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握り潰して想い出を -aiko「遊園地」読解と解釈-

ごあいさつ

aikoは人生なaikoオタクのtamakiと申します。
以前「ひまわりになったら」の歌詞研究を載せて以来初のaiko歌詞研究の掲載となります。新規のものを載せるのは初めてなので、前書きとして。

拙aikoファンサイト「愛子抄」でずっと掲載を続けていたのですが、何分個人サイト冬の時代でして、今時ビルダー(今時やでまじで…)使ってページを作ってなんだり……していたのですが、まあ普通に、めっちゃ読みにくいし、ページ作るのもメンドいんだわ~、となってしまったので、2021年前期からはこのnoteを利用して掲載していくこととなりました。こっちだと読みやすいし、私も宣伝しやすいので。
過去に掲載したものや個人誌で発表したものも転載していけたらいいなあと思うのですが、言うだけ言ってなんも出来てないですね…。転載ってね! 地味に時間かかるんですよね! ハハッ! あと書いてから時間経ってるものは、こいつぁ……ちょっと……ってのがあるので、そういうのは載せないと思います。まあ気長にやっていきたいです。

aikoの歌詞研究。以前も書きましたがデビュー記念日周辺に発表するものを前期、誕生日周辺に発表するものを後期とし、2曲ずつ、毎年4曲読んでおります。時々曲を決めずにテーマでやったりします。電話曲とか夏曲とか。まあずっとやってないですけど、またやりたい。
この辺の基本スタンスもそのうちまとめてなんかアレしますが、まあ一応文学部卒で文学研究を修めた者として、aikoという歌手、いや「作家」の研究も兼ねながら、インタビュー等々の資料にきちんと当たりつつ、歌詞を文学作品のひとつとして読解していこう、という個人的な活動です。
要は自分に出来るaikoへの愛を示す活動です。私に出来る唯一のことは文章を書くことだけなので。

2021年前期は「遊園地」と「すべての夜」を読解します。
本稿は「遊園地」について書いていきます。

はじめに

「遊園地」はaiko11枚目のアルバム「泡のような愛だった」8曲目に収録された一曲である。ブラスバンド隊が賑々しく加わり、軽快なスカ・ナンバーとしてLove Like Pop Vo.17のツアー中はライブクライマックス間際で演奏されていた。ちなみに直近だとLLP21での公演(19年3月)で披露されたらしいが映像化されておらず、残念無念である(My 2 Dacades 2に収録されているLLP21での披露はされていない)

スカの風味やBPMの速さも相まって、楽曲的に野生めいた尖りを感じさせる曲である。後々触れるが(というかそれがメインの稿である)なかなかに鋭く、乱暴な表現が歌詞の上でも記されている一曲なのであるが、個人的にaiko最狂曲と思っている「舌打ち」発表後のアルバム曲なので、ひょっとすると当時(2013・2014)のaikoの創作の傾向的にそういう「モード」だったのかも知れない。同じく「泡のような愛だった」に収録されている「染まる夢」も低迷するような歌詞や疾走感がありながらもやや陰鬱とする曲なので、「舌打ち」同様少なからずそういった曲を生み出す機運にあったのだろう。
歌詞の内容自体はドロッとしていながらも、実のところ曲自体が「舌打ち」「染まる夢」に比べれば格段にアップテンポで軽快かつ爽快なのでそうは感じさせないのが実にaikoと言うミュージシャンらしいと感じる次第である。さて当のaiko本人はこの曲をどういった風に作り、どう捉えているのだろうか。

「大事」と「辛い」の最高潮

「泡のような愛だった」楽曲はありがたいことに2014年に刊行された「別冊カドカワ」のaiko特集号(というか全部aikoだが)に各曲のライナーノーツが残されている。まずはこちらを見ていこう。

「サビに出てくる「柔らかな想い出はもう/部屋の隅のホコリと/窓から一緒に捨ててやりました」っていう歌詞は、ちょっとまた新しい感じで書けたんじゃないかって思ってますね。もう“悔しい~!”みたいな(笑)」

aiko自身「新しい感じで書けた」と評価しているところは注目すべきところだ。だいぶ前になり、作者である私自身何を書いたかほぼ覚えていないのだが(書いたら忘れるたちなので)「明日の歌」の解釈を書いた際、「泡のような愛だった」はaikoにとって第二のスタートであり、第二のデビューアルバムのような位置づけなのではないか、と言うことを記したことがある。もしかしたら、aiko自身にもそういう攻めの姿勢と言うか、ちょっと新しい表現でやってみようとしていた狙いなどが何かしらあるのではないだろうか、とちょっと思っていたのであるが、このaikoの発言を考えると、ひょっとするとこの「遊園地」にはその一端が僅かでも表れているのではないだろうか。

そうならば嬉しいが、それは余談と言うか蛇足なので脇に置いておくとして、aiko的にはこの「遊園地」を代表する感情は「悔しい」一択のようである。
確かに、まだ歌詞に本格的に触れてない時点で言うと、平たく言えば失恋、それも相手に捨てられたかのような一方的なそれなので、突然の事態にわけがわからず、でも捨てられたことは明確であって、なんやねん! と罵声を発したくなるような状況である。色々ひっくるめて一言で集約するとなると「悔しい」なのだろう。

 続く発言は「遊園地」の核心により迫るものだ。

「大事なものって、取っておけば取っておくほどいい思い出になるとは思うんです。でも、大事という気持ちがピークの時って苦しさとか辛さもピークになるというか。だから捨てることに決めたっていう」

ここは後々、特に触れたり引用したりすることになるくだりなのだが、失恋し時間が経ってくると、大事にしていた何か(物理的なものであれ、形而上的なものであれ)を持ち続けたり、大事にすると言うこと自体が非常にしんどくなってくるものである。

たとえば楽しかった時の想い出(歌詞に従っての表記)があるとして、そのことに対して「楽しかったな~」「幸せだったな~」という気持ちがありながらも、一方で「もう戻らへんのや」とか「あの時はよかった…今しんどい」「めちゃキツい」と言う気持ちも同時に存在するわけである。
しかもそのしんどい軍団は他方を追い越すような勢いで肥大化していく。何だったら楽しい・幸せの気持ち達は段々すり減っていく、衰えていくのである。そりゃそうだ。もう付き合っていたあの人はここにはいない、二人はもう恋人同士ではないから、その楽しい・幸せの土壌に注ぐ水も栄養も無いわけである。

aikoは「苦しさとか辛さもピークになる」と述べているので、ある程度のところを超えればしんどい軍団である苦しさも辛さも段々鈍っていくわけだが(他のaiko曲を引用するなら「時間がお薬」である)失恋した状況であるので、不快の気持ちは快の気持ちより大きく存在している、呑み込めるレベルであると推測してもいいだろう。生まれた気持ちの鮮度と言う観点からしてもそうだ。新しいものは常に古いものを凌駕していく。

そうしてあたしが選ぶ道は「捨てる」ことである。歌詞にある「握りつぶして捨ててやりました」そのものだ。相手との関係が切れている以上「大事という気持ち」や愛しさは限界が見えている。それ以上の発展は望めない。しかし「苦しさ」と「辛さ」は、ピークは過ぎても、何だったら時として急にぶり返してきたりするかも知れないし、完全に潰えることもないと思われる(大事という気持ちの方は絶滅の可能性があると言うのに……)その不安や重圧に耐え続けろと言うのがどだい無理、というかそんな殺生なという話である。

しかしだ。aikoは続けてこんなことも投げかけてくる。

「もちろん、それを捨てる瞬間は逃げた気にも負けた気にもなるし、“ほんとにいらないの?”って聞くもう一人の自分がいたりするから“ホコリと一緒に捨ててやりました”くらいの気持ちじゃないとダメなんですよね(笑)」

負ける、と言う言い方もこれから歌詞読解の本編で何回か使用していく表現である。ここを踏まえるに、端的に言って主人公のあたしは「苦しさ」と「辛さ」に「負けた」のである。書き方こそ、バックの演奏も含めて意気揚々と、負けるとは正反対の勝ち誇ったかのような勢いでいるにも関わらずだ。
特別このようなaikoの言に触れなくても、「遊園地」のサビの「捨ててやりました」のくだりは、正直どこか、ちょっと無理していると言うか、(これも後で書く表現だが)自暴自棄かつ荒々しく投げやりな感じに聴こえるので、リスナーにはそれが精いっぱいの「強がり」だと思わざるを得ないところである。なお「強がり」もまた後々何度か書くことになる言葉だ。

第一aikoが言うに「ほんとにいらないの?」と訊いてくるもう一人の自分がいる時点で、あたしの中にはある種の迷いや未練といったものが存在感を持ってうずくまっているのだろうと思う。だからこそ、そんな気持ちを振り切るべく「ホコリと窓から一緒に捨ててやりました」と言うキレのある行動を持ち出してくるのである。振り切ると言うか、そういった余計な気持ちを全て体からべりりと剥ぎ取るくらいの勢いだ。
しかも「ホコリと」「一緒に」と言うことは、「その想い出はゴミ同然である」と、かつて愛したものに対して何と言うことか、と絶句するレベルで、かなりひどくこき下ろさなければいけなかったのである。

いっそ全部捨てちゃって

別冊aikoのインタビューはもう少し続きがあるが、それは後々引用することにして別の媒体を見ていく。
泡愛発売当時のオリコンスタイルではこんなことを話している。

「歌詞の「窓から一緒に捨ててやりました」って、突き放すような言葉ですよね。このフレーズ、実はフローリングの部屋の隅っこに溜まっているホコリを見たときに“全部捨ててしまおうかな”と思って、そこから浮かんだ言葉なんです。なんか、そういう日常的なところで全部置き換えて、恋愛に脳内変換してしまうんです」

私もそう感じてはいたが、作者のaikoもまたサビの「窓から一緒に捨ててやりました」を「突き放すような言葉」と語っている。前述したように大切だった気持ちや未練や迷いを自分の世界から追放するような感じなのだろう。

また、部屋に溜まっているホコリを見たときにフレーズが浮かび、作り上げたのがこの曲、と言う話にはやはり脱帽である。発想と言うか、何気ないアイデアを恋愛に結び付け一曲完成させてしまう類まれない能力が、最新曲「一人暮らし」や「No.7」での歌詞制作エピソードで語られていたように常日頃から神がかっているのでお手上げだ。
先述の二曲が収録されている最新アルバム「どうしたって伝えられないから」も曲を聴くたび読むたび「ッカ~! 何食べたらこんな歌詞書けるんですか!!」と憤っていた発売当時の日々を思い出してしまう(というか今もそう)(いつもそう)(ずっとそう)私も常日頃からaiko並みにアンテナを高く持ちたいところである。

それはおいといて、「全部捨ててしまおうかな」という気持ちは、歌詞の荒々しさとはむしろ真逆な印象である。退廃的あるいは大儀そうなこれがああいったフレーズに化けるのは面白いところであるが、おそらく「遊園地」と言う曲自体も、原初の気持ちにこの「捨ててしまおうかな」と言った退廃的なムードは少なからずあったのではないかと推測したい。

血まみれでも、なお、

もう一つくらい読んでおこう。別冊カドカワで語られていることとほぼ同一ではあるが、OKMusicのインタビューも参照してみる。

(アルバムが今までにない切り口や表現にトライしようともされているという発言を受けて)
「今回で言えば「遊園地」とか。部屋の隅にあったホコリと大切な人との思い出を窓から捨てるっていう歌詞ですからね(笑)。ちょっと新しい書き方ができたかなとは思います」
(ほんとに新しい雰囲気ですよね。なんでそういう歌詞が出てきたのでしょう)
「大事なものは取っておけば取っておくほどいい思い出になって残るとは思うんですけど、大事という想いがピークの時は苦しさや辛い気持ちもピークになるんですよ。だからと言って、ピークの時に捨ててしまうと、逃げてしまった気分にもなるし、負けた気分にもなる」
(確かに。でも、この曲の主人公は捨てることを選んだわけですよね。)
「そうそう。だからこそ、“ホコリと一緒に窓から”くらいな気持ちじゃないと捨てれなかったという(笑)」

いや笑っている場合ではないが~! と思わず言いたくなるところであるが、先述したことと被る気もするが、「ホコリと一緒に捨ててやった」と言う気持ちを持ち出して――言ってみれば自分を「騙す」くらいの気概ではないと、遊園地のあたしはもうこれ以上立ち行かなかったのだろうなと感じる次第だ。

こういった気持ちを利用しなくても恋を捨てられた、別れられた、言ってしまえば執着からの脱却や解脱が成功しているのが最新曲の「ばいばーーい」であるし、もっともっと遠い次元にいるのが「磁石」なのだろう。逆に言えば「磁石」の地点から見ると「遊園地」などまだまだ未練が何重にも絡みついていて、それこそ磁石のようにぴったりとくっつき、相手への気持ちから離れられない惨めな有様が見て取れるのだろう。

以上三つの媒体を参照したわけだが、aikoのインタビューを読んだ時点での私の印象としては、既に書いた通り、色々威勢の良いことを言ってはいるが、「苦しさ」と「辛さ」にあたしは結局のところ負けてしまったのだな? と言う感じである。
まるで自分から(それこそaikoの言に倣って言うならば)突き放すように、勝ち誇ったような表現をしているものの、あまりに見え透いた強がりでしかない。そこに見えるのはいっそ自暴自棄であって、あまりにも乱暴な意地が一人苛立って喚き散らかしている、と言う光景だ。

別れを告げて去っていく、と言うとどことなく初期の「赤い靴」を思わせるが(勿論「赤い靴」とは色々と前提は異なるが)あの曲を、コケて膝に擦り傷を作った程度、とすると、そこから15年後(奇しくもaikoが15周年ツアーを終えた後に発表された曲である)に現れたこの「遊園地」は、擦り傷なんて可愛らしいものではない、どこで事故りましたかと言うレベルにとんでもない血まみれな状態に見えるわけである。握り潰して捨てられた「柔らかな想い出」は彼女の体の一部で、それを無理やりひっぺがしたがために、おびただしい程の大出血を起こしてしまっているのだ。

しかしこれは現時点での、あまり歌詞を踏まえずに勝手に考えた、あくまで印象だけの話である。次の段落からじっくり歌詞に向き合っていこうと思う。

あなたはあたしと似てるひと

あなたとあたしは似てるからそうやってね
何でもかんでも飲み込んで
カラスのように歌い散らかすのでしょう

歌い出しであるが、楽曲として聴いていた時はこれと言って特別気になることはなかったところなのだが、改めて歌詞を見てみるとおや、と初めて意識した箇所がある。

それは「あなたとあたしは似てる」と言う、歌い出しも歌い出しな部分だ。自分と似ている、自分と近しい。そう思えると言うことは何かにつけ共感することも多く、一緒の喜びや感情を共有している。距離が近い間柄ということだ。そうなると好意を抱くのはそんなに難しくない話だし、穿った見方をすると一種の依存ですらあるように思えてくる。

似ているという評価は良いことのように思えるが、そう一概にも言えない。大袈裟に言うなら相手の個性を度外視している、ということでもあるし、自分では選ばない、相手の予想外の行動に激しく動揺する可能性もある。ある意味では、この後のあなたの行動(合図もなしにいなくなった)への残酷な伏線めいてもいる。とは言え、まだそこには至らない。

さて、あなたはあたしによるとあたしと「似ている」とのことなので、「そうやってね」以下の内容もそのまま「あたし」と言う人間の紹介にもなっている。

何でもかんでも呑み込んで
カラスのように歌い散らかすのでしょう
辛い花も甘い花も飲み込んでは
青い葉で食べて唇からさ 笑い話にするんでしょうね

この二連はあたしにも当てはまる行動だ。おそらくいつかはこの失恋も「歌い散らかす」し「笑い話にする」のだろうとは思うが、「遊園地」の段階ではまだ出来ていない様子である。いや「歌い散らかす」のがまさにこの「遊園地」と言う曲だとするなら、「歌い散らかす」までは出来ているのだが、どうにも「笑い話にする」まではまだまだ遠い気がする……。

この一番Aで推測できるのは「あなたは自分とほぼ同一の感性と行動パターンを持つ人」であるとあたしが「思い込んでいた」ということである。
何せ相手にぞっこんなので、ちょっとの疑いもかけられない。下手すると別れることすらない、とまで思っていたのではないだろうか。この後の内容をわかっている上で読んでいると、これからやってくる幻想の崩壊に全く気付くことなく能天気に恋に謳歌しているあたしの姿に、何ともキツさを感じるくだりである。

目を合わせてくれるもの

続いてBを見ていく。

抱きしめてくれた時 左肩を噛むと「痛いなぁ」と
目を合わせてくれるから またやった

ここはあなたとあたしのイチャイチャしている思い出のくだりだ。
相手の肉体を噛む、というと定番であるが「愛の世界」の「あなたの首筋に噛みついて」を思い出させる箇所であり、こういう肉体的で艶めかしさが匂い立つような表現もまさしくTHE・aikoだなあ、と思うのであるが、これをサビ前に置く辺りやはりaikoは精神が鬼そのものである。Bメロまでの内容とサビの落差はとんでもない断崖絶壁だ。

しかも「またやった」と言っているので、これは一回や二回じゃなく、あたしの癖だったのだろう。動機も動機で、「目を合わせてくれるから」ときている。そりゃ~ハグされている時にやったなこいつぅ~的な感じで目も合わせてくれるなんてドチャクソハッピーであ~はいはい一生爆発してろな感じである。
さてこの辺は失恋を経た後の回想シーンなのか、それとも現在進行のシーンなのか。どちらかを取るかで読み方が変わってくるが、何となくサビの転落っぷりを見ていると後者のような気がする。転落っぷりをド派手に強調するなら後者で読みたいところだが、前者の回想シーンとしても痛々しいのでアリである。「あんなに好き合ってたのに」だとか「あんなにべたべたしていたのに」だとか、いかにも惨めったらしく振り返っているところだと思えば、なおのことこの「遊園地」の悲惨さぶりが加熱していくことだろう。

こんなのってないよ

問題かつ曲の代名詞ともなるサビに入る。

大切な人は合図もなしに あたしの前から居なくなりました
柔らかな想い出はもう 部屋の隅のホコリと
窓から一緒に捨ててやりました
握りつぶして捨ててやりました

直前にラブラブな映像を見せつけておいて「大切な人は合図もなしに あたしの前から居なくなりました」は無い。マジで無い。aikoの非道さをこれでもか、と感じるところである。

「合図もなしに」とあるので、突然音信不通になってしまったとか、たとえば電話は取らない、LINEも未読無視、当然メールも返ってこず、のような状況なのだろうか。なんだか一昔前の蒸発のようだが、さよならの素振りも見せず、別れの伏線も張らず、理由も前置きもなしに唐突に「ごめんもう別れて」と一方的に言われたのも考えられる。あたしからの「どうして?」「何で?」は一切届かず、断崖絶壁から叩き落とされたような唐突な展開である。

裏打ちのリズムと共に、予想外な展開に目がチカチカしそうなところであるが、あたしは「柔らかな想い出はもう 部屋の隅のホコリと/窓から一緒に捨ててやりました/握りつぶして捨ててやりました」と言う思い切った行動に出る。aiko曰く、「大事という気持ち」と「苦しさとか辛さ」が共にピークである時がきっと描かれており、苦しさと辛さに屈する、いわば「負け」てしまう瞬間が克明に捉えられている。

おそらくこの「捨ててやりました」のくだりは、一番ABよりもっと時間が経ってから起こった出来事だろう。
時系列を考察するに、1番A→1番B→1番サビ前半→2番A→2番B→2番サビ→Cメロ→1番サビ後半(大サビ)が、この「遊園地」という曲中の物語における時間の流れとして最も自然だと思われる。のちのち読んでいくが、二番AとBとサビで苦しさと辛さパラメータがどんどん上がっていったのではないだろうか。

あたしがホコリと共に握り潰した「柔らかな想い出」には、甘々でラブラブな思い出ばかりではなく、きっと「相手を信じる気持ち」であるとか「期待感」なども含まれているのだろう。こういう気持ちが僅かでも(それこそ惨めったらしく)残っているからこそ、二番サビのような切なさ極まって目も当てられないような情景も描かれてしまうのだ。
「捨ててやりました」にはドヤ顔で勝ち誇っているようにも思えるが、ABであからさまに綴ったことからわかるように、あれだけ好いていた人なのだ。二番で明らかになる苦悩に触れずとも、なんとなくあたしの「強がり」が透けて見えてくるのである。

これは遠い昔ばなしそれとも

ところでこの「捨ててやりました」であるが、唐突な敬語、というか丁寧語、ですます調で綴られているのが、曲として聴いていても歌詞というテキストで読んでいても、文体が急に変わる故に少し目立つ箇所である。

aikoの歌詞における敬語表現だが、aikobonの「愛のしぐさ」のライナーノーツ等で語られているが、主に、いわゆる「よそよそしさ」を表現するのに用いられる、と言う認識で私は読んでいる。
そしてこれはあくまで読み手の私の印象の話なのだが、この「遊園地」の敬語は唐突さも相まってなんとなく「距離」を感じさせるフレーズなのだ。まるでどこか遠い国のおとぎ話を話しているような、何だか「私の話ではないです」とわざと素っ気なく言っているような、そういうイメージがある。あるいは、もう関係ないです、と言った感じだ。

自分にとってはこんな終わってしまった恋など、ひたすらにもうどうでもいい――と言った意味の表れだったりするのだろうか。文体(口調?)でこういう風に表してくるのも、わざと距離を取って敬遠するような動きも、全部ひっくるめてやっぱり「強がり」のような気がしてくるのである。

砂をかけてもいいでしょう?

二番Aでは、あたしによるあなたの現在が語られる。ただし、あくまで「あたしによる」である。

今頃喉元過ぎた所右に曲がって広場のベンチでさ
休んでアイスでも舐めてるんだね

この描写――あたしを捨てた相手の、傷心しているあたしのことなど全然全く、何一つとして何とも思っていないあまりにも非道な様子におのれ!! 死すべし!!! と憤ってしまいそうになるところなのだが、前もってわざとらしく書いたことから察していただけるように、この最低最悪のあなた像はあくまで「あたしの主観」によるものなのだ。

なので実際、彼があたしのことをどう思っているのか、どんな人物であるかは全くわからない。合図もなしにいなくなったことにも、ひょっとすると何か深遠な理由があるのかも知れない。
しかし、少なくともあたしがあなたのことをこんな風に見ているのはまず間違いないようだ。これもある意味、一種の「突き放し」である。相手への理解を諦め一方的に冷めた目を向け詰っているし、もはや八つ当たりにも近いレベルである。

こんなことが出来るのは、あたしが一方的に「自分が被害者である」と思い込んでいる故だ。そう、この曲においてあたしは何一つもこの失恋劇に対し「自分に非はない」と思っているのである。そんな恋愛がどこにあると言うのだろう。どちらにも非がない失恋など極論を言えば死別以外に無いだろうし、そもそもどちらかに非がない恋愛などきっと存在し得ないのだ。

あたしは自分のことをほぼ反省していないし(少なくとも歌詞の上に表れてはいない、推測は出来るが)自分の行いを冷静に振り返られるくらいの余裕すら持てていない。最新曲「シャワーとコンセント」の「君の気持ちがわからないのは/僕のせいだし 君のせいだよ」のように、相手の責任も追及しつつ自分にも非を認めることも出来ない。「ハニーメモリー」の僕でさえも「いつも悪いなって思ってたよ」と心当たりを白状しているのに、「遊園地」のあたし(特に二番の時点のあたし)は悲劇が起きた直後過ぎて、まだまだ手負いの状態なのだ。

ところで、冒頭で述べられた「あなたとあたしは似てる」という前提をふと思い出してみると、あたしも突然、一方的に恋を捨てることがあったなら、ここで描かれているあなたがそうしているように、喉元過ぎた頃に、どこかのベンチに座ってのんびりアイスでも舐めている人間であることが自ずからわかってくる。
そう。自分がそういう人間だから、似てる、いわば自分と近しい行動を取るであろうあなたに対しても勝手な推測が出来るらしい。当初読んだ時に何で勝手に想像して決めつけてンのかなと思ったのであるが、「似てる」という認識は継続されている故なのだ(今更な気付きであった)
まあ単に、特に根拠もなく一方的に酷い想像を投げつけている、砂をかけているだけなのかも知れないけれど、もしあたしが「似てる」と言う認識を持ったままであるならば、その頼りない、主観でしかない些細な繋がりでさえも少しは残しておきたい、と言う儚い浅ましさよ……と思うと、彼女の追い詰められている様にいくばくかの同情を感じ得なくなるところである。

大して恋してないくせに

二番Bは一読しただけだときちんと読み込めない、よくわからないところなので、多少私の解釈も混ぜ込みながら読んでいく。

ありきたりなんだって当たり前を決める実もないくせに
何でも決めた気でいたな

このように、この失恋劇における、おそらくは自分自身を、やはりどこか冷ややかな目で語る。
何が「ありきたりなんだ」と「当たり前に決め」てしまうのか。この「遊園地」で取り上げられている、あたしに襲い掛かった失恋そのものだろう。こういう、相手に突然捨てられてしまうような別れはよくあることで――い~やよくあったら困るわ! とツッコミが飛び出してしまうわけだが――だから、そう引きずらないで、落ち込まないでいよう、と思っていたのかもしれない。自分への慰め、自己ケアに当たるところだ。

しかしながら、よくあったら困るわ! と突っ込んだことから察していただけるように、どだい無理のあるケアである。「当たり前を決める実もないくせに」――要は、そう判断出来るほどの材料、言ってみれば恋愛経験がないにも関わらず、あたしは無理にでも自分を騙した。こんな程度のことはつまらないことなんだと、まるで逃げ去るように決めつけてしまった。

ともかく、あたしは自分で立ち直ろうとした。軽傷で済まそうとした。大丈夫、とぼろぼろの体で何とか、それこそにっくき奴が「アイスでも舐めてる」ように平気でいるのと同じくらい、普通にいれるように頑張ったのかも知れない。
でもそれも、見るからに痛々しい姿であり、本人を蝕むダメージは果たしてどれほどのものだったろうか。日に日に削られていく自分を振り返って、「何でも決めた気でいたな」と吐き捨てるように締めるのは、そんなアホなことをした自分へのとてつもない「呆れ」を表しているように私は読んでみたい。そしてそう言う風に勝手に判断し、大丈夫だと無理して立っていた姿もまた、一番サビとはまた毛色の違う一種の強がりと見ていいのではないだろうか。

帰ってきてくれないかな

A、Bと、無理をしていたり、強がりだったり、相手への一方的な攻撃だったりと、様々に失われた恋への態度を見せてきたあたしだったが、サビではその舞台裏の、あまりにも弱っている彼女の真の姿が惜しげもなく明かされる。一番サビや大サビよりも前の時間軸の彼女は目も当てられないくらい惨めで、切なさでぼろぼろになっている。

毎日考えて少し泣いて 夜更かしが一段と酷くなって

「毎日考えて少し泣いて 夜更かしが一段と酷くなって」と、のっけから追い込まれていく彼女の姿が描かれる。「毎日考えて」にはひょっとすると「自分の中の反省」も表れているのかも知れない。さすがに自分に全く非はないデス! と言い張り続けられる話もなかなかないわけで、自分の行いを悔いている様子を探るとしたら、この曲では正直ここくらいしかない。だから「ああ、あの時こうすれば……」「ああすればよかった」と涙することが出来た。いや、あるいはそれとは全然違って単に、とにかくこの恋が終わったことに悲しいとか辛いとか思っての涙なのかも知れない。

いずれにせよあたしは涙で溺れながら夜を過ごした。どんどんと深い深い夜に、どこにも行けない夜に埋もれていった。出口はなく、ただまるで生き埋めになるかのように。――そう、出口はない。少なくとも彼女の望むべき出口は存在しない。巡り巡っても行き着けない。

サビ前半には、相手を誹る姿も詰る姿もない。想い出を握り潰し、窓から捨てて大喝采する姿もない。それ以前の、突然の崩壊にただ戸惑って、なすすべもなく困窮していく哀れなあたしの姿は見ている者の涙を誘う。それが最上級に高まるのは次のくだりだ。この「遊園地」で一番に辛いところと言ってもいいかも知れない。

巡り巡ってまた帰って来ないかと
今でもついたまに玄関先で
あぁダメだ立ち止まってしまうよ

このたった三フレーズに、孤独の果てにありながら、恋がどうしようもなく破綻してしまっていることをわかりながらも、まだ僅かな可能性に賭けて縋りついてしまう哀しい女の姿が、残酷なまでにありありと描き出されている。強烈で頭に焼き付いて離れない。「男に捨てられた女」をここまで露骨に惜しげもなく突き出してくるaiko曲は、他にそうそうないように思われる。

こうやって、「ついたまに立ち止まってしまう」自分自身にも嫌悪しているからこそ、彼女は握り潰して捨てることを選択したのかも知れない。そういうことをしてしまう自分こそが見たくないもので――だって誰よりも近くいるのは、間違いなく自分自身だ――何よりも一番重苦しさを与えてくるものだろう。

勝った・負けたではなく、正しい・正しくないで読むならば、あたしの選んだ捨てることについては「正しい」と思う。生きる上で快適な方を選ぶのは、何も間違ったことでないからだ。ひょっとするとこの曲の物語においてあたしは、かつての恋にしがみつく「自分自身」から、何よりも一番解放されたかったのかも知れない。

時計の針が進んでしまえば

Cメロこそが「遊園地」最大の肝の部分である。というかaikoのCメロはどの曲でも大体肝であろうか。もっと言うとaikoに限らない気もするわけだが、無駄口を叩かず書いていく。

思いっきり穴があく今日がもうすぐ終わる
時間よ止まれ時間よ止まれ

二番サビに続いてぼろぼろな姿である自分を隠すことなく綴っている。穴と言う歌詞を踏まえるならボコボコな状態で見るも悲惨である。

「時間よ止まれ時間よ止まれ」は一考を要するところである。普通に聴いている時や最初に歌詞を読んだ時は「むしろ過ぎていった方がよくない?」と思っていたのだが、aikoが言っていたことが頭をよぎる。「遊園地」で歌われている状況は「大事という気持ちと苦しい・辛いと思う気持ちが共にピークである」と言う状況なのだ。

読んでわかる通り、これはどちらも最大限、MAXに達していると言うことである。
つまり、ここで止めておくことがもしも出来るのなら、「大事という気持ち」も頂点の時に永遠に止めておくことが出来る。もし一秒でも針が進めばそれはもう下降する一方で、最初の方に述べた通りずっと低調で存在するか、はたまた最悪の場合は消失、潰えることもありうるのである。直前に「今日がもうすぐ終わる」と歌われるのは、「今日が終わればもう辛さが大事を上回る(=大事が目減りして辛さより下回ってしまう)」ことがあたしには読めている故なのだ。

それだから「時間よ止まれ」などと、叶えられるはずもない願い事を二回も唱えるのである。ここから少しでも先に進んでしまえば、完全にこの恋は崩壊していく。同じくらい辛くても構わないから、「大事」なままで永遠のものにしておきたい。あたしはそれほどまでに、この恋に執着しているのである。

消えない遊園地

二度と行けないあの場所 何回目をつぶれば
消えて行くのだろう あなたのいる遊園地

しかし一方で、やはり苦しんでいる彼女もいるので、早くここから抜け出したい想いもある。続くフレーズである「二度と行けないあの場所 何回目をつぶれば/消えて行くのだろう あなたのいる遊園地」には、そんな複雑な状況を読み取ることが出来る。
ところで、別冊カドカワのaikoインタビューには引用したものにまだ続きがあり、後々引用すると書いたが、ここでその内容を出そう。「遊園地」と言うタイトルについて、aikoはその意味を明かしている。

「ちなみに曲のタイトルは、あなたという存在は“遊園地”のように楽しくて幸せな場所だったっていうことですね。また遊園地に行きたいですね(笑)」

最後の(笑)の一文は深読み上等とばかりの文だが、aikoのプライベートは脇においておこう(書き忘れていましたが、私の歌詞研究はaikoのプライベートとは完全に切り離して読んでください)
「楽しくて幸せな場所」である遊園地、そしてあなたは未だに、あれだけ悪しざまに罵ったり、自分は大丈夫だと気を張ったりしていたにも関わらず、あたしの中からどうやっても消えていかない。何度も目をつぶりその姿を消し去ろうと、闇の彼方に追いやろうとしても、そんなあたしを嘲笑うように――aikoがインタビューで言っていた「本当にいいの?」と訊いてくるもう一人の自分そのもののように、あたしの孤独と悲しみを煽っていく。

根強く、彼女の中に残る遊園地。まるで、まだ彼を好きでいたいあたしが、閉園時間を迎えても「帰りたくない」と駄々をこねている子供であるかのようである。賑やかなアトラクションは稼働をやめ、パレードも通り終わった。何もかもがもうとっくに終わってしまっていると言うのに、あたしはそこで蹲っている。夢の終わりを信じないように。

自然に消えていかないのなら、取れる方法は一つ。それは自らでその遊園地を消していくことだ。
帰りたくないと駄々をこね、地に這いつくばるかのようなあたしを無理やり抱きかかえて、あたしは日常へ、元あった世界へ戻らないといけない。体の一部を引っぺがすかのようにして、曲は終幕へと向かっていく。

握り潰して想い出を

ぼろぼろな想いと共に、大サビへと流れ込んでいく。時間よ止まれ、の願いもむなしく無情に時は流れ、あたしはこの恋の首を斬り落とす大鎌を振り下ろす時が来たのである。いや、遊園地と言うタイトルに準えるならば、アトラクションを粉砕していく重機の方が相応しいだろうか。

大切な人は合図もなしに あたしの前から居なくなりました
柔らかな想い出はもう 部屋の隅のホコリと
窓から一緒に捨ててやりました
握りつぶして捨ててやりました

一番サビのリフレインであるが、ようやく時系列は本当の意味でここに追い付いた。ようやくこの物語は終わりを迎えるし、終わってしまう瞬間を鮮やかに捉えている。

確かにあたしは、私が最初に抱いた印象の通り、苦しさや辛さに屈した――いわば「負けた」、のであろう。その姿は見るに堪えないほど無様であり、体の一部を引き剥がしたところからは、既に何度か述べているようにおびただしい大出血を起こしている。勝ち誇るような言葉はハリボテであり、実際のところは立つのもやっとだと思われる。

だがしかし、ここまでの彼女の道のりは、果たしてそんな風に吐き捨てるように酷評されていいものなのだろうか。少なくとも、泣き寝入りをするようにして何の抵抗も見せず、静かに辛さと苦しさに「大事という気持ち」を食い潰されていくくらいなら、自らの手で引導を渡す方がずっと清々しいと思う。
「ホコリと一緒に窓から捨てる」「握り潰して捨てる」と、やや乱暴が過ぎるやり方もパフォーマンスとしては派手であり、二番Bで言及していたような「ありきたり」とは打って変わった姿であって、ちょっと華々しい幕引きを見ているかのようでもある。

全てに決着をつけるあたしの姿は、二番Bで見たどん底の姿からは驚くほどかけ離れていて、健気で懸命で向こう見ずで、いっそ美しさすらある。泥中の蓮と言う表現を思わずしたくなってしまうほどである。aikoが作品の中で描き出す女性の強さ――というか、敢えて言葉を選ぶなら、「つよさ」という読みではなく「したたかさ」をこれでもかと感じさせるのである。
それは音の面でも表れており、自らを縛るものを解放させたような爽快感は、スカの風味も相まって彼女の今後を祝福するようにも聴こえるし、応援するようにも、そしてこの恋の葬儀に賑やかしく捧げられた鎮魂歌のようにも聴こえてくる――と書くのはさすがに大袈裟だろうか。

このくだりのあたしは、最初の方で「全くの別次元」と書いた最新曲「磁石」のあたしに近い雰囲気すら、よ~く目を凝らせば見出せそうな、そんなポテンシャルを秘めている。ここに到達できたあたしはやはり、ある意味では、――自分の恋愛に自分で清算をつけることが出来たか、と言う観点では、間違いなく立派な勝者であろう(そもそも勝ち負けの問題なのか? と言うツッコミはさておき)

おわりに

出来るだけいい感じに読めるように着地したかったのだが(何せaiko全肯定マンなので)それでもやはり、この「遊園地」のあたしは結局のところ満身創痍もいいところで、凄絶過ぎて言葉も出なくなってしまう。
とは言えこれもまた、aikoという作家が織りなす女性の凄さであり、美しさのいちモデルなのだと思わざるを得ない。つくづくaikoは懸命に、各々の恋を生き、死に、そしてまた生きていく「あたし」達を描いていく作家なのだと、また今回も感動する次第である。

失恋に手痛くダメージを受け、まるで喪に服すように弱り果てながらも、最後には自分の足で立ち上がる。何としてでも起き上がる。たとえそれがボロボロで血がだくだくな姿でも、彼女達は懸命に生きていく。前を向くことをやめたりしない。
最新曲「ばいばーーい」の最後に「この歌を作り終えた頃あたしは少し前を向いてる」と記したように、aikoの書く「あたし」達は決してへこたれない。「遊園地」のあたしも例外ではなく、むしろこの彼女は生命力に富んだ起き上がり方をしている方だと言えよう。
こういった「あたし」の物語を数多く生み出しているaiko本人には勿論、曲自体に励まされる人々は多いだろうし、今まさに終わった恋に執着する自分や、柔らかな想い出を「捨てよう」としている男子女子そうでない人達の背中を押してくれるのではないかと感じる。

相手から脱却し、新しくたくましく歩み始める「あたし」――いや、「あたし」達の道が、それこそ遊園地を歩くように、楽しく賑やかで明るい道になるよう心から願うばかりである。

(了)

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