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連載小説。⑧「網代裕介」

 何かのはずみに傷つく私の「傷ついた」という顔が、人を辛くさせることを自覚していた。我慢し、傷ついていないという顔をする。その頭痛を堪えているような表情が私をいまにも壊れそうに見せてしまう。それを自分でよくないと思うのに自分でもどうにもできない。
 こっちへ寄るなとヒステリックな気持ちで頭を抱えることがよくある。意識がふと途切れるような頭の痛みをいつもどこか遠くに感じている。しょうがないと溜息をついてみせるとか言い訳だとか偽ることで自分を守るとか…そんなごちゃごちゃした乾いた塊を飲み込めと迫られている。髪を掴まれ顔を押さえられた。顎を掴まれ口を開けている。息が苦しくて呼吸がしにくい。大きなものが喉を塞ぎそこで止まっている。そういう気持ちが続いたりする。

 同室のベッドでベルトの留め金をカチカチ鳴らしている老人にも正月には息子だという人がやってきて、事務的にどこかへ行った。誰もいないのは私だけだった。家がないから病室にあるものが私の荷物のすべてだったが、その量や質がいい気な我儘に見えてしまう。誰にでも優しい人と評判だったし、「整形したって本当なの?あの看護婦に聞いたんだけれど」と卑猥な顔つきである女性に尋ねられた。そういうことを思うべきじゃないと思うのに、女性の視線を感じると、コンプレックスを意識する。自分が孤独で、心細い存在だというが時々ありありと見えて苦しくなったが、それは時々だった。それよりも、自分の月並みじゃなさが劣等感になった。自分を惨めだと思うのに、いいシャンプーを使う良い匂いの華やかな女性に人に見えてしまう。自意識がいつもぐらぐらと落ち着かず、こんがらがった複雑な自分をなにさまだ、いやらしいと思った。

 網代君のお兄さんはお母さんの連れ子だから血のつながりはない。なんでも顔が伊集院光に似ていて、伊集院光のように博識らしい。網代君はお兄さんの博識ぶりを「下手したら伊集院光よりもすごいかも」と表現した。大学院の時からの彼女がいたけど別れてしまったのだとだと淡々と説明した。網代君は時々実家の経済について心配していた。次の固定資産税は払えないかもしれないんだ、俺ももう帰る家がないかもしれないと歯を見せてはにかむように笑ったりした。

 小銭を持ち、よく網代君と歩いたものだ。常に鳥の声が聞こえるのに鳥の姿を見ることはそんなにない。空の高く、私たちの頭上を大きな鳥が飛ぶ。しかしそれは単に鳥の形の黒いシルエットだ。大きな鳥の影が空のずっと高いところを飛んでいくのを見る。太陽が垂直に近い真昼なのに、そうだろうか?と疑うような気持で歩いた。
横断歩道の信号はなかなか変わらない。やけに大きなトラックがたくさん通る道だった。明度も彩度も低い大きなトラックが立て続けに目の前を通る。たまに楽天のロゴのようにダサくて安いイラストが描かれた赤いバスが通っていった。目の前を青いオーバーオールを着たトラが笑顔で両手を広げているイラストが通り過ぎていく。人の人生を疑わせるくらいのあまりにも安っぽいバスなのだ。

 網代君の冗談は排他的で面白かった。私たちはよく喋り、ゲラゲラ笑った。私も網代君を笑わせたくて排他的になったし、網代君もどんどん排他的に攻撃になっていくのだ。

 あの頃の景色も音もみな、不思議とどこかが閉ざされ、私から切れ切れに隔てられている。雨が降り緑の葉の表面は濡れているのに、遠さや乾燥を感じさせた。車のクラクションも小学生の歓声も、その切迫したヒステリックさを失っていた。小学校の廊下の隅で火災が発生し、煙が湧き上がり、火災警報器が鳴るのに、その音は緊急さが欠けている。にやにやしながら、「どうも足がだるくって」と言いながら、教師も生徒もゆっくり避難していきそうな感じなのだ。 

 コンビニの隣の地主の家に大きな庭があった。道沿いの黒い垣根のそばに黄色い花が咲いていた。見覚えのあるありふれた花だと思うのに、名前を知らない。網代君に花の名前を知っているかと聞くと、雑草だろうと答えた。私は、そういう感じに見えないけどと言ってまた花を見た。その花のしっとりとした花びらの水分を、触った記憶はないというのに、いつでも自由にその花びらの水分が指に蘇えってくる。

誰をも運命が追いかけるし、襲い掛かる。それに捕まり、飲み込まれ、支配されるという不幸な災害の中に誰もがいるしかないし、そうやって懸命だと理解したことが、フラッシュバックをなくしたりしなかった。つっと、こめかみを押さえ、吐き気を我慢し目を数秒閉じる。持っていたグラスを壁に投げつけようとする。破壊したくてしょうがないのだ。
 フラッシュバックは夜中に悪夢となって起きることもあった。夜の病院の一室で清潔な毛布を掛けて眠っているのに、自然と肉体的な変化が起きる。ビーカーとフラスコと試験管があり…化学反応が突然始まるみたいに。体積が増えていき、その体積は理科室をより大きくなって、ドアからあふれ出して止まりそうもない…そういうふうに、だ。

 「それこそがお前の運命だろう?さもひどい目に遭ったという顔をしてみせ、誰も彼も味方にしようと画策してまわり、うろうろと定住しない。諦めの悪いのはお前じゃないか!純粋でいられる運の良さまで不幸だと嘆いてみせて、憐憫を乞う顔つきで!その顔つきが気に入らないね!」
 たまに夜中に廊下の椅子に俯いて座っていた。身の置き所を探してうろうろし、ここかもしれないと期待し、座ってみるのだ。後悔なんて邪魔だと思う。後悔が役に立たないことをとことん知っている。

 遠くで冷たそうな大きな「白」が横切った気がした。一瞬だったが包布を抱えた網代君だとわかった。以前、三角巾をしたヘルパーが口にした「〇〇」とは…失禁の意味なのだと納得した。
 仕方がないと飲み込むだけだとわかっているのに…緊張が高まり…私の外側と内側が混じってしまいそう…嘘をつく以外にどうすればいい?と泣く病人の悲しみが私に侵入してしまいそう…。寒い気がして震えてしまうのをどうすればいい…?

 気づくと、網代君が私の隣に座っていた。一瞬顔が見えた。我慢して笑っている男の子のようだった。
「君の腕に僕の指を付けてもいい?」
私は首を下に傾けた。首肯の意味だ。すると網代君は右手の人差し指、中指、薬指の三本を軽く揃えて私の腕の上に置いた。自分の皮膚がビビッドだ。網代君の三本の指が置かれたその箇所、その境をとても意識する。私の体のうち、そこだけが鮮明だ。何もかもが夜中の暗さの中で、光なんてない。私の顔も網代君の顔も暗い陰になる。網代君の体に境があり、私の体の境と触れている。それが私の境だと思う。そういう発見をしたと思った。
「網代君、あの、もっと…私を網代君に抱きしめてもらいたい」。
網代君の黒い影のような顔を見上げて言った。
「そうしたいけれど、もしそうしたら、俺は君にキスしてしまうし、君を裸にして、もっといろんな場所に触りたくなるだろうし、舐めたくなったりする。本当は手だけではなく、唇や舌で触れたい、舐めたいんだ。だから駄目なんだ。指は温かい?」。
なるほど…そういえば私も網代君の薄いブルーのパジャマを脱がせたい。その体をしっかりと触ってみたい。唇や舌でそうやって、触れたり、舐めたりしたい。
 網代君と私はそんな会話をしていたが、その間も網代君の三本の指は私の腕の上にあった。その境に二人とも気持ちが集まっていたと思う。
「確かに、すごく温かいって思う」
私はそう言った。そう、その境がとても温かくなっていた。

網代裕介⑨

小説を書きながら一人暮らしをしています。お金を嫌えばお金に嫌われる。貯金額という相対的幸福には興味はありませんが、不便は大変困るのです。 ぜひ応援よろしくお願いします!