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わからないアートと格闘!楽しめるか己と対決してみた

---------------プロローグ---------------

「美術館に行ったって、どうせ分かんないし、楽しめないよ」
これ、正直ごもっともだと思う。

なぜかって、美術検定のためにアートを勉強し、定期的に美術館に足を運ぶたわたしですら、そう思ってしまうことがあるからだ。

特にハードルが高いのが抽象画。
人物画や風景画は描いてあるものが具体的なのでスッと頭に入ってきやすい。
しかし抽象画となると、そもそも何が描いてあるのかすら分からないことがほとんどである。
「ほい、あとは自分でお好きに感じなされ!」と、作品や作者から突き放されたような気持ちになることもある。

わたしは特に兵庫県立美術館のコレクション展で、「わかんね~」とガックリくることが多かった。
例えばこんな感じの作品である。

ずっと苦手意識を感じていた。

しかし、先日森美術館で、今まで苦手だった種類のアートを案外楽しめたという体験をすることができた。
わたしの感受性が成長したというより、森美術館の展示方法がナイスだったからなのだが、とにかく楽しめたということが小さな自信になった。

▼その時に書いた記事。

「苦手なアートと向き合ってもいいかもしれん」
うっすらと前向きな気持ちが生まれていた。

兵庫県立美術館から挑戦状(?)が届いたのは、そんなタイミング。

「具体」展をやるだと…?!
具体(具体美術協会)とは、戦後に吉原治良(よしはらじろう)を中心に結成されたアーティスト集団である。

わたしにとって「具体=よく分からん絵を描く集団」というイメージだった。
なんせ、具体というグループ名なのにもかかわらず、彼らの作品のほとんどが謎めく抽象画なのだ。

どうしようか……。

ふと見ると、展覧会のタイトルが、「今こそGUTAI」である。
「今こそ」か。
コロナ禍の大変な社会状況を指して「今こそ」と名付けられたのだと思うが、その瞬間わたしには「今こそ、楽しめるかどうか対決の時!」と読めた。

腰を上げ、事前にきちんとオンライン予約をし、わたしは兵庫県立美術館へ向かった。
具体の作品を楽しめるかどうか、自分自身と格闘してみようと思ったのだ。


---------------鑑賞レビュー---------------

唐突だが、印象的だった作品の感想。

木梨アイネ

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わたしのなかで今回ポイントになった作品。
マルが3つポン、ポン、ポーンと並んでいる。
「絵の中にリズムがある!時間や空間がある!動きがある!」と思えた。
この作品に限らず、具体の作品って、空間や時間の流れを想像させるものが多いぞと気づけたことがデカかった。
とはいってもこの作品がかなり展覧会の後半に出てくるので、この発見に気づいたのはかなり遅かった。願わくば冒頭にいてほしかった。笑


田中敦子

今まで何回も田中敦子さんの作品を見てきたが、その度にどう見ていいのか分からなくて困惑していた。

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しかし今回「田中敦子さんの描くマルはおそらく電球だ」という新情報がもたらされた。しかも写真で。
こういう情報をひとつもらえると、とっかかりができて急に作品に親しみやすくなるから不思議だ。

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電球の絵と思って見ると、他の電球とつながったりグループになったりしている様子が面白い。響きあっているように見えてくる。光っていない電球すらアクセントになっていていい。

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黒一色もかっこよかった!


白髪富士子

今回知れてよかったアーティストNo.1!
とにかくオシャレで品がある。カラーや形も一歩引いているものが多い。大暴れしてない。おしつけがましくない。なのにむちゃくちゃ存在感があるのだ。
「具体」というグループの枠を取っ払ったとしても、トレンドに左右されずにこの先もずっと残り続けそうな作品ばかりだと思った。めちゃ好み。

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---------------エピローグ---------------

特に印象的だった3人の作品を紹介したが、他にも心に残った作品はいっぱいあった。

どうなんだろう。なんだかんだ楽しめたと思う。
「己との楽しめるか対決」には、勝利したといってもいい。

作品に対して「わから~ん」でシャットアウトせずに、一歩踏み込んでみようという気概はキープできた。
特に田中敦子さんの作品を楽しいと思えたことは、個人的に大きな前進だった。

でも、美術館から出た直後は確実にオーバーヒートしてた。
コンフォートゾーンを完全に飛び越えて、普段使わない脳や心の部分を動かしたから、結構グッタリしてしまった。笑


具体の合言葉は「人の真似をするな!」だったという。
誰も見たことのないような作品づくりに価値を見出していたらしい。
未知の作品。そりゃ鑑賞者の脳はかき回されるよね。

それを今まで「分からん」の一言で片づけて遠ざけてしまっていたけど、楽しんでやろうという心構えでタックルすれば新しく感じられるものもあるもんだなと学べた。


人間って「見る」生き物だと思ってた。
しかし具体は「見る」よりも、人間の「見せる」「見られる」部分に興味を持っているように思えた。

人間ってそもそも何よ。自分のことですらとらえどころがないのに。
そんな曖昧な「人間」ってものをなんとか形にし、「見せる」試みを具体はやっていたんじゃないだろうか。

わたしが今まで具体の作品が苦手だったのは、勝手に自分は「見る」側だと思っていたのに、具体によって「見られる」側でもある自分を意識させられるからだったのかも。
そんなことをなんとなく思ったりもした。


自分から遠いと感じるアートを楽しもうとすると、普段考えないようなことも考えたりして、自分の裾が広がっていくような気がする。
これからも、色んなジャンルのアートにタックルし続けたい。

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