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連載小説。⑤「網代裕介」

 建物の1階には職員の休憩所や食堂、検査室がある。検査室の前に長いソファが2つ続いて並び、ソファのある壁の上部には名画のレプリカが立派な額に入れられ飾られていた。モネ、セザンヌ、ピカソ。モネは睡蓮のだし、セザンヌは幼い女の子のいつもの肖像画だ。ピカソは比較的写実的な女性の絵だった。そしてそれはとても素晴らしい絵だった。そのソファにいつも中年の菊池さんという女性が座っていた。菊池さんは痩せて背が高く、リュウマチを患っていた。子供のような可愛い人で、主治医を心から愛していて、主治医が死んだら自殺してしまいそうに見えた。菊池さんはいつも主治医が通るのを待っていたのだった。麦茶の満タンに入ったカップを抱えて、よく主治医を呼び止めていた。時には大声で叫んだり、背中を震わせ、泣いたりしていた。私は1階の自販機で買える最中のアイスが好きだった。そのソファの菊池さんの隣に座って、アイスを食べるのだが、最中は三つに割ることができたから、菊池さんと網代君と三人で分け合ってよく食べた。
 網代君は年中「俺は今君にいくらの借金しているのだろう?」と言っていた。網代君はそれ以上借金を増やしたくなさそうだったが、アイスや…飲み物への欲望に抗えないのだった。私が借金のことは気にしないでくれと言うと網代君が話し始める…
 なんでも網代君の生家は池袋サンシャインのすぐ近くの大きなお屋敷だったそうだ。網代君の実のお母さんはお父さんの浮気に大いに悩み苦しんでいた。ある雨の日の夜、お父さんの運転する車の助手席に座っていた網代君は、交差点でお父さんの握るハンドルに飛び掛かったらしい。網代君の入院中にお父さんは癌で亡くなり、今は池袋の中古マンションに、血のつながらないお母さんとお兄さんが二人で住んでいて…網代君の相続した遺産をお母さんが管理しているのだと言っていた。そして、
「おそらく君が俺より先に退院する気がするんだ。その時にうちの母に金のことを言うといいと思う。俺からももちろん言うし。退院後の生活の足しにもなると思って」
と言っていた。
 網代君はおそらく借金の総額はもう100万を超えているのではないか?と推測してみせた。網代君は多額の借金に悩んでいるようだったけれど、表情は借金苦に苦しむという顔ではなく、私と話すのが楽しそうだった。アイスを食べおえると、私は立ち上がり、自販機で無糖のアイスティーを買い、ソファに戻って足を組んで座る。入院患者は長い人が多く、みな田舎のスーパーで買うようなおかしなスウェットを着ていて、それをさほど気にしないのに、私は少しオシャレでカジュアルな普段着を着ていた。スリッパではなく、その年の夏に雑誌に載っていたサンダルを履いていた。網代君の着るものは無印のシンプルでスッキリしたものばかりだった。靴下や、おそらくパンツもそうだ。
 私はアイスティーの蓋を回して開けると、「はい」と言って網代君に差し出す。網代君は短い令を言うと受け取り、ごくごくと喉を揺らして飲むと私に返す。そして私もごくごくと飲むのだ。そうすることが当たり前の飲み方だというふうに。
 そのソファのそばにドアがあった。職員の使うドアだ。玄人らしい鉄の扉の通用門。そのあずき色のドアを開けて二人で出る。建物の周りを歩いて回った。網代君はパタリパタリと私の後ろを歩いた。
 周りは田んぼばかりだ。民家の背は低い。そして風がやけに強い。夏はその田んぼの表面を、尖った明るい緑の葉先をサーっと風が掠めて通っていく。何度も何度も同じように風が吹き、また葉先を揺らしながら通っていく。冬の初めに焦げ臭い匂いが充満していた。建物の周りにポツンと一人で立っていた髪の毛の茶色い看護婦に尋ねると、近所の農家が土地を燃やすことがあると言っていた。

 病院の門のそばに「ヨシムラ」という酒屋あった。雑誌やお菓子や飲み物、日用雑貨、パンやアイスが置かれた店だ。その店の店主は結婚したことがない独身の中年の男性で、店の外にはアダルトグッズの自販機が置かれていた。逞しく貧しい男性が女性を当然のように虐待して暮らす家庭がたくさんあるような街だった。女も相当なスケベで、そういうものだと暮らしていたりする。自分の運命はどうにもならないのかと息を吐きながら米を砥いでいたりもする。それほど家はないが、そんな家庭がありふれている街に精神科医が集まり、働いている。その一角で網代君も菊池さんも、私も暮らしていたのだ。

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