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連載小説。④仮題:「網代裕介」

 栄養を摂り、ぐっすり眠り脳の細胞を育む。それが病気を治すコツだ。陽が沈むと、脳の神経細胞が伸び始める。神経細胞は曲がりつつ伸びていき、隣と繋がったり、絡み合い、ほどけなくなったりもする。
 静かな植木のその地中に伸びる根。鉢から抜き、その根が頑丈に、意固地に、憎たらしく絡み合うのを見た時、我に返り、心臓が脈打った。本音とか夫婦のセックスみたいなもの。脳の神経細胞はまるでそんなふうなものなのだ。
 消灯後の静かな病棟の様子を知ることは誰にも稀なことだった。睡眠薬がよく効くからだ。しかし私は3時間くらいで目を覚ましてしまう。深夜の1時とか2時に、暗いベッドでむっくりと体を起こす。同室のおばあさんのいびきが聞こえる。窓から外を眺めた。田園の夜景が見える。ここはよいホテルかもしれないと思う。もしたら私は居心地のいい、感じの良いホテルにいるんじゃないかしら?だってシーツの感触も素足にこんなにサラサラとしていて…。
 病院の土地は近所の地主のご厚意により格安で譲ってもらったものらしかった。私のベッドから光るスカイツリーが見える。地主の一人娘がどうかしたのかと心配になる。地主夫婦の一人娘の背負って生きる秘密についてあれこれ推測をして過ごした。

 お湯が出るのを毎朝待ちわびた。4時になるとデイルームのスポットライトに照らされながら、インスタントコーヒーをかき混ぜて飲むのだ。そうしていると、大学ノートを抱えた網代君が起きてくる。網代君はいつもの席に座ってノートを開き、古そうなボールペンで文字を書いている。
「網代君、おはよう」。
「コーヒー飲む?」
「これ、飲んでね」
網代君の空のカップに砂糖とクリープ入りのコーヒーを入れ、手元に押して寄せる。最初声をかけていい人なのかわからなかった。網代君はとても恥ずかしそうに返答した。今はまるで私に懐いているといった感じだ。
 網代君がノートに書いているのは企業名だ。キリン協和発酵株式会社…サンクチュアリ出版、株式会社Pストア…知らない企業名もたくさん並ぶ。文字は特に下手ではないのに、おかしく見える。空虚なバカげた文字にみえてくるのだ。この「田」という文字は一体何だったっけ…?という気分になる。丁寧に書かれた文字だというのに。
 網代君が真剣にそれを書く1時間の間、話しかけてはいけない。話しかけると、網代君は「うん、ちょっと後でね」と答える。網代君の席の近くに座り、コーヒーを飲む。網代君は先に飲み干してから、ノートに文字を書き続ける。私に見られながら網代君はノートに書き続ける。私は部屋の中を見渡したり、網代君を見たりする。たまに窓辺に立って、重い緞帳に似ているカーテンを少しめくると、誰も起きていなさそうな、暗かったり、早朝過ぎたりする空が見える

 エネルギーはとうに空っぽなのにドライヴが掛かる。とても変な感じだ。接している面の浅さ、そこを滑りまくる硬いタイヤみたいな感触に、場違いないやらしい声が口から出そうになる。関係もないのに唐突にそう思うのはこういう景色のせいなのだと合点がいく。腑に落ちるのはなぜだろう。思い当たるのはなんでなんだ。
 
網代君は私より一つ年上の46歳だった。偶然同じW大学の出身で、網代君は理工学部だったということだ。当時処女だった私は、夕方の文学部のキャンパスでT・レックスをイヤホンで聴いた。隣に背の高すぎるホテルが建設中だった。値段の高いホテルだろうと想像しながら窓から建設中の建物を毎日眺めた。ホテルの窓は閉まっていた。地面がめくれて茶色い。飛び降りようかな?とよく思った。処女を失う悪戦苦闘で疲れてもいたのだ。そんなことを網代君といると思い出したりした。

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