの意味をもっているのか分からない。」7と述べており、現在ビジネス界でも注目される「メタ認知」8や、熊楠の「地球志向の比較学」9にもつながる主張である。

2-2,日本の近代化の行く末 ―日本国内における課題意識―

2-2-1,日本のアイデンティティ

日本の近代化の過程で、日本のアイデンティティを保持することに熊楠は貢献したとする立場を取るのが雲藤氏である。熊楠はエコロジストとしての側面で評価されることが多いが、熊楠は神社合祀反対運動のみではなく様々な社会問題に対して意見を表明し、活動していたという総合的な観点からの考察は、「熊楠が近代化の中で果たした役割や彼の思想を考える上で必須の作業」10と述べている。

さらに、「日本の近代化は、単なる西洋の諸制度を採り入れる過程だけではなく、西洋文化の模倣需要と排斥を繰り返して推移したという複雑な面もある」11とし、「そのような状況の中で、日本は西洋の諸制度を模倣しながらも社会と文化のアイデンティティーを保持することに、まがりなりにも成功した。」「実はこの点において、南方熊楠は深くかかわっているものと本論では考える。つまり、「近代化の過程の中で日本のアイデンティティを保持することに南方熊楠は寄与した」。これが本書の基本的な立場」12であるとして、日本のアイデンティティと熊楠がそれに与えた影響に着目している。

そして、熊楠が日本の近代化の中で果たした役割についての一つの解答として、「町の発展や都市開発あるいは日本全体の急速な改革の過程で行き過ぎた近代化、性急な近代化に対して異議を唱えることで、そのスピードを減速させる役割を果たしていたのではないか」と述べている。熊楠が果たした役割を変形菌が森林の中で果たす役割になぞらえて、「開発のスピードをゆるめることにより、新しいものと古いものとが併存する豊かな社会をのこそうとした試みだったと言えるかもしれない」13と考察している点は興味深い。

勝ち負けという二元論で戦うのではなく、スピードを遅らせることで新しいバランスを形成していくというアプローチは、現代社会においても応用可能な社会との関わり方であり、戦略にもなり得ると感じた。

2-2-2,近代化によりこぼれ落ちてしまうもの

熊楠がリスター・グリエルマに宛てた書簡によれば、熊楠は「近代の発展は本当に利益になるものかどうか疑わしく思ってい」たことが分かる。14

まず近代国家が持つ権力と「聖域」について考えたい。熊楠が戦うこととなった神社合祀の背景でもある神仏分離と廃仏毀釈という言葉について、安丸良夫氏が鳴らした警鐘を引用する。

「神仏分離と廃仏毀釈という言葉は、こうした転換をあらわすうえで、あまり適確な用語ではない。神仏分離と言えば、すでに存在していた神々を仏から分離することのように聞こえるが、ここで分離され奉斎されるのは、記紀神話や延喜式神名帳によって権威づけられた特定の神々であって、神々一般ではない。廃仏毀釈といえば、廃滅の対象は仏のように聞こえるが、しかし、現実に廃滅の対象となったのは、国家によって権威づけられない神仏のすべてである。記紀神話や延喜式神名帳に記された神々に、歴代の天皇や南北朝の功臣などを加え、要するに、神話的にも歴史的にも皇統と国家の功臣とを神として祀り、村々の産土社をその底辺に配し、それ以外の多様な神仏とのあいだに国家の意思で絶対的な分割線をひいてしまうことが、そこで目ざされたことであった。」15

中沢氏によれば、この時に起こった「転換」には、近代型の権力の特徴がよく表れているという。これまで注意深く分離されていた「公の権力」が及ばない領域にまで、例えば山や森や寺院の内域に加え、人々の心の内面にまで、深く忍び込んでくるのが近代型権力の特徴であるという。

国家だけでなく、近代の資本主義も自分の力の及ばない聖域が残されていることを嫌う性質があることに触れ、「貨幣に計量化できないもの、自由な交換に投げ入れることのできないもの、資本として増幅していく価値に自分を譲り渡していかないものなどが、この世に存在していることが許せないのだ」とした上で、これまで立ち入ることができなかった「聖域」である神社と森の解体に国家が踏み込んだと指摘する。16

次に、西洋に対峙しうる、文化の保存という観点から考えてみる。
熊楠の学問や社会活動の根底には「保存」の概念があったと考察する雲藤氏は、「1915年6月21日付の『牟婁新報』に掲載された熊楠の毛利清雅宛書翰には、「むやみに発展とか開発とか称して、美名の下に実際の改変破損を戒しむべきなり」とある。発展・開発という美名のもとで、本来は保護すべき景勝地の破壊が進むことを憂い、意義を唱えているのである。」としている。「日本が西洋の諸制度を採り入れ、近代化を推進していく事、それ自体を熊楠は否定しているのではない。」という点に着目したい。

「近代化が推進される中で犠牲にされ、顧慮されなくなっていくものが存在することに注意を払っているので」あって、「その中には、日本が欧米に劣らないことを証明する貴重なものが含まれている。」とする。「彼は、日本の中央集権的な近代化の道筋に対して、そこからこぼれ落ちていくものの重要性を認識して保存しようと考えた。近代化の過程で、破壊され、失われていくものの保存を訴えることにより、価値の多様化された社会の実現を志向していたのではないかと思われる」17という考察は、合理性や効率性が重視され、短期的な利益偏重型が課題となっている現代のビジネス界においては耳の痛い話であると同時に、我々は近代化に足を踏み入れた当時から現在まで、本質的に同じ課題に直面しているのだということを痛感させられる。

2-2-3,まとめ

以上をふまえて、熊楠の課題意識と、熊楠が向き合っていたであろう問いとして、今回着目した部分から読み取れたものは以下の通りである。

【熊楠の課題意識】
・西洋科学に対しての東洋科学として、西洋科学を曼陀羅の一部として包含するような、森羅万象を順序立てて整理した曼陀羅が必要だという課題意識(2-1-1)
・比較対象がなければ、自分がどこにいるのかも、自分が学んでいることの本当の価値も分からない。そのために幅広く比較できる学びが重要であるという課題意識(2-1-2)
・急速な改革と行き過ぎた近代化に対する課題意識(2-2-1)
・近代化の推進によって本来守るべき価値が失われる可能性があるという課題意識(2-2-2)

【熊楠が向き合っていたであろう問い】
・日本とは何か
・日本の文化やアイデンティティとは何か
・東洋は西洋とどのように対峙していくとよいのか
・近代化という名のもとに、こぼれ落ちるものは何か
・私たちに大切なものは何か
・私たちは何を守っていけばいいのか

このような問いを抱けたのは、長期間海外で生活し、日本というアイデンティティをメタ認知していた熊楠だからこそではないだろうか。日本人には当たり前すぎて気がづかないこと、例えば神社を中心とした生態系や文化、景観などが、権力からの聖域として守られてきた価値を理解していた熊楠は、それらを一度失ったら戻れないという危機感と先見の明を持ち、神社合祀反対運動を通して意見を表明し、働きかけを行った。これらの活動の背景には、西洋と近代化を意識した問いがあったと考えられる。

西洋の優れた部分を学びリスペクトしつつも、単にそれに傾倒したり劣等感を抱いたりするのではなく、東洋や日本的思想の優れた点を認識した上で、西洋の近代科学ではこぼれ落ちていくものを包含し、超えていく可能性を模索したのが南方熊楠だったと言えるだろう。

3,それらを超えていくためのアプローチ 南方のマンダラ思想とは

南方のマンダラ思想は、これまで見てきた「問い」を超えていくためのアプローチとして生み出されたとも言えよう。そのマンダラ思想について見ていきたい。

3-1,マンダラ思想とは

2-1-1で述べたように、雲藤氏によれば、「森羅万象を今の時代の必須に応じて、早く用に立つように分類順序づけるなり。いわば曼陀羅の再校なり」18という熊楠の土宜への書簡を引用し、「熊楠のいう曼陀羅とは森羅万象を分類・順序づける体系」19であるという。

「熊楠が自らの世界観をマンダラという言葉で語ろうとしていた」20と松居氏が述べるように、熊楠の思想それ自体を、広義のマンダラ思想と呼べるであろう。

生命を巨大な全体的連関の中でとらえようとする東アジアの思想のことをマンダラと表現するのは、中沢氏である。「南方熊楠は、このマンダラ思想が、人類の来るべき学問や生き方すべてにとって、極めて重要な意味をもつことになるだろう、という確信を抱いていた。彼は、マンダラの中に、西と東をつなぐ「蝶番」が隠されていることを、発見していたのである。それはマンダラが、生命が個体であり、自律体であるという観点と、それが環境の中に多次元的に埋め込まれてあるという視点を、総合できる力をもっているからだ。」とし、その蝶番の意味について、「西と東の壁を崩壊させて、世界を一元化していくことが、豊かな未来を開く道なのではない。それよりも重要なのは、いたるところにたくさんの蝶番を発見し、異質なもの同士、自分の独自性を保ったまま、おたがいの間に真の対話がつくりだされていくことだ」21と熊楠のマンダラ思想を翻訳している。まさに密教の両界曼荼羅の世界観そのものである。

次に、「南方マンダラ」と呼ばれる線描図について見ていきたい。

南方マンダラ 南方熊楠顕彰観HPより

松居氏の解説を引用すると、「熊楠によれば、このモデルは世界が無数の因果律の集合体として成り立っていることを示している。そうした因果律=すじみちは、互いに交錯し関連し合って、思いもよらない結果を生み出し続けていると熊楠は言う」。さらに、「そうした錯綜したすじみちの重なりの中には、人間にとって物事を理解するために重要な地点、「萃点(すいてん)」がある」という。22

熊楠は、この図について、「この世間宇宙は、天は理なりといえるごとく(理はすじみち)、図のごとく(図は平面にしか画きえず。実は長、幅の外に、厚さもある立体のものと見よ)、前後左右上下、いずれの方よりも事理が透徹して、この宇宙を成す。その数無尽なり。故にどこ一つとりても、それを敷衍追及するときは、いかなることをも見出し、いかなることをもなしうるようになっておる」と解説しており、23「この世の森羅万象はたがいに関連し合いながら存在していること、丹念に物事を観察していけばそれらの現象をすべて理解することが可能であること」などを説いた。24

松居氏は南方マンダラについて、「一見、殴り書きのように見えながら、宇宙と人間の繊細な関係を説くこの図は、自由闊達に世界をとらえようとした「熊楠的精神」というものを体現しているようにさえ見える」と表現する。25

さらに熊楠は、五つの「不思議」について説く。中でも「理不思議」と「大不思議」について、小田龍哉氏の解説によれば、「可知の理の外に横たわりて〔…〕どうやらこんなものがなくてかなわぬ」という可能性の場として「理」を再分節化したのが「理不思議」であった。「南方曼陀羅の線描図では、それは「あたかも天文学上ある大彗星の軌道」のような事理(ル)として、もっとも遠景に配されている」という。26

理不思議は器械的・数量的なアプローチではアクセスできないとし、それが真言密教で解けるのではないかということや、宇宙の真理の研究には、数量よりもtact(やりあて)が入用なのではというようなことにも議論は発展していく。

そして、熊楠はマンダラについて次のように名言する。

「曼陀羅のことは、曼陀羅が森羅万象のことゆえ、一々実例を引き、すなわち箇々のものについてその関係を述ぶるにあらざれば空談となる。抽象風に原則のみいわんには、夢を説く代わりとしことなし。」27

「学問モデルとしてのマンダラを語るだけでは意味がなく、自然の生態系のような実例を見ながら、一つ一つ説明しなければ机上の空論で終わってしまう」28と熊楠は言う。社会を動かし、社会に役立ててこそ意味があるというスタンスは、密教の教えとも重なると言えるだろう。

南方熊楠のマンダラ思想に触れて最初に感じたことは、私たちが気づいていないこと、もしくは本当は知っているのに忘れていることを思い出させてくれる、そんな鍵となる思想だということである。関係性の中ですべてが成り立っているという曼荼羅的な世界観。さらに顕微鏡の中に大宇宙があり、個の中に全体を含むという世界観。

南方のマンダラ思想は、理論化されなかったという評価が一般的であるようだ。現在の分類方法では複数の専門分野を横断してしまうので、適確にそれを表す名前が付けられない。分類できないということは、そのものさしでは測ることができず、価値を評価できないということでもある。分類とは現在の常識における世界の切り取り方に過ぎないので、既存の枠に収まらないという理由で、(まるで規格外の野菜のように)、ありのままの存在価値が評価されていない状態にはもどかしさを感じるというのが正直な気持ちである。(南方熊楠顕彰館で橋元邦子さんのお話を聞いて一層そのように感じた)

熊楠という人物像をもマンダラ的に捉えることで、熊楠の民俗学者、植物、生物学者、社会活動の根底にある思想や、それぞれの分野同士の相互関係が見えてくるのではないだろうか。

3-2,「曼荼羅の中に立つ人間の視点」と「観察者の視点」

鶴見氏や松居氏などによって様々な解釈がなされてきた南方の学問であるが、南方自身の言葉に沿って考察を深めた小田氏の分析によると、南方曼陀羅の線描図には、「ふたつの主観的なまなざし」が存在するという。「「事理」が絡み合う線描図の中心に立ち、「萃点」を手がかりに世界の「理」を見極めようとする図中の「人間」としてのまなざしがひとつ」と、「その「人間」もろとも世界の「事」どもを俯瞰している、線描図を見る観察者のまなざし」のふたつである。29

これらふたつの視点についてそれぞれ見ていきたい。

3-2-1,観察者の視点

小田氏による考察では、奥山直司氏が考察する「この世は舞台」論を用いながら、熊楠が持っていた観察者の立ち位置について迫っている。「世界は、それと主体的にかかわる自己のありようひとつで、どのようにでも変容しうる。(中略)芝居の観客になることもできれば、役者となって役を演じることもできる。あるいは、観劇を中断して家に帰ることさえ自由なのである」30。

そして、南方自身が芝居とどのようにかかわるかについて、「南方はメタ演劇の立場に立とうとしている」と述べ、南方と芝居のあいだに設けられた距離は、観察対象と観察者の関係性に設けられた距離であるとしている。「南方の興味は、もっぱら「活物」の生成変化を観察し、「事実に応じて順序を立てて分るように述べ」ることにあった」とし、「顕微鏡を介することで観察者としてのみずからの立場を楽しむことができた」という。

この観察者の立場を楽しみたい、観察者の立場で世の中を紐解きたいという欲求を熊楠が持っていた点は、世界をどのようなフィルターを通じて探究するかという意味において重要な視点であると感じた。

また、ご進講を行った昭和天皇と、「粘菌」という研究テーマが重なったのは単なる幸運や偶然ではなく、皇室が続いてきた2700年以上の超長期の時間軸で、地球や日本、さらには生命や人間について天皇が研究していた視点と、熊楠が観察していた世界を視る視点の高さ・視座・座標が部分的にでも重なっていたからではないかと思うようになった。(「なぜ天皇家は生物学研究を行うのか」というテーマで別途自由研究中です)

3-2-2,曼陀羅の中に立った人間の視点

南方の実際の言葉には、「人間を図の中心に立つとして」という解説があり、この部分から南方曼陀羅の線描図には人間という視点が想定されていると考えられる。

粘菌の活動の中にマンダラ的な生命観を見出していた熊楠は、「生命をその内側から見るという、認識の離れ業」として、この内側の視点を持っていたと指摘するのが中沢氏だ。中沢氏によれば「たんなる観察者の立場にとどまっているかぎり、マンダラとしての生命システムの本質は、ついに理解することはできないだろう」とし、「マンダラに「入る」ことができなければならない」という。「森は、その中に踏み込んだ人間に、容易に観察者の立場に立つことを、許さない」31という言葉通り、熊楠は、那智の深い森でマンダラに入っていたのだろう。

3-2-3,まとめ

雲藤氏が考察するように西欧への対抗意識があった32にしろ、中沢氏の言うように西洋の自然科学の限界を乗り越えるための試みであった33にせよ、西洋の近代科学ではこぼれ落ちてしまうものを捉え、それを包含するモデルを創りあげようとした点に価値があると考える。私たちが生きていく上で本当に大切なものが何なのかを時代を超えて問いかけ、共に考えるよう求められていると感じた。

そして、「観察者の視点」と中に入り込んだ「人間としての視点」の両方を往復できるというこの2つの視点を持っていることが、近代化や資本主義が行き詰まりを見せ、ポスト資本主義の新たなあり方を模索している我々を自由にしてくれる大いなるヒントなのではないかと感じている。そしてその複数の視点は、自由をもたらすだけでなく、私たちが長期視点で物事を考えたり、意思決定したりしていく上での「美意識」や「倫理観」も支えてくれる軸足となるだろう。

4,まとめ

今回のレポートを通じて、南方のマンダラ思想が生まれる背景にあった熊楠の「問い」を一部ではあるが受け取ることができたように思う。南方熊楠と同じ日本という土地に生まれ、南方のマンダラ思想に出会ったのも、何らかの因果と縁起が交わったからだろう。当時からはるか未来を見据えていた熊楠の「問い」を、時間を超えて僅かでも引き継いでいきたいという想いである。

企業に勤めながら社会人大学生として仏教・日本思想を学ぶ1人の人間として、自分自身のフィルターを通してそれらの「問い」を眺めたとき、現代への架け橋としてどのような可能性が見えるのか。日頃、「我々はいかにして良き祖先になれるか」34という視点で未来を考える仕事に携わる私にとって、今回読み取った熊楠が向き合った問いの数々は非常に示唆に富んだものであると同時に、時を超えて現在も共通するものであると感じた。

熊楠が繰り返し述べているように、また密教の教えでもそれを重視するように、思想は実際に社会に役立ててこそ意味がある。次のステップでは、熊楠のマンダラ思想から受け取った問いに対する行動をいかにとっていくかに向き合いたい。実際に行動する際、(熊楠がそうだったように、)正しく力強い課題意識と問いの数々は、北極星のような拠り所となってくれると思う。

「人生に至高の楽しみをあたえるための極意として考えだされたものなのだ。「南方曼陀羅」。まさに、楽しみは尽きることがない。」35という中沢氏の言葉に好奇心を刺激され、南方曼陀羅を楽しむ入口に立つことができた。

「大乗は望みあり。何となれば、大日に帰して、無人無休の大宇宙の大宇宙のまだ大宇宙を包蔵する大宇宙を、たとえば顕微鏡一台買うてだに一生見て楽しむところ尽きず、そのごとく楽しむところ尽きざればなり」(明治三十六年七月八日書簡、本書二八四頁)

彼が向き合った問いと合わせて、熊楠の希望や喜びが溢れるこの言葉のように世界の探究を楽しむ姿勢も受け継ぎ、「我々はいかにしてより良い祖先であれるか」という問いに引き続き向き合っていきたい。


おわり🐻🌳


こーんなに長い文章を
最後までお読みいただけて嬉しいです!
よかったらいいねもよろしくおねがいします☺️✨


脚注
1「 中瀬喜陽『別冊太陽 日本のこころ 192 南方熊楠 森羅万象に挑んだ巨人』平凡社 2012 年 p70

2「 鶴見和子『南方熊楠』講談社 1981 年 pp.115-116

3「 雲藤等『南方熊楠と近代日本』早稲田大学出版部 2013 年 pp..203-204
4「 明治三十六年(1903)七月十八日付土宜法龍宛南方熊楠書翰、『土宜往復書簡』三一九~三二〇頁 5「 雲藤等『南方熊楠と近代日本』早稲田大学出版部 2013 年 pp..206-211
6「 雲藤等『南方熊楠と近代日本』早稲田大学出版部 2013 年 p.189
7「 雲藤等『南方熊楠と近代日本』早稲田大学出版部 2013 年 p.189
8「 株式会社 COTEN ホームページ https://coten.co.jp/ 2024.7.30 参照
9「 鶴見和子『南方熊楠』講談社 1981 年
10「 雲藤等『南方熊楠と近代日本』早稲田大学出版部 2013 年 p.10
11「 雲藤等『南方熊楠と近代日本』早稲田大学出版部 2013 年 p.7
12「 雲藤等『南方熊楠と近代日本』早稲田大学出版部 2013 年 p.7
13「 雲藤等『南方熊楠と近代日本』早稲田大学出版部 2013 年 p.351
14「 中瀬喜陽『別冊太陽 日本のこころ 192 南方熊楠 森羅万象に挑んだ巨人』平凡社 2012 年 p70 15「 中沢新一『森のバロック』講談社 2006 年 p.334-335
16「 中沢新一『森のバロック』講談社 2006 年 p.337

17「 雲藤等『南方熊楠と近代日本』早稲田大学出版部 2013 年 p.9
18「 土宜法龍宛南方熊楠書翰 明治三十六年(1903)七月十八日付『往復書簡』三一九~三二〇頁
19「 雲藤等『南方熊楠と近代日本』早稲田大学出版部 2013 年 pp..203-206
20「松居竜五 南方マンダラ」『別冊太陽 日本のこころ192 南方熊楠 森羅万象に挑んだ巨人』平凡社2012年p.101
21「 中沢新一『森のバロック』講談社 2006 年 pp..304-305
22「松居竜五 南方マンダラ」『別冊太陽 日本のこころ192 南方熊楠 森羅万象に挑んだ巨人』平凡社2012年p.99 23「 土宜法龍宛南方熊楠書翰 明治三十六年(1903)七月十八日付『往復書簡』
24「 南方熊楠顕彰館編『世界を駆けた博物学者 南方熊楠』2006 年 pp,.21-22
25「松居竜五 南方マンダラ」『別冊太陽 日本のこころ192 南方熊楠 森羅万象に挑んだ巨人』平凡社2012年p.99
26「 小田龍哉『ニニフニ 南方熊楠と土宜法龍の複数論理思考』左右社、2021 年 p.219
27「 土宜法龍宛南方熊楠書翰 明治三十六年(1903)七月二十日付『往復書簡』三四七頁
28「松居竜五 南方マンダラ」『別冊太陽 日本のこころ192 南方熊楠 森羅万象に挑んだ巨人』平凡社2012年p.102
29「 小田龍哉『ニニフニ 南方熊楠と土宜法龍の複数論理思考』左右社 2021 年 p.218
30「 小田龍哉『ニニフニ 南方熊楠と土宜法龍の複数論理思考』左右社 2021 年 p.60
31「 南方熊楠 中沢新一編『南方マンダラ』河出文庫、2015 年 pp..315-316

32「 雲藤等『南方熊楠と近代日本』早稲田大学出版部 2013 年 p.394
33「 南方熊楠 中沢新一編『南方マンダラ』河出文庫、2015 年 p.15
34「ローマン クルツナリック『グッド アンセスター わたしたちは よき祖先」になれるか』あすなろ書房2021年
35「南方熊楠 中沢新一編『南方マンダラ』河出文庫、2015年pp.46-47



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