見出し画像

【吉備路を往く③】岡山県知事三木行治氏が戦争を偲んでつくった大仏のはなし

三木行治。この名前を聞いた岡山県民は誰もが「ああ、三木さん」という。私はこの人を知ってるから、ことあるごとに「三木さんはどんな人ですか」と聞く。ある人は彼を「後にも先にもいない、偉大な政治家である」と言い、ある人は「福祉と慈愛の先駆者である」と言う。

三木知事について

三木行治は医者であったが、厚労省に勤めてから頭角を現した。第二次世界大戦後、県民に請われる形で県知事選に出馬。戦後の選挙で2代目の岡山県知事となった人物である。彼の主導のもと、岡山県は急速に成長した。
児島地区の干拓により農業生産は増加、塩田のあった水島にコンビナートを誘致、県中部北部にも工場を次々に誘致、瀬戸大橋の計画推進、福祉施設の充実と発展、角膜移植のためのアイバンク設立、変わりゆく家族形態に適応した団地の造営、岡山国体の実施…。
稲作・塩作り・イ草作りなど農業を主体とした土地であった岡山は10年の間に様々な産業が入り組んだ経済圏へと発展し、瀬戸内地区の中でも特に発展した地域へと変貌した。
1955年に6万5000円だった県民の平均給与は、1964年には12万4000円になり、ほぼ倍増。成長率は国全体では7%のところ、岡山県では11%と、他県に比較しても伸びていた。

 水島緑地福田公園内の三木知事の銅像

これらの改革の根源となったのは、三木さんの「誰もが健康で幸せに暮らせる」世界を実現するために行動した結果であった。

今回、三木さんの事跡は数えきれないほどあるが、その中でも少し忘れられたような、ひっそりとして、しかし後世に語り継ぎたいエピソードを紹介しようと思う。

大仏の建立とその変遷

太平洋戦争中、もっとも悲惨な戦場となった地のひとつ、ビルマ戦線。ここでは多くの将兵が命を落とした。岡山からは6000人近くの若者が出征し、戦後生きて帰ったのは400人足らずだったという。

1960年代、アジア善隣国民運動が盛んだったころ、三木知事は全国の代表としてビルマに赴き世界仏典結集大会に参加し、鎌倉大仏を参考にした大仏をビルマに送った。1960年1月11日の山陽新聞(岡山ローカル誌)には「三木知事ら、けさ羽田をたつ」という記事が載っている。三木知事は新聞の取材に対し「このたびの日本国民の友情が両国関係の好転の一助になるようつとめたい。」と述べている。
三木知事はこの際、戦跡を辿ってビルマの土を取り、聖土(シッタン河の霊砂)として日本に持ち帰った。

3か月後、三木知事はビルマとの経済・文化の交流・親善を図るために、岡山日本・ビルマ文化協会を設立した。この際、ビルマ戦線で散った将兵を供養するための、先に送った大仏と同じ形の「ビルマ大仏」を作る事が盛り込まれた。

そして時は流れて1963年、岡山市内を一望できる笠井山の山頂に白いパゴダビルマ様式の仏塔)を建て、そこに完成した大仏を安置することになった。

1963年10月8日、シェイン駐日ビルマ大使を招き、大仏の開眼供養が行われた。当日の山陽新聞には「秋晴れの空にそびえる高さ12mの白銀のパゴダ」という記載と共に、白いパゴダの写真が添えられている。大仏の本尊には三木知事が持ち帰った「聖土」が戦没者5311柱の霊として納められた。

さて、さらに時は流れて2000年。それまで大仏とそれを安置するパゴダは、ビルマから生きて帰った兵士400人と戦死者遺族、仏教界によって守られていた。だが時は残酷なもので、遺族の高齢化が進み、岡山平野の北端に位置する険しい山頂にあるパゴダに足を運ぶことが難しくなってきた。
蓮昌寺史によると、世話をしていた方が亡くなったこと、遺族の高齢化を理由に、岡山の仏教寺院の中でも宗派を超えて存在できる蓮昌寺に大仏を安置することになったという。
そこで現在、ビルマ大仏は蓮昌寺大仏殿釈迦堂(開山堂)に安置されている。

パゴダについて

さてここからは私自身の体験の話。
まずパゴダについてだが、蓮昌寺史などを参照しても取り壊された形跡がない。グーグルマップを衛星写真にして見ると、木々に埋もれつつあるパゴダの姿を見る事ができた。また2009年にお二人の方が、笠井山パゴダについてブログに残されている。

このほか、一昨年2022年の記録として、ヤマレコというサイトにパゴダに訪れた人の写真が掲載されていた。

こうなると、足の重い私も自身の目でパゴダを観たいという思いに囚われた。しかし私も病身であるから無理はできない。慎重に日程を設定し、去る2024年2月12日に山登りをしてきた。

この平家の落人が隠れ住んだとされる山には山腹から山間の沢を辿るように集落があり、外界とは自動車でしか接続されていない。公共交通機関も皆無である。

行程2時間半、冬の晴れ間の眼下に広がる岡山市街地の風景に感動する。笠井山山頂からの景色である。

笠井山山頂展望

パゴダは、笠井山山頂までの道のりを脇道に入った場所にあり、側には戦中満州に送られた義勇軍を祀る碑もある。少し分け入った場所にパコダを管理する小屋らしきものがあり、その奥にパゴダの白い塔が、木々の間から見えている。

木々にうもれつつあるパゴダ
パコダ正面から

「白銀の」と書かれたパコダも、60年の歳月により風化し、入口の扉は塗装が剥げて錆びついている。「1963年にここで大仏の開眼供養があり、駐日ビルマ大使を招いたのだ」と言われなければ、ホラーゲームに出てきそうな、少し怖い印象を受けるかもしれない。

約40年間、帰還した兵士や戦災遺族らが毎月例会を開いていたという。しかし今は帰還した兵士も年老いて、遺族も2世となった。そのため市街地から離れた山上にあるパゴダはあまりにも不便だということで、大仏だけでも街に移そうという動きが出ることになる。

蓮昌寺とパゴダ大仏について

さてここで仏住山蓮昌寺について触れねばならない。岡山市街地の中心にある蓮昌寺は、1344年に創建とされる日蓮宗の寺院である。室町期以降この地方では日蓮宗が盛んに信仰され、江戸時代になって池田家が弾圧してもなお隆盛は衰えなかった。最盛期で檀家は7000を超えたという。昭和初期において、蓮昌寺ほどの威容を誇る日蓮宗の寺院は関西以西には存在しなかった。
しかし、1945年6月29日の岡山空襲で、疎開していた大曼荼羅を除く全ての伽藍を焼失した。現在は復興され、保育園を運営するなどして賑わいを取り戻しつつある。

このように、蓮昌寺は岡山地域において仏教界の超宗派的寺院として存在しており、ビルマ大仏を遷座するにはうってつけの地だったのである。

2000年10月、ビルマ大仏は蓮昌寺開山堂に遷座され、開山堂は「大仏殿釈迦堂」と名を改めて、現在に至る。

私は2024年2月16日、蓮昌寺を訪れて大仏を拝観させて頂くことができた。寺に行くことができる人なら誰でも無料で拝むことができる。

これぞ故三木行治知事の願いのこもった、歴史あるビルマ大仏である。
高さ1.0m、重さ150kg、ブロンズ製の仏像である。製作は、後に梵鐘の分野で人間国宝となる香取正彦氏によるものである。
大仏殿に遷座された仏像は、現在はパゴダ大仏と呼ばれている。私はここで「どうか以降も日本と世界の平和をお守りください」と祈念した。その後少しの時間をお借りして、前住職からお話を聞くことができた。

現在はパコダ大仏と呼ばれている

現在蓮昌寺は毎月8日に例会を開き、戦災遺族らと共に世の平和安寧を願っている。毎年4月8日が大祭で、多くの方が訪れる。

また、新たな供養施設の建設に伴い、大仏は大仏殿から寺内で移動する予定があるという。
前住職とのお話で、私自身も多くの人にこの大仏の存在を知ってほしいと思ったし、何より大仏についての知識を深めることができた。

おわりに

三木知事は、この大仏の開眼供養の1年後、急死する。彼の平和への願いは、後世に生きる人に託されたのである。
私はこの大仏について、戦後の急速な復興と共に忘れ去られていく戦争という負の記憶に楔を打ち込むものであると考える。
前住職との話では、毎月の例会に参列される方も、もう戦争を知っている人はおらず、2世がほとんどだと言う。それも今後の社会構造の変化で年々参列者は減るだろう。

私のこのシリーズ、「吉備路を往く」では、この岡山の地において、長い時間の中で徐々に消えていく弱い光に、もう一度スポットを当てたいという気持ちで書いている。それは戦争の記憶を残し、思いを次世代に繋ごうとして三木知事や先人の気持ちをなぞるものでもあると思う。
私は今後も、図書館などの情報を少しずつ集めて、今回のような記事を執筆したい。

次回は、岡山の歴史の中でも「暗部」ともいえる、闇の深い物を取り上げる予定だ。
どうぞお待ちください。

三木知事の思いを・・・


この記事が参加している募集

インターネットを渡り歩いてまだ6年、色々なカテゴリを楽しみ、「消費者」として生きています。 そんな文化の消費者の毎日思ったことアレコレを書いていきます。雑記。