見出し画像

枯れない涙消えない花火 -aiko「花火」読解と解釈と、いろいろな思い出と、下衆の勘ぐり考察- 第一部・思い出編

本稿はaiko「花火」の読解を主たる目的とした、tamaki(PN:おきあたまき)による歌詞研究である。

だが、何分私のこの「花火」に対する思い、というよりかは思い出話やらそれなりにエモっぽい話がむちゃくちゃにあり過ぎるのと、読解をしているうちに下衆の勘ぐりのような、歌詞読解から大いに外れつつもaikoという作家にフォーカスをおいたような、どことなくなんちゃって文学研究っぽい考察が出来てしまった。
それを一つにまとめてイェ~イ! 花火歌詞読解で~す! と掲載するのは互いの味が強すぎんよこれ! ということになってしまったので、この度このように三部構成になってしまった。

ぶっちゃけ別に全部読まなくても、第二部の花火読解だけで十分歌詞研究として独立して存在出来るものである。あとの部分は完全なるおまけかつオタクの好きな推し語り&自分語りと下衆の勘ぐりに近い何かである。
なのだが、一応本稿は本記事に展開する第一部からスタートということにさせていただく。
第一部は、私とaiko「花火」にまつわる、いろいろな思い出話である。

花火概要

改めて紹介しよう。本稿全体にわたって扱うのは、aikoの「花火」という楽曲である。

aikoの「花火」は1999年8月4日に発売されたaikoの3枚目のシングルであり、aikoの名を全国に広めた一曲である。「カブトムシ」と並んで彼女の代表曲としてほぼ必ず挙げられると言ってもいいほどで、今でも夏になるとラジオや有線で流れることの多い楽曲である。

ちなみに私はこのラジオで流れる花火のことを「野生の花火」としており、2年ほど職場でFMラジオを聴いているが、大体7月に入ると流れ出す傾向がある。二年連続で必ず一回以上は耳にしているので、もはやすっかり夏の定番曲なのかも知れない(なお春には「野生の桜の時」が出没する)

どうしてこの度、aikoファン20周年の節目の特別枠としてこの「花火」読解に挑もうかと思ったのか。
それはまあ、20周年だし、そんだけデカい節目なら今まで「敢えて」避けていたこの「花火」以外にあるまいよ……ということが理由の大半なのだが、それよりも何よりも、そもそも、私が人生で初めて聴いたaikoの曲が、この「花火」であるからというのが、一番の理由である。

遠く遠く、それは今から22年前の夏。
私は「花火」を介して、初めてaikoに出逢った。

“夏の星座にぶらさがって”

はっきりした日付は思い出せない。発売が1999年8月なので、8月であったはずだ。私はラジオのパワープレイで、aikoの「花火」と巡り逢った。

その前年の1998年。aikoが「あした」でメジャーデビューした頃とほぼ季節を同じくして、私はいわゆる“オタク”として覚醒していた。アニメを片っ端から見始め、アニメ雑誌を読み漁り、声優という職業を意識し始め、憧れを抱くようになった。
オタクの覚醒はイコールラジオ生活の始まりであり、当時傾倒していた林原めぐみさんのTokyo Boogie Nightを始め、アニメ系であろうとなかろうと色々なラジオを聴くようになったし(ていうかあの当時はアニメ系全然少なかったよ~今でもか…いや今ではYouTubeとかで聴けるんよ! 声優のラジオはぶっちゃけほとんどWebラジオなんよ! Radikoもあるしな! いい時代になったネ…)深夜ラジオの為に夜更かしもするようになった。私が完全なる夜型人間であるのはこの辺に理由がある。

そうやってすっかり、ラジオっ子かつどうしようもないオタクへ成長を遂げた私がある夏の日に出逢ったのが「花火」なのである。

その頃も今も絶妙に創作を交えた二次創作に余念がなく、ノート一冊使ってイラストを描いたり、小説ではないがくだらないネタ文章を書いたりなど、まったく不真面目上等に夏休みを過ごしていた。
そしておそらくは、夜遅くになって聴いたそのフレーズに、私は一瞬で心惹かれた。後から思えば、きっと恋に堕ちていた。――そしてその恋に、私はきっとずっと、今でもずっとずっと、浸っているのであろう。

夏の星座にぶら下がって 上から花火を見下ろして

ちなみに私の中に浮かんだイメージはこんな感じである。

ずっとこの図からアップロードされてない

そう。ぶ ら 下 が っ て い な い(どーん)
腰掛けているのだ。私とaikoの絶妙にかみ合わない歴史はここから始まっているのだ! いや単純にお前が間違っただけやねん。

でも、「花火を見下ろす」と言う構図が齢12の私にとって、とても画期的な目線であったことには変わりなく、だからこそこういったイメージが22年経った今も離れないのである。
どこか物悲しそうな、切なそうな、背中を見せる少女が、星座に腰掛け、花火を見下ろしている――というのが、私の「花火」の原風景なのだが、「花火」の制作背景とどこか通じるものを感じて、ついつい“運命”を感じてしまうのだ。オタクは運命を感じがち。

その当時フルサイズで聴いていたかどうかは定かではない。パワープレイなのでせいぜいCメロ手前くらいだろうか。でも一曲まるまる流すこともあるし、フルで聴いていたような気もする。何せ小学生の頃である、容易には思い出せない。
「三角の目をした羽ある天使」にも何だか感動したことを覚えている。いや今となっては正直どこに? という感じではあるのだけれど、その当時の私にとっては新しい表現だった。「疲れてるんならやめれば?」も結構衝撃的な歌詞だった。まさか20年以上この人に何かしらで感動し続けていることになるとはこの時の私は思いもしていなかったし、夢にも見ていなかったわけであるが……。

そう。その時の私はまだ、aikoがどういう人で、どういう姿をしている人かも、実は全くわからなかった。ひょっとすると「桜の木の下」のジャケットとブックレットで初めてその姿を知ったかも知れない。
それまでの私とaikoは、「花火」と言う曲のみで繋がっていた。メロディと、そして、私を心を捕えて離さなかったあの歌詞によってだ。
あの時浮かんだ切なげで幻想的なイメージは、今も胸に静かに輝き続けている。

そしてaikoに文学を見る

時は流れて2001年夏。色々あって私は登校拒否をキメてるガールになり、その心の隙間に入り込んで一体何がどうなってそんなに肥大化してしまったのか、その発端はマジで全く思い出せずtamakiの七不思議のひとつとなっているのだが(20年前のことってな~んにも思い出せんのよね~)とにかくまあ、aikoのことがやたらと好きになってしまったのである。

そしてやたらとネットサーフをしてとにかく片っ端からaikoの情報を探り続ける日々。うーんハマりたてという感じである。メジャーデビューしてまだ3年だったのでギリほぼ最初から追える範囲だったのも幸いしていた(言うてそれほど最初の方は知らん)

そんな中で、私はたまたま、本当にたまたま、「花火」の歌詞を小説のように読解しているコラム(エッセイ)を載せた個人サイト様に辿り着いた。
それが、もろやんさんが運営していた「ぐうたら雑記館」さんだった。
そのサイトは色々な書評や文芸、ミステリに関するコラムが多く載せられていて、管理人のもろやんさんは文庫の解説などもお書きになっていたらしい。
その花火についての文章は「小説の面白さ 実践編 -aiko「花火」論-」と題されたものだった。

私はその方の「花火」の読解を純粋な気持ちで読んでみて初めて「歌詞も小説のように読める」と言うことを知った。
それまで私の中で、aikoであろうとアニメソングであろうと、歌詞とはあくまで『詩』でしかなかった。美しく抽象的で、どこか手の届かない高次的な世界である、と勝手に遠く感じていた。
だけどこの方の読解で、歌詞も私達が理解出来る世界であり、『読み物』であることを理解した。この方が書いた「花火」の解釈を読み、そうやって読むことを知れた時の感動は、今でも鮮やかに、本当によく覚えている。

とにかく、ただただ衝撃的だった。歌詞を、こんな風に読むことが出来るなんて。あの時明らかに、齢14、中学校という義務教育の籠からはぐれてしまって、aiko以外に目指すべき道しるべを見失ってしまった中学二年生だった私の世界は、突然とてつもなく広がったのだ。
そしていかにaikoの描く世界が優れているか、それこそ雷に打たれたような驚きと、初めて海と空の青さを実感したような感動を覚えたのである。

そしてもろやんさんはそのエッセイの結びにおいて、文学とは一体どういったものであるのか、どう研究すればいいのか、小説における表現とはどのようであるべきなのか、どうして作家達はそれを表現しようとするのか、そんな文学研究と創作における非常に大切なことを、中学生の私にもわかるレベルで大変わかりやすく書いてくれていた。

そして私は気付く。それこそ、人生を変える気付きであったかも知れない。
「aikoの歌詞って、文学になるの?」と。

――その翌年のことだ。ユーミンこと松任谷由実の名曲「春よ、来い」の歌詞が、光村図書の中学二年向け「国語」……いわゆる「国語の教科書」に掲載されたことを知り、私にはさらに電撃が走る。
そのことが一番のきっかけで、私はこう思うようになった。

「歌詞も文学作品のように読めるのではないだろうか」
「aikoの歌詞も、文学作品として研究出来るかもしれない」
「その為に、文学研究を志してもいいのではないだろうか」

そして、最終的にはこう考えた。
「大学の文学部を目指してはいけないだろうか」と。
今にして思えば、これが私が母校の文学部文学科(現在は名称が変わっている)を志した一番初めに生まれた理由だったように思う。
それまで何となく、まあ小説好きだし、自分でも書いてるし、国語の資料集読むの好きだし、古文の問題とかも好きだし……と漠然と考えていた「国語」と言う科目が「文学」という姿を持つようになり、明確に“学ぶべきもの”と意識するようになった。

その全てが、このaikoの「花火」にあったのだ。

そして月日は流れ、大学で一応は文学士としての学問を修めたのち、紆余曲折がありながらも、2012年に個人誌「aiko文学」を発行したところから数えて十年近く、「aiko歌詞研究」と言う活動を続けてきたのである。
ちなみに大学では郷土の作家・泉鏡花を始めとする日本近代文学を専攻としていたので、実を言うと詩文についてはな~んもわからん(だめやんけ!)卒論は鏡花で書きました。

とまあ、この時の衝撃があまりにも大きく、私の中でずっと、それはもう頑なに「花火は読まない」と決めてきた。「敢えて」避けていたとはそういうことだ。「花火」は私のaiko歌詞研究において永久欠番になるはずだったのだ。私がaikoに出逢った曲で、aiko自身も全国に名を広げた大切な一曲であるにも関わらず。
私は「ぐうたら雑記館」さんの読解を越えることは出来ないと、固く信じていたからだ。
だって私の原点なのだ、文字通り。aikoの点でいっても、文学研究の点で言っても。

そう。文学研究だ。先述したように、繰り返しになるが私の中で初めて「これが文学なの?」と思ったのが、ぐうたら雑記館さんの「花火」の読解だったのだ。
国語の教科書でもない。ワークブックの問題でもなく、進研ゼミの教材でもなく、図書館で借りて来た本でもない。自分で書いた小説でもない。
私にとっての初めての文学は、間違いなくaikoにあったのだ。

……しかしこうして振り返ってみると、「ひまわりになったら」と同じレベルどころかそれを二回りくらい上回る感情のデカさというか、一人の人間の人生決めてんじゃん。となった。なるほど、aikoは人生とはあながち間違いではないってコトね……。

「花火」読解、やっぞ!

で、話は戻って「花火」の読解を出来なかった理由と言うかしなかった理由であるが、既に書いている通りあの方を越える読解はないと、私が思っているからです。以上。
だったのだが、残念ながら「ぐうたら雑記館」は既にページが消滅し、あの素晴らしい「花火」のエッセイにもアクセス出来ないようになっている。aiko歌詞研究界の大きな損失だと思います。かろうじてインターネットアーカイブでなんとかサルベージ出来るようなのですが…

で・もー。私はとっくのとうに、この「花火」のエッセイページをプリントアウトしていたのである!
は~~っはっはっはっ! やっぱ情報は紙媒体が!物理が正義っすよ!
(Excite musicのページが消滅して時シルのインタビューに当たれなくて泣いてる~~!!)(来年「運命」やるのに…「運命」について言及あるのに……)

なら、今回の読解にあたって読み直そうと――思うじゃん?

無理!!!!
読んだら絶対!!
それ以上の読み!!! 出来ない!!!\(^o^)/

親鳥だもんしょうがないじゃん。そして私はめっちゃくちゃ影響されやすいタイプなので、そんなん読み直したらそれに寄るに決まってんじゃ~ん。
だがしかし、今でもすこ~しばかり残る、その読み。おいらはその……親鳥を越えてかなきゃなんねえのよ…!

まあでも私もまがりなりにも、そろそろ10年近くはaikoの歌詞研究を続けてきて(年二回だけど)(年がら年中やってないの)(私の中のコミケみたいなもんなので)大体読解のリズムのようなものも出来あがってきた。
aikoファン歴20年、そして、このぐうたら雑記館さんの読解を読んでからも20年である。そして来年は(それ以前からもやっていたが、個人誌発行から数えて)aiko歌詞研究歴10年となる。

更に、2018年に「カブトムシ」を、2020年に「ボーイフレンド」を読んだ。「花火」と並ぶaikoの代表曲と呼ばれる二曲である。
この二曲を読んでおいて、aikoで最も有名と言っても過言ではない「花火」を欠番とするのはあまりに不自然であり、aikoファンとしてもさすがに気まずいというもの。何より「花火」を読まないことが、aikoへの不敬と取られてしまっては我慢ならない。

ならば。ここらでいっちょ、私は自分なりに、aikoにとってなくてはならない、そして私を文学に誘った「花火」を読んでみてもいいのではないだろうか。

うん! そうだね!
よっしゃ~~~! 読むか!!!

ということで、いよいよ「花火」の歌詞読解がスタートです。
はい、この第一部は落語のマクラ、アバンタイトルみたいなものです。いや~、ここまでくるの、長かったわね~~~!20年ですよ、20年!

最初に完全なる自己満な読解についての感想を言うと、オッホ~~~!? めっちゃいい読み出来たや~~~ん!??!? って感じです。自分の文章は褒めていくスタイル。しかも、いろいろ考え過ぎてaikoの深奥みたいなところに突入した。それは第三部の考察編でやるらしい。いや大した話じゃないけど。
ということでどうか読者の皆様、この次のnote記事↓もよろしくお願いします。だってこっちが本編っすよ~~~!!!!


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?