見出し画像

連載小説。仮題「網代裕介」⑨

 私がスタッフのひそひそとした会話によく登場したのは仕方がなかったのかもしれない。私だけが朝から夕方まで外出し、髪の毛を染めて病棟に帰ってきたりした。たまにネットカフェで1日中寝ていたこともあった。S医師は私に依怙贔屓をした。それは関係のせいというより、教育的な気持ちからだ。特別な扱いがその時の私にはおそらく必要だった。けれどそれは私に副産物をもたらした。しばらく自意識を持てあました。あの快感を知っている幼女みたいな苦しみと似ていたかもしれない。

 崩れそうになることがよくあった。とてもいいことを言う人が、そのまま平たんに嘘をつく。恥ずかしそうな様子もなく落ち着いているその人に驚いてしまい、体を組み立てている部品がバランスを崩し、その支え合う均衡が破られ、皆バラバラに崩れて落ちる…その均衡を破る臨界点が目の前だという緊張状態が続く。その緊張した顔のまま、S医師の診察室入ることがあった。
「意地悪そうな顔で罵っていたもの同士が嘘に見えない笑顔で共感し合ったり、全くそう思っていないことを、自分は真にそう思うという顔付きで言うのを見る。どうもね、傷ついちゃって仕方がないの」
S医師が黙って少し口を歪めて、そんなことかというふうに笑おうとした。私はついに黙って涙をこぼした。涙の雫が落ちていく。決壊が破れ、どうにも涙を止められない。けれど誰にもしがみつくわけにはいかないと思う。
「泣くのは一人で泣けよ。俺を、巻き添えにするな」
そう言って、私の膝の上にティッシュの箱を投げるように置いた。目の血管が赤い。その赤さがどんどん増していく。私は箱からティッシュを引き抜きながら「えー」と言って笑った。
「さとみ(私)、ハウス!」
S医師の作った冗談だ。やっと笑ってS医師の顔を見る。S医師はこっちを見るなよと言いたそうに笑う。そそくさと病室に戻り、ベッドに滑るように入り、毛布を頭まで掛ける。毛布の中もそう暗くはない。その中でなんとなく目を開けたまましばらく過ごす。

 網代君や網代君と共にいるときに流れているものは、そういった嘘と対照的なものに思えた。何を指して対照的だと思うのか自分でも説明できない。けれど網代君にまつわるものはすべてが私の快だった。傷つかない。張りつめない。硬くない。清潔な柔らかい布があり、それにくるまれ、もうこれでいいと安心するような感じだった。

 1階の検査室の前のソファにやはり網代君と私はよく座っていた。主治医が通るのを待つ菊池さんと並んで座る。菊池さんはよく室内履きを脱いで裸足で座っていた。室内履きを踏みつぶして裸足の足をその上に置き、甲の形や皮膚の色について私たちに説明したりした。私はショートカットの子供っぽい菊池さんの顔を眺めながらその話を聞いたものだ。着てみたい服や、男性を好きになる気持ちなどについてが私と菊池さんの会話の主なテーマだった。

 菊池さんはたまに大声で色んなものを罵倒していた。目に入るものすべてが罵倒の対象だった。主治医が来て叱る。看護婦が来て機嫌を取るようなことを言う。婦長が厳しい顔でルールを守るように言う。今日の午後のお風呂に入らなかったら今度こそ転院させると言われたりする。私と網代君はそれについて何かを言うことはなかった。ただ、私には網代君が「菊池さんの気持ちもよくわかる」と思っていることがよくわかった。そして私もそう思っていた。

 菊池さんは突然あっさりと、その場を離れる。例えばアイスを食べ終わると、何もかもが私の仕事のうちだからといった雰囲気でその場を離れることもよくあった。
 他のフロアの患者もそこに座ることがあった。数人の男性が集まり、私はその性欲の塊の中に押し込まれているような被害感を感じることがあった。いつしか網代君は私に庇護的になっていた。歩く、座る、視線を動かす。どのような動作にも網代君の意識があった。ある一本の線がそこには通っているのが私にはわかった。気配に敏感になり、気配を感じると私の体の周りに視線を走らせる。目を転じる。座る、場所を変えるにも、網代君の意識が置かれている。網代君の意識がすうっと動いていくその曲線だ。網代君のその意識を感じると私は体を抜け出したような軽さを感じ、安心した。それと同時に言いようのない気持ちがあった。網代君にものが言えないような気持だ。ふと口を閉じ、考えるが、何も見当たらないなと思う。そんなことがよくあった。

 網代君が私に兄貴と結婚しないかと言う。そして兄貴と結婚してくれと言い直す。網代君は淡々と私にそう言う。笑うわけでもないが、重苦しい話題について喋っているという雰囲気もない。面倒くさそうでもない。淡々と真面目に言うだけだ。けれど言葉もそこにあるすべてが丁寧だった。エネルギッシュだった。生まれてきてよかったと言うみたいだった。忙しいが乱暴に急いだりしない。丁寧にやる。私は網代君の文字をふと思い出す。空虚な馬鹿げた文字に見える。けれど好きな文字だ。軽くて滑稽で美しいもの。私はその文字をとても綺麗だと思う。美しいと思う。
 網代君の背は高く、ふと気づくと私に覆いかぶさるようだ。怖いとは思わない。網代君が覆いかぶさっていると気持ち良いなと気づいただけだ。

網代裕介⑩


小説を書きながら一人暮らしをしています。お金を嫌えばお金に嫌われる。貯金額という相対的幸福には興味はありませんが、不便は大変困るのです。 ぜひ応援よろしくお願いします!