枯れない涙消えない花火 -aiko「花火」読解と解釈と、いろいろな思い出と、下衆の勘ぐり考察- 第二部・歌詞読解本編
本稿はaiko「花火」の読解を主たる目的とした、tamaki(PN:おきあたまき)による歌詞研究である。三部構成となっており、本記事はその第二部、「花火」歌詞読解の本編に相当する。
第二部だけで歌詞研究として十分に独立する内容となっているので、読解のみを読みたい方は第一部、第三部は省いていただいても問題ない。しかしながら、本稿は三部全て、いやせめて第二部と第三部を読むことで完全なる研究となるため、是非三部全てを読んでいただけると幸いである。
第一部の思い出編はこちら。
改めて、花火概要
aikoの「花火」は1999年8月4日に発売されたaikoの3枚目のシングルであり、aikoの名を全国に広めた一曲である。「カブトムシ」と並んで彼女の代表曲としてほぼ必ず挙げられると言ってもいいほどで、今でも夏になるとラジオや有線で流れることの多い楽曲である。
2019年の紅白歌合戦はこの「花火」で出場したので、初登場となった2000年「ボーイフレンド」、2018年の「カブトムシ」と並び紅白での披露の実績もついたことになる。この三曲をして三大代表曲と私が勝手に語るのはこの辺に根拠がある。やっぱ紅白歌唱は強いっすよ。
本稿第一部で書いた通り、私が初めて聴いたaikoの曲であるのだが、おそらく私と同世代の30代の人はこの「花火」か「カブトムシ」「桜の時」「ボーイフレンド」辺りが初めてのaiko曲だったのではないだろうか。
さてやはり第一部でも書いた通り、私はこの曲をラジオのパワープレイで聴いたのだが、この「花火」で名を広めたと言うことはそれはそれはもうものすごいPR活動のお蔭であって、aikobon「花火」のライナーノーツもその殺人的スケジュールの思い出を語る部分が大半を占めている。
ネット・SNS・配信が全盛となった今となっては、この「花火」のPR活動のようにアーティスト本人が全国を足繁く通い宣伝する、という動きはもはや前時代的と言うかレトロな趣すらあるが、エンターテイメントにおいていかに地道な宣伝が重要であるかを痛感させられるし、アーティスト本人が直接回るのってやっぱり強みあるよな……と思う次第である。
aikoの人生の転機となった、とさえ言えるこの「花火」を、aikoはどのような背景で生み出したのだろう。
天から降りた勝負の曲
本来ならせめて二点ほどインタビューに当たりたいところなのだが、何せ代表曲だ、発売当時の媒体でなくても随所で歌詞に関することを絶対語っているはずなのに、私の探し方がヘタクソなのか資料を見つけることが全っ然出来なかった。そのため、aikobonライナーノーツ一本で戦うことになることを何卒ご容赦頂きたい。
歌詞が出来た背景についてだが、これはわりとよく語られているように思う。
今にして思えばまさしく「天啓」というか天の贈り物というか……この曲で一気に売れていったことを思うと、何とも言えず感慨深いものを感じるし、同時に恐ろしささえ感じる。
だって「夏の星座にぶらさがって 上から花火を見下ろして」というこの曲で最も印象的かつ有名な歌詞は、aikoがあれこれ理屈をこねて考え通して出したもの、というわけではなく、ふっと浮かんで出たものだったのだ。こういうエピソードを知るにつけやはりこいつ、詩文の神に愛されたまさしく天才なのだな……と思い大の字になって倒れてしまうわけである。私がいくら逆立ちしても勝てる相手ではない。
この制作エピソードの前に語られていることは、先述したキャンペーン活動に忙殺されていた頃の思い出である。
ちなみに、ファンクラブのBaby Peenats会報Vol.7(2000年8月発行)の誌面にて、その当時のキャンペーン活動を振り返っている。(画像参照)
7月20日から始まった「花火」のキャンペーン活動……文字数びっっっしりなので、ちょっと読んだだけでもすげぇ……となる。
aikobonに戻る。その中で、いかに「花火」が歌手という職業において重要なポジションの曲であったかについても触れられている。
aikoが語るように「花火」は既にLove Like Pop Vol.1(1998年9月15日開催)で披露されている。
aikoが行けなかったと語るのは淀川花火大会のことで、調べたところ98年は8月5日に開催されている(現在は8月の第二土曜日開催。このような情勢のため残念ながら2020年、2021年と二年連続で中止)
つまりaikoは僅か一ヶ月でこの曲を、のちに自分の人生を変えてしまったと言ってもいいほどの長く長く歌い継がれる曲を制作していたわけである。
さらに引用した通り、「3枚目が勝負」と圧をかけられていたことも語られているのだが、その圧が一体どれくらいの段階から始まったかは定かではないものの、長く歌手活動を続けるにあたって出来るなら早めに売れなければなるまい、と言うことはaiko自身もわかっていただろう。
「来年の夏とか」とaiko自らが推薦していたし、Baby Peenats会報Vol.4(99年7月30日発行)でも「あたしaikoの3rd Single“花火”とうとう出るよ!! もうさあ、去年の夏から「何が何でも来年の夏のSingleにする!!」って決めてたから本当にうれしい」とその意気の入り具合を綴っている。
aiko自身お気に入りかつ3枚目という勝負に足る、と思っていた曲なのだ。結果として彼女を広く全国に知らしめた曲になったのも十分に頷ける。
さて、楽曲についての商売的な事情はこの辺で置いておくとして、歌詞を読むうえで踏まえておきたいことは当然、制作背景側にある。改めて引用するが、注目したい部分はここである。
制作背景を踏まえるに、「花火」の物語において重要なのは、花火大会に集っていたaikoの友人達が象徴する「あなた」側がどうこう、と言うよりも、花火大会に行けなかった作詞者のaikoが象徴する「あたし」側に「何かがあった」あるいは「何かがある」と言うことである。
友人達それぞれに予定がつかなくなって集まれない……と言う、いかにも典型的な「大人になり疎遠になってしまったかつての友人達」というパターンではなく、aiko側ののっぴきならない事情(仕事)で、友人達は集まっているのに、aikoだけがいつも行っていた花火大会には行けなくなってしまったのだ。わかりやすく砕けて書くと、あたしは何も変わってないのにあなたが変わってしまった! ひどい! という感じではない、ということだ。
読解するうえで、そう踏まえておくと何かと通りがいい。本当はこの部分はもっと掘り下げられるし、下衆な考察も出来るのだけれど、それは第三部で述べていきたい。それではさっそく歌詞読解に入っていこうと思う。
飛んでく言葉 あがらない花火
歌い出しの「眠りにつくかつかないか シーツの中の瞬間はいつも」はモロに制作背景が出ているところである。aikoが語っていたこととそのまま一致する。考えるのは「あなたの事」だ。ちなみに「あなた」という二人称が出てくるのは曲中でここのみとなる。
考えが深ければ夢にも現れてしまうもので、「夢は夢で目が覚めればひどく悲しいものです」の夢はおそらくあなたとの夢を見たのだろう。あなたに想いを伝えられて、成就している夢。けれどもそれは夢でしかない。
花火は今日もあがらない。曲のタイトルにもなっている花火、とは全体的に見て「想い」の象徴とするのが適当だろう。そうなると花火を上げることは相手に想いを伝えることと見てよい。
けれどもどうやらそれは出来ていないみたいなのだ。というか「出来ない」ようだ。夢では叶えられていても、現実では叶えられないと言う状況に、あたしはいる。
何度も誓ってきた言葉である「1mmだって忘れない」であるが、これは読んだ感じ「別れに際しての言葉」である。
つまりあたしは、あなたから離れようとしている。と言うか離れざるを得ないのっぴきならない事情がある様子なのだ。
だからこそあたしはちゃんとあなたとお別れしようと、言うなれば「けじめをつけよう」としている。何せ「何度も誓ってきた」と言うくらいだ。叶わない想いはそこで全て打ち切り、綺麗さっぱり未練なく爽やかに去ろう――としていたのだが、それが「うわっと飛んでく」のである。
つまり自分からそう言って別れていってしまう、明確な別れのポイントをおっ立ててしまうのは無理無理の無理と言うわけだ。
眠る前にあなたのことをついつい考えてしまうし、夢にだって見てしまう。そんな状態でけじめをつけようなんてまず出来ない。踏ん切りをつけることは無理! と言うことだ。
それを言っているのが続く「もやがかかった影のある形ないものに全て あずけることは出来ない」である。
「もやがかかった影のある形ないもの」とは直前に出ている「1mmだって忘れない」のこと、言うなれば『言葉』である。言葉は触れられるものではないから形はないし、目にも見えない。けれども意味があり、人の心に残るもの。つまり影はある。この表現は本当に秀逸だと思う。
そんなふにゃふにゃとした言葉だけに、いや、言葉「程度のもの」にあたしの中にある想いの全てを託してしまうこと、それで綺麗さっぱり終わりにしてしまうことなど出来ない、と言うわけである。いや「1mmだって忘れない」もなかなかすごい字面な気もするが、確かに言葉一つだけ伝えてそれで終わりと言うのは随分な話である。
この二連で構成される一番Aメロで語られることは、あたしの置かれている窮状がいかに大変なものであるか、と言うことであり、冒頭に相応しい現状解説と問題提起の段落になっている。
花火は上がらないし、言葉で関係に踏ん切りをつけることも出来ない。この曲は開幕の時点から「ならどーすんねん?」という、前にも後ろにも進めない、とにかくどん詰まりな世界観を呈しているのである。
やめれば?
閉塞的な状況に陥っているあたしのもとにやってきた存在が、Bメロで描かれる。
aikoの曲で第三者が登場するものは稀な方に入る。勿論この天使を友人家族その他の存在として読むことも可能だし、その辺は個人の自由なのだけど、基本あたしとあなたの小さな世界で描かれるaikoの作風に則って、私はそうではない風に読みたい。
この天使は「自分の内なる存在」として読むのが、個人的には妥当だと思っている。何せ「天使」というファンタジー色の強い書き方でもある。「友達」や「あの子」とは違う、こういう謎の名称で登場する登場人物もaikoには(少なくとも私がぱっと思いつけない程度には)まあ稀な方だと思われるので、この点でもやはり「花火」はaiko曲の中でも極めて独特であるように感じる。
天使は「恋のしらせ」を聞いて、あたしのもとへ降臨する。直前のAメロで説明されていたあのどん詰まりの段階で「恋の知らせ」なのだ。つまりこの恋は開始の時点でかなりのハードモードだったわけである。
いやしかし、天使とは言うが「目くばせをして」と言う動きは何となく嫌らしいと言うか「自分でもわかってんでしょ?」と言うような動きなので、随分と悪辣……シンプルに言うと嫌なやつだな? と思うわけである。と同時に、そんな風にあたしの心を見透かしたような動きを取れると言うことは、やはりこの天使くんは「あたし」の内から出てきた存在であるような気がする。
三角の目をした天使はあたしの置かれているどっちもに行けない窮状に対し、「疲れてるんならやめれば?」と随分なことを提案してくるのである。
あたしにとって、あなたを想うことはもはや重荷になりつつあることを完全に見抜いている。見抜いた上でこの提案なのである。お前本当に天使か? と花火発売から22年にして初めて疑問を抱いた(遅い)
想いを伝えられない。かと言ってきっぱり言葉でもってけじめもつけられない。
ならばどうするか。「やめれば」である。どっちを選択しても泥沼にダイブする結末が見えてアカン! ということが見え見えならば、そのどちらもを回避すればいいのである。
想いを抱くことも、言葉でけじめをつけることも「しない」=「やめる」。言ってみれば強制的に電源を抜くとか、悪い部分を切除するような感じである。そうすれば少なくとも、あたしは今の苦しみからは抜け出せるのである。なるほど、ここを見れば確かに迷える子羊の困難を救おうとする天使のお告げそのものであるかも知れない。
よし! じゃあやめよう!
花火・完! aikoさんの次回作にご期待ください!!
こんなに好き
とはならんのである。あたしは天使のこの提案について、ここでは答えない。そして印象的な歌詞で有名なサビへと入っていく。
第一部で書いた通り、今でもなお私を惹きつけて離さない美しく幻想的で切ないフレーズだ。
ちなみにこの「夏の星座」とはaikoの誕生星座であり、夏の代表星座であるさそり座のことである。明確なソースが出せなくて申し訳ないが、aiko本人がどこかのラジオでゲスト出演した際にそう語っていたのを覚えている。S字型で見つけやすく、形状的にもぶら下がるのにはもってこいの星座だ。
さて、打ち上げ花火と言うものは、一般には地上から見上げるものである。なのにこの曲では天空の星座にぶら下がり「見下ろして」と言う表現を取っているのが独特で非常に面白いのであるが、客観的に自分の、花火に喩えられるレベルの想いを見ているのは、どこか息が詰まるほどに冷静である。だがそれを見て「こんなに好きなんです 仕方ないんです」と表現せざるを得ないほどなのだ。
仕方ない。自分でも、止められなかった。後戻り出来ないほどにまで、花火は大きく美しく鮮烈に上がってしまうようになった。
だが直前の天使のお告げを受けてなのだろうか、一番サビでは「涙を落して火を消した」と締めくくっている。
だが曲はここで終わりではない。これはあくまで仮の話だ。「花火は今日もあがらない」一日だった、と言うことだ。試しに消してみたらどうなるか、それをあたしは見ていたのではないだろうか。そんな風に思う。
秋 すぐそばにいるよ
閉塞的な状況はそのままに二番へ入っていく。二番Aで描かれるのはおそらくあなたと過ごした日々の風景だろう。
どことなく夏らしさを感じる風景である。「そろったつま先くずれた砂山」は海かな、と思うし、「かじったリンゴ」は林檎飴、つまり夏祭りかなと言う風に連想出来る。今更だがこの「花火」は夏の曲なのだとつくづく感じる。まあ夏の星座ってサビで言うてるからね。ひょっとするとひと夏の恋、みたいな様相もあるのかも知れない。
いや。多分違う。というか今更一番Aの話をするのだが、「1mmだって忘れない」と言う言葉だったり、この二番Aの思い出の描写だったりと、あなたとあたしは昨日今日出逢ったような、ひと夏のゆきずりの関係性では、どうやらなさそうである。
ある程度の絆があり、残せるだけの思い出もある。少なくとも友達くらいの関係性ではあるらしい。
で、だ。終わろうがどうなろうが何があろうが、あたしにはこの先「思い出のかけら」、つまりあなたとの二人過ごした思い出が、おそらくここに書かれている以外にもいくつかあって、それは恋破れたとしても残るのである。だから何にも手元に残らないわけではない、と言う保険についてここでは書かれている。
のだが、正直渦中にいる者からしたらそんなものは非当事者である部外者だけが言える話であって、今苦境に立たされているあたしにとっては、残る思い出など毒にも薬にもならんように思う。
だがここでその思い出プランを提案しているのは、花火を見下ろし冷静に想いを見つめていたあのあたしであるようにも感じるのである。
先を読む。「少しつめたい風が足もとを通る頃」とは、これは今が夏ならばおそらくは「秋」のことである。この先の季節を歌っているし、ぐずぐずしている間にも時は否応なく流れているということだ。
そして「笑い声たくさんあげたい」と書いていると言うことは、あたしはこの閉塞的な状況から(当然ながら)解放されたがっていると言うことである。今は笑い声もあげられない状況にいる。まあそれもそうであろう、何せ「疲れてるんならやめれば?」と言われていたくらいである。
あたしは疲れている。一番Aは窮状、二番Aはそこからの解放を望んでいる様が描かれている。
解放されたいのだから
閉塞的な状況にいるあたし。秋が来る頃にはすべてを終わらせて、笑っていたいと思うあたし。彼女のもとに訪れたのは一番同様やはり天使であった。
恋のため息はやはり一番同様Aメロで語られたことである。この「三角の耳した羽ある天使」も一番の天使と同じく内なる自分像と読ませていただく。
三角の耳の天使のアドバイスは「一度や二度は転んでみれば」と言うもので、一読するといい感じのことを言っているようである。少なくとも字面だけ見れば一番の天使よりもよほど天使らしさがある。
だがしかし、「転んでみれば」という表現が、個人的にはどこか引っ掛かる。むしろ「失敗しろ」とか「当たって砕けろ☆」と唆している感じがする。もっと突っ込んだことを言うと、この花火で歌われる恋を「失敗例」の一つとして、今後の恋愛のための踏み台にしようとしている風すらある。
……と言うのはさすがに邪推が過ぎているのだけれど、確かに「想いを伝えてみたら?」というポジティブな感じに読めはするのだけれど、しかし「失敗」も織り込み済み、という感じなのが剣呑とさせる。ど~こが天使やねん、一番より鬼畜やないかい。
が、内容はどうであれ、結果を出すことで二番Aで望まれていた「解放」は無慈悲ながら見込めるのである。そういう意味ではやはり「天使」なのである。
ところで私は22年間ずっと、何の根拠もなく一番と二番の天使は同一の存在だと思っていたのだが、あたしから生まれた存在なのは確からしいが、どうも違う存在のようだ。めっちゃくちゃ今更である。と言うか発売22周年にして初の気付きであった。
大体、出自が違うのだ。一番は苦悩から現れた「三角の目をした」天使であり、二番は解放を希求する気持ちから現れた「三角の耳した」天使、そもそも外見も違う。
そしてそれぞれ、置かれた状況に即した解決策を持ってくる。手段はどうであれ、あたしを窮地から救おうとする働きはやはり天の使いのそれなのであろう。
「転んでみれば」という表現に剣呑なところを感じながらも、一応「どうせダメでも想いを伝えてみよっ? ねっ?」という点では一番の天使よりはまとも……なのかも知れない。まあこの辺は読む人の解釈によるのだろう。
天使の性質はさておき、解放されたいあたしは何を思うのか。
花火は必ず消えるから
同じくサビで、あたしは想いの象徴である花火を再び見下ろす。
たしかに好き。もどれない。戻れない。なかったことには出来ない。一番の「仕方ない」と合わせて考えるとどれも自分から……というよりは、気付いたら取り返しのつかないことになっていたのだろう。まあ恋とは大体においてそんなものだ。だからこそ苦悩している。
そして一番とは違い、「最後の残り火に手を振った」でこのサビを終えている。これは自分から消す、というよりも、自然消滅を見送るような書き方だ。あるいはその想いから自ら遠ざかっていくような感じだ。
花火はやがて消えるし、自分も静かに去っていく。それは無理やりな悲しい終わらせ方ではない。むしろ、これが一番いいやり方なのかも知れない。
そう。もしかしてなのだが、あたしはこの恋が、最初からどうにも上手くいかないことがわかっていたフシがある。そうでもないと一番Aの苦悩はないだろう。最初から「あっコレダメだな」とわかっているタイプの恋はよくある話だ。
故に、あたしは「花火」に喩えたのかも知れない。花火は華々しくて美しく、人を惹きつけるものであるけれど、必ず消えるものでもあるからだ。
だからもしaikoにそういった意図があってこのタイトルをつけたのなら、私はこう言わなくてはならない。嘘偽りなく、君は詩人である、と。
やめれば・・・
抱いた想いが報われないことが、きっと最初からわかっていた。だから相手にはその想いを伝えられない。恋が成就できないことが、あたしには見えている。
それでもこんなに好き、たしかに好き、仕方ない、戻れないと言うほどには熱く華々しく鮮烈な想いであり、言葉できっちりけじめをつけること、明確な終わりを定めることもまた出来ない。どちらの道を歩もうとも、あたしには悲しい結末が待っている。
ではあたしは、どうするのだろうか。その答えが見えるのがCメロだ。歌詞・メロディともにぐっと切なさを増す段落だが、花火の肝はここに表されている。
どこまで意識しているかは全くわからないし、多分aikoのことなのでそこまで考えていない、と言うむちゃくちゃ失礼な自信があるのだが、「菊」とは秋の花であり、夏の風物詩である花火を秋の花である菊と暗喩するのが非常に面白いところである。しかしこれはつまり、否応なく季節が、時が過ぎゆくことを予感させる仕掛けも込められているのである。
そう、時は流れる。花火を上げるか、言葉でけじめをつけるか、逡巡している間にも、あたしにとってのタイムリミットはきっと迫りつつあるのだ。
花火を見つめて思うことは、ただ一つだけ。こんなに好きで、たしかに好きだということ。あなたが好きであり、想いを伝えたい、出来れば恋人同士になってしまいたい、と言うことなのだけれど、これまで読んできた通り、それはどうやら叶わないらしい。
段落の冒頭にも書いたが、想いを伝えても、言葉できっぱりけじめをつけても、どちらをとっても結局は悲しいことになる。最初からバッドエンドしか用意されていない、あまりにも悲痛な恋だったのだ。
そしてあたしが想起する天使の声は、こちらだった。
一番の疑問符で終わった言葉とは違い、三点リーダが意味ありげに付け加えられている。
やはりこれは内なる自分の声なのだろう。もう疲れ果てている自分がどこか投げやりに、やさぐれて言ったようにも読めるし、結局そういう終わりしかないんだよ、認めてしまえば? と、到底天使とは思えない天使がそっと囁いているようにも見える。
やめる。そう、一番で読んだ通り、どちらもきっぱりやめる、実行しないと言うことだ。想いは取り下げ、従って言葉でけじめをつけることもしなくてよくなる。理想的な回答である。
いや? 待て。確かに理想的かつ合理的だ。こ~んなに都合のいい回答、ないじゃないか!
やめてしまった方がいい、だってこんなに辛いんだもん!
ということで、花火・完! aikoさんの次回作にご期待ください!!
枯れない涙 消えない花火
とはならんのである。ではどうしたのか。
あたしが選んだ道は、花火を上げることでも、言葉に預けることでも、やめることでも、そのいずれでもなかった。
結論から言ってしまおう。あたしは「やめ」なかった。天使が差し出した第三の選択肢を取らなかった。
あたしは「第四の選択肢」を作り出し、選んだのである。
それは――「想いを抱き続け、そのため生じ続ける悲しみも抱き続ける」。
そう、言ってみれば、どちらも「やめなかった」のだ。
「やめる」か、「転ぶ」か。二者択一を迫る存在、あるいは価値観に対し、あたしが最終的に辿り着いた戦略は「想いを抱き続け、そのため生じ続ける悲しみも抱き続ける」ということ、だった。「ずっと好きでいるかわりに、ずっと悲しみ続ける」ということだ。
その解はあまりにも破天荒で、言ってみれば「理を覆すもの」であり「規律への反逆」だ。そもそも見上げるものであるはずの打ち上げ花火を「見下ろす」と言った表現をしている時点で、規律への反逆、その萌芽はあったと言えなくもない。
想いを伝えるにしろ、言葉でけじめをつけて別れを選ぶにしろ、どちらにしろバッドエンド確定の物語、それが「花火」である。
そんな曲で売れんな~! という想いと、いやこんな曲で売れたからこそのaikoだな……という感慨がごちゃ混ぜになって感情大暴走甚だしいのだが、「好きか嫌いか」「告白するかしないか」「付き合うか付き合わないか」「成就するかしないか」という、極めて乱暴で原始的な価値観が幅をきかせていたであろう90年代も終わりの平成の頃に、この「花火」の「花火は消えない 涙も枯れない」という解は、まさに一石を投じたものであったのではなかっただろうか。
ずっと好きでい続けてもいいし、そのためにずっと悲しみ続けたっていいのだ。叶わない恋だけど、それを捨てることなんて、しなくてもいいのだ。
そういう恋愛が、あってもいいのだ。
しかもそれが、この曲が出たばかりの頃にはまだ全国的に名は知られてはいなかったものの、恋愛、のみならず「人間と人間の心の動きと模様」を書かせたら、間違いなく右に出るものはいないとされるaikoによるものだったのである。
少なくとも今回読んでいて私は「aiko貴様やりおったな」と言う気持ちでいっぱいになり天を仰いでしまったくらいで、何の誇張もなく、彼女の歌詞は間違いなく文学の領域に達している、とすら感じてしまったのである。そう、私が感じた最初の「文学」を、彼女に見出した20年前のあの時のように。
バッドエンド、ではあるが、第四の選択肢の先に待つものは、唯一のトゥルーエンドでもあるように思う。
叶わぬ恋を抱き続け、そのことから生まれる悲しみも抱き続ける。確かにものすごくしんどい状況ではあるが、誰も考えなかった道だ。それを選び取ってしまうところに、切なくもひたむきで美しい人間の心の姿を、私は見出してしまう。言うなれば刹那のきらめきだ。
それこそこの曲の名前になっている、「花火」そのものではないだろうか。
消さない涙 別れを振る手
なんだかまとめのような書き方をしてしまったのだが、歌詞にはまだ続きがある。ラスサビ、いわば大サビだ。
「花火は消えない 涙も枯れない」選択を取った彼女は、この物語をどう締めくくっていくのか。
「花火は消えない」を悲痛に、叫ぶように歌い上げてから、叩き込むようにラスサビへと流れていく。大体、直前に「やめれば」が入るのはわざとと言うか、全ては「やめたくない」の表れであったのだろう。やめたくない結果が、今ここに表されている。
今も気持ちは、こんなにある。仕方なくてどうしようもなく、片付けようもない気持ちだ。
そしてここが肝なのであるが、一番とは違い「涙を落して」だけで切れている。「火を消し」てはいない。「花火は消えない」はイコール「消さない」だ。自分から恋の息の根を止めることは矛盾するからだ。さすがにそんなしんどいことはやめてくれと思っていたので良かったと思う。
自分からは消さないが、自然の、つまり“時の流れに身を任せた”感覚であるのだろう。ただすうっと涙を落とすだけの描写があまりにも切なく、美しく見えるくだりだ。
仕方ないし、戻れない。けれど季節は往くし、時は必ず等しく流れる。花火だっていつかは消える……どころか、既に書いている通り、「消える」こともセットになってこその「花火」なのだ。
消えてしまうものに喩えた時点で、あたし自身この恋の行き詰まりを最初からわかっていた。終わりなど、最初の時点からとっくのとうに予感していたのだ。
そしてあたしは、「最後の残り火に手をふった」。自分からは、消さなかった。そのあまりにも残酷で無慈悲な道は選ばなかった。
だって「好き」なのだ。「好き」だから、自分の想いに対してそんなやり方は出来ない。ただ静かに、何も言わないまま、だけれど手は、これはあくまで想像ではあるが、きっと「こんなに好き」の気持ちを表すかのように、大きく大きく、何度も振っているのだろう。
勿論そのままにしておいても結局花火は消えるので「どう違うのよ」と言われそうではあるが、水をぶっかけて無理やり終わらすのと自然に燃え尽きるのとでは、もはや全然違うだろう。
そして楽曲は、「花火」の世界は終わっていく。「夏の星座にぶらさがって」を繰り返し、歌詞にはされていないが、「バイバイ」をメロディに乗せて歌っていく。
花火は消えずに、涙も流れたままで、夏の星座にぶら下がったままのあたしは手を振りながら、その恋から静かに静かに、天の動きと共にゆっくりと遠ざかっていく。
恋の真理のそのひとつ
好きな気持ちを抱えたまま、しかし相手には告げない。そもそもから成就も出来ず、届けられもしないという悲しみも抱いたまま、それこそ夏がやがて秋に姿を変えていくように、具体的な幕引きをせずに、想いが最後には思い出になるような道を、あたしは選んだ。
それはそれで、正解とも言える。aikoの作品の中には、思い出や記憶と言う形で、恋や想いを永遠に生かそうとする手法を取るものが、いくつかある。それがきっと、報いきれない恋や虚しくやりきれなく終わった恋に贈られる、aikoなりの救済なのだ。
あたしが見送った最後の残り火は、どんなものだったろうか。
「こんなに好き」「たしかに好き」と思わせる狂おしいくらいの輝きを見送るのは、いかに悲しかったろうか。
しかし沢山打ち上げられた花火のあとに残るものは、虚しいなとか、せんないな、というような気持ちだけではあるまい。美しかった、素晴らしかった、綺麗だった、見事だった……そんな善なる気持ちだって残る。そしてそれと共に、少しく切ない気持ちも去来する。
これこそまさに、「花火は消えない 涙も枯れない」というあのフレーズそのもの、愛と悲しみが背中合わせに存在する心地ではないだろうか。
好きな気持ちも悲しい気持ちも、残り続けている。明確な線引きをせず、けじめをつけずに見送った恋だから、ひょっとするとずっとずっと、あたしの中にこの「花火」の恋は生き続けるのかも知れない。
何度も似たようなことを書いているが、花火とは確かに打ち上げれば花開いたのちに消えていく。そこには確かに、花火の持つ儚さから生まれる切なさも悲しみもある。
でも、だからって「じゃあ無駄だから花火上げるのやめましょっか」というようなことにはならない。それと同じくらい、どころか、それを上回るくらい、綺麗だなとか、素敵だなとか思うわけである。
それはまるで、思わず堕ちてしまう人と人の恋のようで――というか、まさに恋そのものだ。悲しく終われば、切なく虚しい。もう二度と誰も好きにならないとすら、思うことだってある。
けれどもそれでも、人を想わずにはいられない。
そんな普遍的な恋の姿が、この「花火」には描かれているのだ。
そう。普遍的。そうだ。「花火」のサビは普遍的な恋、いや、いわば恋の「真理」の姿の一つが、この曲には表されているのかもしれない。
この曲がヒットすることで、デビューから23年以上も経った今もなお恋の歌を歌い続けているaikoの名は全国に一気に広まり、aiko自身がちゃんと把握出来ないままに、瞬く間にトップアーティストへの道を駆けあがっていった。それもひょっとすると、運命のようなものだったのかも知れない。
いや、運命というよりはもっと宿命であるとか――やや言い過ぎではあるがいっそ「業」とまで言ってしまっても、いいものがあるように思う。
それほどまでにaikoは、広く恋愛と称される「人間と人間の心の動きと関係」に、独特の感性で以て真摯に目を向け続け、紡ぎ続け、歌い続けている。
そして私はそんなaikoという人間の生き様と、作家として描き出す幾多の地平をずっとずっと、人生の半分以上恋焦がれ、追い求め続け、今日に至っている。
複雑でありながらも、普遍的な恋を、そして恋の真理を歌いあげている秀逸な「花火」と言う、aikoにとってなくてはならない作品。
この曲はやはりaikoという歌手、に留まらない、“作家”としての“文学作品”の一つに数えても差し支えない“代表曲”として、私達は紹介し続けていかなくてはならないし、素晴らしさを伝え続けていくべきだろう。
そんな気持ちをもって、本読解を終えることとする。
第三部へのいざない
さて、この花火読解は第一部最初に書いた通り三部構成であり、今第二部が終わったところである。第二部が本編であり、まるごと読解、私がいつも行っている歌詞研究活動としては、この第二部だけで十分成立する。
だがこの花火読解は三部構成だ。第一部は筆者の思い出編、第二部は歌詞読解編。そして続く第三部はおまけであり、称するのならば「下衆の勘ぐり考察」編である。
第三部では、作者であるaiko本人とそれを巡る背景に焦点を起き、そういった視点から見て、「花火」とは一体何だったのか、aikoというアーティストから見て、「花火」から何が読み取れるのか、と言うことを探っていきたい。と言うことを探っていきたい。
趣としてはaikoと言う作家研究であり、かつ、作者aikoと「花火」を考察することによって、ちょっとした文学研究の香りも漂わせることになったのでは? と言うような感じだ。
もしかしたら今回、一番言いたいことってここにあるのでは? と下書きを書いていて思っていた。まあ俗にいう、おまけが本編というやつである。
ちなみに涙をべしょべしょに流しながらの下書きだったので、要するにエモ~い話が書いてある……かもしれない……(エモの程度は人によるので…)
ということで、気になる方は是非このまま、第三部へお進み頂きたい。