見出し画像

安心安全な場所はどこにあるのか

引きこもり小中学生と暮らす私は、今の世の中の動きを「やっとか」と思いながら眺めている。
不登校である子供に責める理由など本当はないことを把握していながら、義務教育を自ら放棄したかのようにしむける今の社会に苛立ち、それでも文句ばかりいっていられないからと子供たちの次なる居場所や学べる場所を探し続けていた。子供一人ひとり、特性も性格も恐いものも異なる。だから子供のことをよく理解しているのが保護者の私であることもわかっている。しかしだからといって私ひとりで解決できるはずがなく、子供に適した教え方、興味に寄り添った学びは専門家の力を借りたかった。
けれども現在の行政では資金が足りないとか人手が足りないとかで、ずっと私の子供たちは救われていない。困り具合のインパクトが薄いと判断されてしまった私の子供に救いの差し伸べられることはなかった。そして学力は人一倍遅れつつも、結局は自己責任であるという暗黙の了解を巧妙に隠されて、いつか挽回できるとか今はそれより生活習慣とか言われる始末である。

この世界情勢において、多くの子供が引きこもりを強要されることとなった。一度に多くの子供たちが困りはじめ、保護者の声も揃った今だからこそ「一刻も早くオンラインを整備するべきである」と世論が変わったが、不登校の子供たちだって、安心安全な環境であれば、当然自由に外の世界を楽しめるのであり、心底自主的に引きこもっている子供などいない。それなのになぜ、今、多くの子供たちは「外に出たいだろうに」と同情され、もともと不登校の子供たちは「もとからだし自分で選んでいたんだろう」という暗黙の目線があるのか。身近にいる不登校の人、引きこもりの人の困りごとに目を向けたことがあるだろうか。彼らがなぜ、その道を選ばざるを得なくなったのか、想像したことがあるだろうか。
そして、その傷つきが原因で外に出ることができなくなった子供たちの保護者がどんな思いで日々を暮らしているか、気にしたことはあるだろうか。
これ以上子供の心に傷を作らぬよう接し方を変えたり、安心安全な居場所を整えたり、なるべく干渉せず心穏やかな時間を増やせるよう心を配ったり、不安にならないように家のどこかに気配を常においていたり、大きな声や怒りを出さないように平常心であることを心がけている。聖人君子のような人格をもたなければ、子供たちの心は途端に乱れてこれまでの努力がすべて無駄になってしまうからひと時も気が抜けないような日々なのである。それが日常となり、聖人君子キャラでいる時間が増えていくと、段々に自分は本当に人格の整った穏やかで心の乱れない人間だったのかと思えてくる。だがそんなことは決してなく、ただ、自分の本心に蓋をして、自分の心の出口を自分で縫いとめて、なかったことにしているだけだ。
同じ境遇の人がいたとしても、気軽に愚痴ることなどできない。なぜなら愚痴った時点で「よくぞいってくれました」とばかりに誰かが対策を打ち出したり、自分のしてきた成功例が提示されてしまうからだ。そしてそれはほとんどの場合、結局保護者である私がなにか新たなアクションをおこさなければならない。愚痴をこぼす時点で「口を出すなら私を介さずどうにかしてくれないか」と思う程に疲弊している。だから、愚痴をこぼすことは逆に疲労の元になるということを学んでいるのだ。

少し前に、藁をもすがる思いで新たに相談した子育て支援の場所がある。そこの人に「あなたのことがとても心配」「このままじゃやばい」といわれた。どうやら私は生命力がすでに弱まっており、きっかけさえあれば自死も選びかねないくらいに困りごとが多いのだという。そう、この一年何度も何度も、いろんな人にいろんな場所で困っていることを洗いざらい文書を交えて相談した。けれど私の声は上滑りし、一般論としての対応を教えられ、子供たちにも良い選択肢が提示されなかった。そして子供の特性を散々伝えているはずなのに相応しくない態度を受けたり、理解しがたい言葉を浴びせられたりし、結果的に私はとても孤独な保護者となった。その日々は子供たちとの日々よりもさらに辛く、あまりにも耐えがたかった。

あるとき、医師に対して怒りと悲しみが止まらなくなり、なぜ、ここまで話しているのに理解してもらえないのか、子供はこんなに頑張っているのになぜそのような言葉を浴びせるのか、あんなに怖がっているのになぜそのような態度がとれるのか、家庭環境についても何度も話したはずなのにどうして私の行動力だけに頼るのか、もう何度も助けてほしい、専門家の知識を分けて欲しいと伝えているのになぜ、なぜ声を聞いてくれないのか、と訴えた。医師は、とても驚いた顔をして、「忘れていました。失礼しました」といった。子供二人ともの医師がそれぞれに、保護者である私の叫びを「患者の家族からみた情報」程度にしか受け止めていなかったのである。さらに「ここまで細やかに子供の状態を伝えられる保護者がついているのだから、この子供たちは心配いらない」という目線で見ていた、というのだ。私は包括的に見て欲しいと何度も頼み、子供たちを取り巻く環境因子(学校・医療・家庭・地域)が連携して欲しいと頼み、それぞれの情報交換をしてもらいたいと頼んでいた。家庭以外は仕事であり、上司がいたり相談相手がいたりカンファレンスが行われるだろうが、家庭だけはそれがない。そこだけ、ぽっかり放置されていた状態だったのだ。

謝罪を受けたことで、今後私は救いを受けられるのだろうか。まだあまり期待はできない。絶望した事実は残っているし、主治医の目線は引き続き子供たちに注がれる。子供を悪者にするために話しているわけではないから、何度も困りごとをいうのは疲れてしまう。子供のために子供のことを話すことはできても、自分が救われるための話し方はわからない。このいいようのない気持ちを適度にほぐす方法も、自分のせきとめた心をうまく流す方法もわからないままだ。


これから先、私と同じような心を抱える人が増えるだろう。引きこもりを強要されたことで、多くの保護者が行き場のない思いと自分自身の心に引き裂かれるはずだ。
子供を大切に思えば思うほど、辛くなる。安心安全な場所で素直な声を上げられないのは、他ならぬ保護者なのだ。

ぜひサポートをお願いします!ふくよかな心とムキッとした身体になるために遣わせていただきます!!