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世界のいろは空のいろ -aiko「運命」読解 および99の死と1つの希望について-

aikoは人生な文章書く系&小説書くオタクのtamakiです。PNはおきあたまきといいます。
aikoのデビュー記念日の7月(前期)と誕生日の11月(後期)にaiko歌詞研究として2曲読んで発表する活動をしています。

2020年までは個人サイト「愛子抄」で掲載していましたが、2021年からnoteでの掲載に移行しました。マガジン「aikoごと」にこれまでの読解のnoteをまとめているほか、一部愛子抄からの転載もあります。

過去作について、徐々にこちらに転載していこうと思いますが、思った以上に時間がかかるのできまぐれです。それもあるけど昔の自分の文章が正直見れたものではないので、あんまりやる気がないです。
今時ビルダーで作ってる個人サイトなのでしぬほど読みにくいですが、他の曲が気になった方は是非「愛子抄」の方にアクセスしてみてください。「カブトムシ」はこっちにあります。

本題にいきます。2022年前期は「運命」と「ストロー」を読みました。
本noteでは「運命」稿を掲載します。単体としては「ひまわりになったら」稿に迫るくらいの長文となりましたので、「ストロー」は7/19に掲載予定です。

はじめに


「運命」はaikoの10枚目のアルバム「時のシルエット」の7曲目として世に発表された、荒々しくも不思議と爽快感のあるロックナンバーである。ライブで披露されることも多く、いつだったかのCDTVの年越しライブでも歌唱されたことがある。

昨年行われたツアーLove Like Pop vol.21の金沢公演はまさかの(というかぼちぼち恒例になっているが…)ダブルアンコールがあったのだが「ま、まん防出たばっかなんに!アカ~~ン!!」とハラハラしていたのだが、2曲目にこの「運命」がブチ込まれ、もうどうでもええんじゃあああ!!! とハイになってしまった程度には筆者のめちゃくちゃ大好きソングである。……っていうかひょっとして「時のシルエット」で一番好きまであるな?(えっ)(発売から十周年ですよ?)

まあそれもそうだろうと思う。この「運命」という一曲、とある理由からとりわけ思い入れが強い。

筆者の個人的な思い出と思い入れ

一体いつ頃からはっきりそう思っていたか定かではないものの、私はいつからかこう強く思うようになっていた。

運命……これ……投身自殺の曲や!

なんでや。10年前の私は私と言えどもはや別人なので思い切り他人の立場から言わせてもらう。なんでやねん。
しかし私にはとにかく投身自殺の曲にしか聞こえなかったのである。「思い切り生きた もう生きた」の投げやりっぷりも、「冗談まじりに運命を信じていた」という絶望も自殺をほのめかすそれであり、何よりラスサビの「向こうの空」という表現が、自分とは反対側にある→「あたし」は落下しているのではないか? と想像をひどくかき立てるものであった。
私が思う世界では「運命」投身自殺アンソロが出ていてもおかしくないのだが……なんでこの世界では出てないんですか!?(出ないよ)

まあともかく、そんな風に、とかく創作欲をかきたてられる曲だったのだ。
だった……ので……。

10年出しっぱなしだったので、表紙とか大分色が変わってた。

小説を出しました。

この前年に二次創作で中綴じ折本をほんの少部数だけ刷ってもらっていたので人生初…というわけでは厳密にはないのだけど、創作では初めて印刷所さんに頼んで(みんな大好きPRINT ONさんです)きちんとした無線綴じの「本」にしてもらった。
これが創作としては初めての、立派な見た目でのおきあたまきの「本」であった。2012年11月に開催された第15回文学フリマにて頒布しました。

そら~~~もう思い入れがあるどころではないくらいにある。ちなみに小説の後書きによると(普段後書き書かない作家ですがこの時は書いた)この小説自体が「運命」の私なりの解釈になっているらしい。……えっ。知らん。怖。
さっきも書いたが十年前の自分の書いたものになぞもう全く責任はないのだ。もはや別人が書いたものなのだよ~~~(投げ)私は去年書いた歌詞研究のことも忘れる女やぞ。

いやしかし……めっちゃ正しいオタクムーブで、よくないですか? これぞ小説書くタイプのaikoのオタクとしてのあるべき姿というかあらまほしい姿である。とすら思う。見てるか!朝井リョウ!
思えばaikoの曲をヒントだったり原作だったりモチーフだったりで小説を書くことはこれまで何回も、それこそ現在の執筆業でもやっていることではあるけれど、ここまできちんとした本にすることはなかった。
創作かつaiko、というとこの一作だけなので、振り返って考えてみるとやはり思い入れが深いな…と思うところである。
まあ何せ十年前の話なのでう~~~~ん……と思うところもないではないが、最後の展開は今でも気に入っています。興味のある方は是非お読みください。

で、この小説の後書きにて(先述したましたが普段後書きは書かないタイプです)(大事なことなのでしつこく書く)「本格的な考察はまたいつか」と書いており、何かのきっかけで去年読み返した時に、十年後にあたる今年、すなわち2022年にこの発言を回収するのも一興かと思い、今回取り上げることになったのである。
ちなみに「その時はaiko曲における「運命」とはを考えてみたい」などと書いてあるのだが、今回そんなことをするつもりは一切ない。フリー素材なのでどなたはやってください(私も気が向いたら考えてみます)

あくまでいつも通り、「運命」は歌詞だけと真剣に向き合って読んでいこうと思う。序文が長くなったが、まずaikoはこの「運命」および「時のシルエット」というアルバムにどういった想いを抱き託したのであろうか。

資料を読む

でも、資料が、またしてもあんまりない!

「運命」はアルバム曲であり、aikobonや別冊aikoのライナーノーツに収録されたアルバム曲ならいいものの、そうでないもの(が大半を占めるようになってしまったわね)はピンポイントでコメントを述べているインタビューや記事がないのが難点である。
……何が言いたいのかと言うと……「夜空綺麗」に引き続き、資料がない。ない!な~い!のである!

唯一「運命」について直で話しているページを、現在は消失しているがインターネットの力を借りることによってなんとかサルベージ出来た。……のであるが歌詞については一切述べておらず、サウンド面や歌唱面においてのみの言及であったorz どうして…どうして…

Excite:サウンド的に衝撃だったのは「運命」。かなりロックなイメージですよね。
aiko:これはもうライヴのイメージですね。レコーディングの時にもプロデューサーに「この曲は音程を意識せず、ライヴだと思って歌いなさい」って言ってもらえたので、思い切り歌えました。歌っていると歌詞の中の世界がすごく自分の頭の中に浮かぶ曲でもありますね。
Excite:早く生で聴いてみたいですねぇ。
aiko:テンポが速い曲なのでミュージシャンの方たちはかなり大変そうでしたけど、「やりきった~!」って思える曲ですね。

excite musicインタビュー「aiko 想いをさらけ出した10thアルバム」・現在はページ消失

「歌詞の中の世界がすごく自分の頭の中に浮かぶ」と言っているが、一体aikoにはどんな世界が見えているというのか…クソッ…それを知りたいんじゃこっちは…!

とは言え、私が採取し切れていないだけで、「運命」についてちゃんと文字として残っている可能性はある。精査したのかと言われれば口ごもるところもあるので、もし「こんな言及ありました」というのがあったらTwitterのDMでもnoteのコメントでもいいのでこっそり教えてください。ラジオはこの頃Radiko課金もまだだったから、やっぱり追い切れてないしね……。てかRadikoプレミアムってこの頃もうあったかしら。

「夜空綺麗」の時にも書いたが、ほぼ歌詞のみで戦った「花火」読解がご好評頂けているので、「運命」も畢竟、歌詞を真剣に読めばおのずから読めてくるものなのだろう。
しかしながら、やはり「夜空綺麗」と同じく「運命」はアルバムの一曲であり、アルバムには文脈やコンセプト、テーマがある。
少しでも読解の手がかりや指針を探るべく、「時のシルエット」発売時のインタビューに目を向けていこうと思う。

「ずっと」レベルの曲の数々

まずは今でもアルバム特集ページにアクセス出来るナタリーから見ていこう。

──制作を振り返ってみていかがですか?
私としては、今までで一番アルバムのことしか見えなくなって作った作品でした。音楽作りをしているときだけは、夢中になってて、日々のしんどいこととかを忘れられたんです。あとこの2年3カ月の間には震災もあって、歌えることの喜びを改めて感じた期間でもあったんですね。だから例え多少コンディションが悪くても、歌えるのが本当にうれしくて仕方なくて、どんどんのめり込んでいったんです。歌詞を考えるときも、しんどさを忘れたいから、グッと集中して本当のことを一生懸命見つけて書きました。

ナタリー・aiko「時のシルエット」特集

この「グッと集中して」という手法で思い出すのは「ずっと」の制作方法であった。実際インタビュー後半にも「ずっと」についての言及がある。aiko曰く、時のシルエットの曲達は「ずっと」レベルの曲が詰まっているということだ。
「ずっと」がどのように書かれていたか、少しインタビューを引用しよう。

(タイアップのドラマが)まっすぐな恋というテーマなら、いつも以上にそうありたいと思って、今の状況とか年齢とか何もかも真っ白にして、私が大切な人を想う時にいちばん初めに生まれるもの、根底にあるものを曲にしようと思って。こう、夜中にひとり、ピアノの前で目をつぶってじーっと考えて。それで、出てきたものをぶわーっと弾いて、歌って、歌詞を書きとめて……と一晩中やって生まれました。一言一句、ギリギリまでねばり続けて作りました

「ずっと」発売時(2011年11月)のオリコンスタイルより

まさに「一魂集中」という語句がふさわしい制作背景であり、職人と言うよりはやはり真の意味で芸術家であると、いっそ畏怖の念すら抱かせる。
昨年2021年、アルバム「どうしたって伝えられないから」発売時のMTV特別番組において「一度書き出したら(ネタやアイデアとして語句をストックしておくのではなく)一旦終わりまで書く」と話していたので、普段から集中型なのであろうが、「ずっと」はそれが普段以上で、そして「時のシルエット」の面々はそうした曲作りの改革の中で生まれていた。何のノイズもなく曲の世界はその世界だけで留まり、aikoはその中を深く深く潜っていったのである。

素のaikoが出した言葉

ナタリーのインタビュー引用に戻る。

──本当のことを一生懸命見つけて書いた、とはどういうことですか?
これまでも自分の思ってることを曲にしてたんやけど、今回は特に、現実で起こってることとか、そのときのそのまんまの自分がリアルに出たというか。それがこのアルバムの特徴やなって、出来上がったのを聴いていてすごく思いました。書いてる最中は必死だからあんまり気付かずにいたんやけど、「思い切り生きた もう生きた」とか「知らない体抱くような」とかは、素の自分にならないと書けなかった言葉だと思うんですよね。

ナタリー・aiko「時のシルエット」特集

「運命」の、よりにもよってラスサビ前、一番の問題となる箇所への言及が私が見つけた限り唯一の言及であった。マジでよりにもよってそこですかという感じである。
「素の自分にならないと書けなかった」とは、なかなかに衝撃的な発言のように思う。つまりどういうことなのだろう。これまでは何か取り繕ったり、持って回った言い方をしていた……言うなればオブラートに包んだ表現をしていた、ということなのだろうか。私が思う以上にそれだけヤバい、aikoにとっては踏み込んだ表現だったのだろうか……?

──なるほど。
あと、今だから書けたフレーズだとも思います。昔だったら「こういうこと書いていいかな」って自分の中でためらってたかもしれない。
──生々しすぎるということで?
そうですね。今回は本当にギリギリのところに立たされたことで、気持ちの核の部分しか書かなかった気がするんです。前は、気持ちの全体像とか、核の周りにあるグラデーションがかかった部分も見て、そこにさらに妄想とか思ってることを重ねて書いてたんですけど、それが少なかった。というか真ん中をすごい集中して書いたために、グラデーションのところを考える余裕がなかったんです。
──確かにド真ん中のストレートを投げ続けている感じを受けました。気の利いたレトリックや脚色などに頼らず、純度の高いaikoさんの言葉があふれていて。
「ずっと」は、好きな人を思う気持ちの塊だけを曲にしようと思って書いたんですけど、そういう新しい曲の書き方をしてみたことが大きかったのかもしれないですね。10枚目にしてまた新しい自分に出会えた感じがします。だからこそ、自分に課す課題も増えた。こうやって書けるなら次も、そのまた次もやれると思いました。

ナタリー・aiko「時のシルエット」特集

やはりaikoにとって「ずっと」は大きな転機になった曲なのだと改めて感じ入る次第である。「ずっと」の読解は数年前に書いたが、そのうちnoteに転載したく思う。
それにつけても、「気持ちの核の部分しか書かなかった気がする」とか「真ん中をすごい集中して書いた」「全体像、周りのグラデーションを考える余裕がなかった」と読んでいて武者震いのしてくるコメントである。「運命」に限らず他の曲も相当の熱なり重さなりが込められていることを思うとやはりゾクゾクするし、読むこちらとしても丁重に扱わねばなるまいと思うのである。

0か100

続いて「H」に行く。こちらはaikoのグラビア、aikoをめぐる土地10撰、各アルバムキーワードレビューなど読み応え抜群なので、入手する機会があれば是非お手元に置いてもらいたい。

アルバム出来上がったあとに、なんかすごく、時間にこだわってるなあって、歌詞読んで思ったんです。それは、今まで生きてきて、もちろんいろんなことがあって、震災もあって、人とつながっていくことがいかに大事なのかとか、ちゃんと寝て目が覚めるっていうことってほんとに奇跡的なことなんだなって思うようになったからなんだと思うんです。だから自分は時間にこだわったんだと思ったし、永遠も絶対にあるとどこかで信じているみたいな。いろんな自分がいますけど、今回のアルバムには、メモリで言うと、0か100の形で出た感じがすごくしました。

(H・2012年7月号)

「メモリでいうと0か100の形で出た感じがすごくしました」というaikoの言は「時のシルエット」を一言で表した最たる自己評だと私は思っている。恋愛的にプラスの曲にしろマイナスの曲にしろとかく極端であるように思う。生に振れていたかと思えば死の方向に振れ、モノクロームだと思っていたら原色が飛び散らかっているような……それでいてアルバムとしてきちんとまとまっているのだからなおすごいと思う。
そして現時点で私が思うに、「運命」はこのaikoの語彙を用いて言うならずばり「0」の曲なのではないだろうか。

なかったことにさせないために

次は発売当時のオリコンスタイルにいこう。

──(前略)今回はずばぬけて潔いというか、表現がとても生っぽくて。自分をさらけ出してるなぁって感じました。
ありがとうございます。今までもそういうつもりで書いていたけど、もっといってもいいのかなって。もっとあからさまにならないと、思ったことが書けなくなったし、自分が納得いかなくなったんです。ドロっとした苦い想いも、夢に見たことも、自分の心にあるものはすべて曲にしておきたくなった。全部を出し切らないと、アルバムを完成させることができなかったんだと思います。

オリスタ2012年7/2号

「全部を出しきらないと完成させることは出来なかった」と言うくらいなのだし、一曲一曲が重いのもむべなるかなと言うところである。

(中略)
重ねてきた時間を振り返ってみると、“あ、これが自分だったんだ”って確認できるんですよね。悲しかった思い出も、嬉しかった思い出もそう。ひとつひとつの時のカケラが増えていくたびに、“これも私だ”“こんな性格やったんや”って自分を受け入れられるというか。“これが人間だし、生きるってことなんだよ”って教えてくれる。私にとっては、嫌な時間も、大切なカケラだから。どんなに苦しんだ思い出もなかったことにはしたくないんやと思う。だから、今、自分のこと嫌いで苦しい人や、過去の痛みに囚われている人も、死ぬほどつらいだろうけど、いつかは必ずそう思える日がやってくるから。どんな時間も大切にしてほしいし、私もこれからそうしていきたいなって思います。

(オリスタ2012年7/2号)

ひょっとすると、これが「運命」という聴くだに救いようのない曲がどうして収録されたかを解く一助になるかも知れない。
さきほどちらっと書いたように、「運命」は0ポジション、一番底にあるような曲と思っているのだが、aikoはそんな状態である曲も「なかったことにはしたくない」と思い、「これも自分だ」「自分から出てきたどうしようもない想い(カケラ)だ」と掬いあげた。それこそが自分を作り支える者になると知っているからこそ、思い切った表現も込めて曲として残そうとしたのだ。

瞬間瞬間を描く

あまり資料が多くなり過ぎてもとっちらかってしまうので、最後にオリコンミュージックを参照しよう。これも2022年7月現在アクセス出来るものだ。

――2年3ヶ月ぶりのアルバムですね。それだけに充実の内容で、すごく聴き応えがありました。曲調のバラエティさはもちろんなんですけど、1曲1曲に表現された感情も、いろんな瞬間を切り取っているなって。
aiko:ありがとうございます。ずっとアルバムを作っていると、すごいことをさせてもらっているなって、やればやるほど思うんですよ。だからこそ、曲も書けば書くほど、もっとまとっていたものを取り払って書かないと、今の自分をちゃんと表現できていない気になる。だから、今回は1曲1曲本当にギリギリのなかで作っていきましたし、今までのアルバムよりも新しいことをいっぱいレコ―ディングでやらさせてもらった気がしていますね。

オリコンミュージック・aiko『全身全霊を傾けて制作した、2年3ヶ月ぶりアルバムが完成!』

「まとっていたものを取り払って」「1曲1曲本当にギリギリのなかで作って」と今まで読んできたものと同様の発言が見られる。やはり時シルの曲一つ一つにとんでもない熱量が込められているのだなと思うとますますおののかんばかりである。

(中略)
――今“まとっていたものを取り払って書いた”とおっしゃっていましたが、実際曲ごとに一瞬一瞬の素直な感情を切り取っている印象。しかも、それがすごく鮮やかですよね。
aiko:私は、もしもこんなことが起こってしまったら……って考えがちな人間なんですけど、今回は震災とかもあったりしたので、人と出会えることや明日が来ることは奇跡的なことなんやから、1分1秒って大事なんやなって余計思うようになったんです。だから、そういう言葉がたくさんアルバムにも集まったんやろうなって思いました。

オリコンミュージック・aiko『全身全霊を傾けて制作した、2年3ヶ月ぶりアルバムが完成!』

ここでふと思い出すのは当時話題になった初回盤ジャケットである。

最高大好きジャケットのひとつ

aikoが空を飛んでいるように見える奇跡の一枚だが、あれもまさにaikoが何百回も飛んだであろうその一分一秒の「一瞬」「瞬間」を捉えたものである。ジャケットにどれだけaikoの意図が反映されているかはわからないが、その瞬間瞬間にしかない気持ちと物語を凝縮させたaiko特有の刹那主義をより強めた曲が収録されているのがこの「時のシルエット」というアルバムなのだ、ということなのかも知れない。

ざっと四つの媒体を拾ってきた。全文を引用するのは引用の範囲を超えるので是非アクセスしたり入手したりして読んでいただきたい。
どの曲も「ずっと」レベルの気持ちの込め方で作られており、表現として0か100か、それくらいの極端な振れ幅にして最大のものが出されているようだ。余計なことやもって回った言い方はせずに、一挙集中した形で生まれた楽曲は作者たるaiko自身「気持ちの核の部分しか出ていない」とまで言ってしまえるものであった。
「運命」の歌詞に関しての唯一の言及は、「素の自分にならないと書けなかった」というものだが、考えてみるに、オブラートにつつまず、ごまかしもなく、想いをそのままぶちまけてしまったようなフレーズだったのだろう。あの「思い切り生きた もう生きた」は「運命」の中でかなり私の心が掴まれてしまったフレーズでもあるので、やはりそういったものは人の心を大きく魅了するのだと感じるばかりである。

そしてオリスタの「嫌な時間も、大切なカケラだから」から始まる一連の言葉であるが、やはりこの考えが一番、「運命」が曲として生まれるに至った理由を語っているように思う。一番どん底にいるような曲だけれど、「なかったことにはしたくない」むしろゼロ地点だからこそのスタート地点ですらある。ゆえに彼女は歌詞として、曲として残したのであろう。

それで私が結局本稿でどうしていくのかという話になるのだが、aikoがただひたすら歌詞の世界のみに集中して書いたのなら、私も同じように、ただひたすら歌詞にまっすぐに向き合うよりほかないのである。
つまり、いつも通りに歌詞をひたすら真剣に読む、ということだ。四つも参照しておいて結局いつも通りか~い!という感じなのだが、いつも以上に真剣に読み解いていくという気合いは十分である。どこまで出来るかはさておき……。

歌詞を読む・一番

はじまりはモノクローム

それではいよいよ本編である。
その前に一つ言っておかなければならないのだが、私が「はじめに」においてこの「運命」が投身自殺の曲に聴こえる、とか何とか言っていたのだが、あれは単なる印象の話でしかない。きちんと歌詞を読んでいけばそれがいかに荒唐無稽な読みであったかが見えてくるだろうと思う。

ベランダのコンクリートに黒い水玉模様
少し雨が降り始めた 頭が痛い

「コンクリート」で想起されるのは、灰色でざらついていてカサカサなイメージであろう。後にも書くが、世界から彩度が失せている。恋は既に終わっていて、あたしも何もかも失い干からびているような状態を読み手に抱かせるのが容易な冒頭だ。世界全体は曇り空のような灰色になってしまっている。
「黒い水玉模様」とあるように(今曇り空と書いたが)そんな乾ききって灰色な世界に、まるで涙のように雨が降ってくる。頭が痛い──と書くが気象による痛みばかりでもないだろう。
さて、歌詞で表れた、あるいは想起させる色は灰と黒で見事に彩がない。雨が降っているのもあって、世界も空気も大分重苦しいのが感じられる。

だけど空気を入れ替えたい 窓は開けていようか
同じくあたしの心も入れ替えられないかな

空気が重苦しいと書いたばかりだが、頭痛も引き起こしているあたしはこの淀んだ空気から抜け出そうとしてか、雨は降っているものの窓を開けに行くというアクションを起こしている。
実は歌詞全体を見渡していてもこの行為は唯一アクティブというか、わりと能動的な行動だったりする。なので少しは生きよう、前向きでいよう、という意志が感じられるような気がするのであるが、「窓を開けて」いる、のである。正直、今期最大の気付きたくなかったポイントだったりするのだが……いや、深読みはやめておこう。
しかしながら、「窓を開ける」ことで失恋以降閉じていたあたしの部屋は一旦、世界へ通じるところを取り戻すわけである。その点からして、やはり少しポジティブな箇所なのかも知れない。

それは死ぬの優しい言い換え

続く「あたしの心も入れ替えられないかな」に、ふと思い出すことがある。
ついさっき「運命」だけに集中して歌詞を読むと決めておきながら早速別の曲を引用してしまうのだが、思い出すのは2020年の「ハニーメモリー」の一節である。この曲にはこういった歌詞が登場する。

「心臓は5個あったらいいな
入れ替えたらあなたの前でずっと笑ってられるわ」

aiko「ハニーメモリー」

心臓を入れ替えれば別人になれる、違う人になれるから、相手に傷ついたり失望したりしてもずっと笑っていられる、という旨のことをaikoは発売当時に語っていた。「ハニーメモリー」の中で一番重たさや深刻を感じられる部分で非常に好きなフレーズなのだが、運命の「心も入れ替えられないかな」も「心臓を入れ替える」とも言い換えられないだろうか。

そして「心臓を入れ替える」とは、即ち死ぬ、ということの婉曲的な表現の可能性はないだろうか。
実はaiko本人もこのフレーズが出来た背景について、「(そんな人とこれからも付き合っていくためには)一回死んで生まれ変わるしかないと本当に思ったことがあった」(2020.10.23 J-WAVE「JK RADIO TOKYO UNITED THE HIDDEN STORY」より)と言及しているのである。

この件に関しては一旦置いておこう。Aメロから読み取れることとしては、無味乾燥としたモノクロームの世界であり、それは失恋からくる絶望や失望が齎したものらしい。空気も重く押し潰してくるような現実に対し、あたしはからっぽで干からびていて、生気もほとんど潰えたような状況にある。

何が間違いなのか?

こんな日はこんな日は
間違ってしまう

サビに繋ぐBメロは短い。そして不可解である。
一体、何を? という感じだ。間違うとは何をどうすることを指しているのであろうか?……保留にしておこう。今の時点では何も読み取れない。ただわかるのは、こんな世界の底に追いやられたような状況で初めて選び取ってしまう「何か」があるらしい、ということだ。

“そんな事”

あなたを愛していた もうそんな事も忘れた
冗談まじりに運命を信じていた

ここまで十分、打ちひしがれた「あたし」の姿を見てきているわけだが、サビで彼女と彼女の恋愛が明らかになり、聴いている側としては死体蹴りに近い気持ちである。事実はいつだって強烈で、真実はいつだって正し過ぎて痛過ぎる。

愛していた。あなたにただひたすら夢中だった。そんな自分がどうだろう。もうとにかく、「忘れた」と忘却を持ち出すまでに、遠い遠い過去に成り下がっているのである。
第一「あなたを愛していた」ことを「そんな事」とまで言っているのである。そんな事とは何事だ!そんな事程度にすな!と思わず憤ってしまった。いや、この部分、今回読んでて初めて気が付いたので……。

とにかく、今までの現実が、あたしが体験していた一つ一つのものが全てあたしには信じられなくなってしまった。というよりは、意味を失くしてしまったという感じだろうか。まさに天地がひっくり返るほどのものなのだろう。からっぽになったあたしには、残響のようにこの疑問はこだましているに違いない。あの日々は、本当に現実だったのだろうかと。

そしてこの曲を最も象徴し、タイトルにもなっている「運命」が現れるフレーズ、「冗談まじりに運命を信じていた」であるが、きっと恋愛の日々を振り返っての一言であろう。その当時の自分がなんと幼く、なんと愚かに見えることか。勝手に思い上がっていたのは自分だけで、あなた側は何とも思っていなかったかも知れない。
皮肉、というにはむごすぎる。もう少し慈悲というものを……と思ってしまう。たとえばその……「ただの友達だったあの頃に少しだけハナマルつけてあげよう」みたいなさ……(どこにでも湧いて出てくる「ひまわりになったら」のオタク)

本当にそうだったかしら?

今は元気にしてるの?
ねぇ本当にあの時抱きしめてくれたのはあなただったの?

「今は元気にしてるの」と問うあたしだが、あなたと断絶している以上、あなたの今が当然の如くわからない。「ねぇ本当にあの時抱きしめてくれたのはあなただったの?」とも問うけれど、こう問いかけるレベルには、あなたが別人のようになってしまったのではないだろうか。
恋の終わりとは誰だってそうなるのかも知れない。全ての価値がなくなってしまい、愛していた人は興味の持てない人になる。途端に、つまらないもので、軽蔑するものにまでなってしまう。だから皆、恋が終わりませんようにと願ってしまうのだろう。
急に詩人になってしまったが、しかしながら、あたしの方こそ「そんな事も忘れた」と冷たく言い捨ててしまうくらいには別人になってしまっているのである。(いやしかし、考えてみると「忘れた」というのは、あなた側のことなのかも知れない…)

何も信じられないの

ざっと一番をまとめよう。
荒々しいサウンドとは真逆を行くように、呆然とした心境のスケッチがなされていたくだりであった。ベランダのコンクリートや黒い水玉模様をつくる雨など、世界は重く、色彩に欠いていて陰鬱とした雰囲気の中、あたしもあたしでがらんどうになったかのように、一読しただけでも覇気がない様子が感じられるだろう。心を入れ替えられないか──言ってみれば何もかも忘れて気持ちを切り替えられないかと思うくらいには当然ながら嫌気がさしている。

とかく、一言で言えば“打ちひしがれている”のである。「あなたを愛していた」ことも忘れるくらい──“そんな事”と言ってしまうくらいには、自暴自棄になっているあたしである。

「冗談まじりに運命を信じていた」とは実に痛烈なフレーズであり、かつての自分への皮肉であるが、先述した通り皮肉にしては無慈悲が過ぎる。むしろただの罵倒とか嘲りと言った方がまだ正確に思えてくる。
どちらにせよわかるのは、かつての己に対しここまで言えてしまうくらいには、あたしはボコボコに、こてんぱんにやられているのだ。勿論その無念の矛先は多少なりともあなた側にも向けられてはいるのだろうが、それよりも「運命」は「愚かだった自分への嘲り」のニュアンスの方が大きいように思う。

これは私個人の勝手な推測ではあるが、個人的にはあたしはあなたに「捨てられた側」なのだと思っている。「あなただったの?」と最後にあるように、別れた頃はそれまでとは別人のようにあたしに手酷く当たっていたのではないだろうか。
そのくらい態度を変えていたか、冷たくなって連絡も入れず、会いに来ることもなく、とにかく相手にしなかったか。なんとなく後者であったのではないかと思う次第である。この辺の解釈は人によって変わってくるであろう。

天地がひっくり返る、とは先述したことだが、「運命」の恋愛の終わりは「急に来た」系なのではないだろうか。古の言葉で言うところの青天の霹靂である。ここまで打ちひしがれている……いや現実に理解が追い付いていないのは、じわじわ崩壊していった感じでもなければ、「嘆きのキス」のように別れを予感していた感じでもなかったのではないか、と私としては感じるところである。
長々と書いてきたが、一番は一言で言えば「呆然」であろう。呆然としたあたし、生気の尽き果てたあたしと、かつての恋愛に対して何にも信じられなくなった様を無慈悲に克明に描き出しているのである。

歌詞を読む・二番

連れ出される日を待っている

二番ではどういったことが語られているのであろう。

ガラス窓ぶつかった光が増えて作る夢道
同じくあたしの心も連れてってくれないかな

急に我が最推しアルバムの略称が出てきて動揺どころではない。おお~い、何で夢道をここで使ったんやマジで。
それは置いといて、二番では「光」とあるように、おそらく雨は上がっている。そのため「光」が窓に射し込んでいる状況と思われる。

aikoが何を考えて夢道と表現したかはわからないものの、夢道の例の「ペロリ」に書かれているメッセージを(それこそ十何年ぶりくらいにペロリして)読んでみた。
そのうえであくまで意訳してみるのだが、広義の「生きていく道」なのではないだろうか。あるいは生きる場所である。光が増える、と言う表現も善なる方向で読み取るならば、「夢や希望のあふれるひなたの道」と受け取っても良さそうである。
一番から見れば、少し救われている、と感じる次第である。一番の状況がずっと続いているのなら、この夢道も目に映ることはなかっただろうから。陰鬱な世界に一応は抜け道と言うか、希望の在り処が示されている。

しかし、示されているだけだ。目に見えているだけだ。「あたしの心も連れてってくれないかな」とある通りである。「同じく」が少しひっかかるが、そこに夢の道があるなら、そこに在るなら、あたしもそっち側にいたい、ここから居場所を移してもらいたい、といった感じだろうか。
とりあえず、光のあたる所に行きたいのであるが、それは自分の足で進んで辿り着きたいと言っているわけではないのである。あくまで誰かに、あるいは何かに「連れ出して」欲しいのである。
自分からそこへ行けるだけの力は「まだ」なくて、なんだったらそんな発想すらなさそうなところが、雨は上がっても回復には至っていない、あたしの悲しむべき姿である。

ところで、私が変な読みの方向に走っているのは承知のことなのだが、「連れてって」という書き方にどこか不穏なニュアンスを感じるのだが、どうだろうか。
光が満ちている所があり、そこへ連れてってもらいたい。……なんだか浄土や救済を求めているような絵が浮かんでくる。人を連れ出すことは「迎え」とも言うし、ならば「お迎え」とは、何を表す婉曲表現だっただろうか……。
……いや! こう読んでしまうのはさすがに恣意的、と言わざるをえまい。これは置いておこう。二番Aにおいては、あたしはこのがらんどうかつ、重たくて底辺のような気持ちから少しでも逃れたく感じるものの、自分でそう出来る力はなく、ただ僥倖的な救済を待っている……という読みが妥当だろう。

体も心もここには無い

こんな日はこんな日は
傷付けてしまう

二番Bであるが、実はこれもよくわからない。
が、傷つけてしまうのはおそらく、自分のことなのではないか、と思う。そのくらい周りに対象がなさすぎるので正直単なる推測である。ただ、自分から光あふれる道を歩める力もないあたしに、自身を傷付けるだけの力があるのか、甚だ疑問ではある。

受け止められない程身も心もこの愛も
遠くに離れていってしまったのね

サビでは今の、というかこの曲自体のあたしの状態がここで明かされる。
一番で読んだことの答え合わせのような形となるが、やはり心も愛も、そして身体すらもそうなっていると思うくらい、何もかもが遠く遠くに離れていってしまっている。
それくらいあたしは恋の終わりを「受け止められない」のだ。一番終わりに呆然としている、と書いたが、まさにそれがピタリとハマった、と言っていいだろう。

求:この先を生き抜く力

いつしか熟して腐ってく良いことや悪いことを
泣いて抱きしめる力が欲しいんだよ

これほどまでに、「生きていくこと」を端的に表現したものはなかなかないだろう。もっと細かく言うと「この先を生きていく力」であるし、それはまさしくアルバムタイトルにも冠されている時間、「時が流れる」ということの表現でもあろう。
ただ、「欲しい」と言っていることから、もうさんざっぱら読んでわかる通り、今のあたしにはそれがない。枯渇している。ゼロであるのだ。まるで時が止まっているようにも思えてくる。
aikoもインタビューで語っていた通り、その時その時の一瞬にしかない気持ち、その核の核たる部分をギュッと詰め込んでいるのがまざまざと感じられる。「H」で0か100か、とaikoは語っていたが、生きていく力を失っている「運命」は間違いなく、既に何回か書いている通り、「ゼロ」地点にある曲と言えよう。

Point Zero

ここまで二番を読んできた。あたしにこの現状を受け止められる力もなければ、この先を生きていく力もない。本当にからっぽの、まさしく精根尽きた状態だ。

勿論、この先に生まれる見込みはある。けれど作者のaikoはインタビューでも確認した通り、今この時点での、この状態のあたしのことしか描いていないので、あたしにはいつ訪れるかわからない不確定な未来のことなど、一つも考えられないし、希望を託す術さえ持ち合わせていないのである。
ひなたの道に連れていってもらいたい。けれど、自分で立ち上がる力もなさそうなくらい──というか、「生きる力」を欠いているうえに、身も心も愛も離れている。
あたしには何もかもが無い。先述した通りに、ここはゼロ地点なのである。

けれども一つだけ、あたしが自分で動かしたものがある。
それは“空”に通じる“窓”であった。ここに希望を見るか、それとも絶望を見るか。残るは大サビ前のCメロと大サビである。果たしてそこにはどんな物語が記されているのだろうか。

歌詞を読む・Cメロ

これ以上何もやることはありません

ここからが鬼門であり、「運命」の真のサビとも言えるかも知れない。この曲の全てがここからラストに集約されているようにも感じるくらい、私にはものすごくお気に入りの箇所だ。

こんな日はこんな日は
間違ってしまう

一番で読み解くのを一旦保留にしたフレーズが、ラストを前にして再び現れる。
間違う、とはそもそも何なのだろう。どう間違えるのか。だいたい、それなら「間違えない」のは一体どういう動きを指しているというのか。後回しにしてきたことを、やっと考えてみよう。
しかしこのフレーズだけで読み解くのは正直難しい。そこで、直後に続くものに注目したい。

思い切り生きた
もう生きた

これは、一種の終わりの表現である。ニュアンスとしては完了形だろう。
しかしながら、これはどこか「やけっぱち」な感じが強い。一番二番を踏まえると、よりそう思う。昨年読んだ「遊園地」の「窓から一緒に捨ててやりました」もたいがい自暴自棄ではあったが、これも相当だろう。

……いや、よりタチが悪いと言わざるを得ない。「もう生きた」なんて、「生ききったのでこれ以上何もやることはありません」という意志表示にも近い。ここにあるのは強烈な拒絶である。そもそも「もう生きた」なんて、普通に生活していたらまず言わない。

生きることを「間違え」る

そのうえで、「間違う」の真意についてである。

間違うの直後に出た動詞は「生きた」すなわち「生きる」ということだった。単純に読み解くのならば、あたしは「生きること」に対して「間違ってしまう」のではないだろうか。

あたしはここで、それまで愚直に続けてきた「生きる」という行いに大して、自己評価で「思い切り生きた/もう生きた」と歌い、清算を無理やり行っている。
そして読んできた通り、あたしは今、冗談ではなくどん底に倒れ伏している。それ故に、「生きる」というごく当たり前の行動にも突っぱねた判断を下してしまうし、そもそも二番サビで読んだが、その「生きる」に必要な力も彼女は失っているのである。
そんな状態なら、確かに生きることを「間違ってしまう」のも無理はないのである。というかもっと最悪に捉えるのなら、間違える「しかない」のである。どちらかと言えばそっちの方がより適した読みかも知れない。

生きるの反対

ならば、あたしは何をするのだろうか?
「間違う」ということの解釈は人それぞれであるが、ここは一つ、「反対のことをする」「逆のことをする」と読んでみよう。

「生きる」ことの「反対」。
それはつまり、「自分から死ぬ」ということである。

自分から死ぬ。命を自ら絶つ。自分自身を止めてしまう。
それを裏付けているのが「もう生きた」というフレーズではなかろうか。「もう生きた」は「もうやめた」「もうおしまい」も同義なのだ。
これがこの「運命」における、どころか、aikoのあらゆる作品の中で最も悲しくも狂おしい、aikoが表現しうる中で最大の「終わり」そして「諦め」の表現なのかも知れない。

aikoはこのフレーズについて言及を残している。
彼女は「素の自分にならないと書けなかった」と話していた。自分の命を簡単に放り投げるようなぞんざいな言葉を、何もかもとっぱらった中で、aikoは抱き得る人だった、と言うことだ。
それまではセーブが効いていて、表出することはなかった。けれども今回の「時のシルエット」でその制御はなくなってしまう。aikoはそれくらい、自分の命や人生や恋愛を、恐ろしく冷たい目で見ることが出来る女でもあった、ということだ。

おきあたまきの敗北

少し気持ちが走り過ぎたところもあるが、一旦落ち着きたい。
一番二番でこの読みに着地してしまうのもしょうがないと思ってしまうのが、読み解き手たる私としても非常に大混乱というか、大困惑しているところなのである。

確かに。確かに、冒頭で述べた通り、私はこの曲を投身自殺する女の曲だと書いたが、そんな風にキャッキャしてきたのは、あくまで自分勝手な印象で言っていたオタクの妄言でしかなかったのだ。
きちんと文章に沿って読めばきちんとした世界が見えてくる。そんな荒唐無稽なあらすじはあり得ない。
そう思っていたのに、あろうことか見事にデッドエンドルートに突入してしまったのである。どう足掻いても死の運命から逃れられない「運命」ちゃん、そう評してしまうくらいだった。

私がaikoファンである前にどうしようもないオタクな所為かも知れない。私以外の人が読めばこうはならないはずなのだ。
しかしながら、音的にも文脈的にも、死を以て終わらせようとしている感じなのがやっぱり気にな……いやそう読んでしまうのは私の思い込みが強いせい……aiko絶対にこんなこと考えてない……くそう!!!

とにかく、私は「運命」を「死」と読む読みから逃れられなかったのである!! 十年の思い込みは強い。私は私に敗北した。

だが……あたしは、窓を開いていた。心を入れ替えたいと思っていた。窓に近付いていた。光のあふれる道に連れ出して欲しいと願っていた。そして、「もう生きた」とまで言ってしまったのだ。お膳立ては十分になされているのである。
前の恋愛が終わってしまった時点で、あたしの人生に価値はなくなってしまっている。あまりにも無残な幕引きの時間が、もうそこまで迫っているのだ。窓を越えて、真っ逆さまに己の体を落としていくお膳立ては、もうすっかり出来上がってしまっているのである。

歌詞を読む・大サビ

生きることは信じること

もう今の時点で大分打ちひしがれてしまっているが、「運命」はまだ終わってない。

あなたを愛していた もうそんな事も忘れた
冗談まじりに運命を信じていた

考えてみれば、誰かを好きになり愛していくこともまた、「生きている」ということかも知れない。別に恋人じゃなくてもいい、推しがいると人生がきらめき生きる目的を見出せるというやつでいい。
しかしあたしはそのことを忘れているし、かつての自分や、自分の抱いていた恋心を「そんな事」と冷たく言い捨てもする。そうしてしまえるくらい、何もかもがもう遠い遠い昔の話なのだ。

そしてもう一つ思うのは、生きていると言うことはすなわち、少なくともこの曲においては、「運命を信じている」ということでもあるのかも知れない。
何せ「命を運ぶ」と書いて運命である。字面だけを見てもそうだ。私達は毎日自分の命を運んで暮らしているのだし……とは言え、aikoにそこまでの想定があったとは思えないので、これは単に私が字面から浮かべた思い付きに過ぎない。
aikoは至って普通に、「生まれる前から定まっていること」の意味で運命を用いたのだろうし、それをつい信じてしまう無邪気さや、女子に少なからずある夢見がちなところを敢えて書くことで、残酷なまでに手心のなさを私達にこれでもかと突き付けたのである。恋愛と言う事象に対して、aikoという人間の持つぞっとするほどの冷酷さと冷徹さを嫌でも感じてしまうくだりでもある。全く何というフレーズを書いたのだあの女は。

あたしの反対側の空

しかしながら、「信じているものがある」ことや「愛しているものがある」ことが、即ち「生きていること」についての十分条件であることはわかっていただけると思う。そしてそれをとうに失ってしまったあたしは、二番で見た通り未来に希望を抱く力もないのである。
「思い切り生きた もう生きた」──そう歌った時点で、あたしはあたしの命にエンドマークをつけている。何もかもを使い果たし、きれいさっぱりと。それこそ、命を、命を宿す器を失っても、何の後悔もないように。

ところで、冒頭に書いた通り、私はこの曲を“投身”自殺の曲だと思っていた。冒頭の繰り返しとなるが、そのイメージは次のくだりに「向こうの空」と出てくるためである。落ちていくあたしの反対側に空があるイメージが、どうしても離れてくれないのだ。

あたしは境界を越え、ゆっくりと舞い落ちる。
そう、それはゆるやかに、しかし超高速で彼女を、本当に何もない、無なる死へと真っ逆さまに堕としていく──。

と、言うことであたしはまもなく死んでしまいます!
さようならみなさん!
aikoさんの次回作にご期待下さい!!

それは澄んだ水の色

……と、思うじゃん?(思わん)

そうなのだ。もしかすると、「そうはならない」かも知れないのである。
それでこそaiko、と言わんばかりのくだりが、この絶望と失望の煮凝りのような歌詞の最後の最後で、ようやく表れる。ここまで100%死に注がれていたかも知れない目線が、それでは終わらなかった。
ほんの1%だけ、生の方向に傾くのである。まるでパンドラの箱に残されていた、最後の希望のように。

向こうの空が少し水色を放った

ここで「水色」という色彩が現れる。覚えているだろうか。一番冒頭では灰色と黒だけの、陰鬱で重々しい、全ての希望が途絶えたような世界だった。

ところが、最後の最後、あたしが「間違う」直前で、世界に急に色が戻ってきたのである。
そしてその色が最初に戻ってきたのは「空」だった。陰りの象徴である雨自体は二番で既に上がってはいた。だがそこにはまだ光しか見えなかった。その時は雲が多かったのかも知れない。その雲が段々晴れて、色がさしてきたのである。

世界のいろは空のいろ

さて、私はかつて「青い光」や昨年発表した「夜空綺麗」において、「空とは世界そのもののこと」という読み方を行ってきたので、今回の「運命」においても、それを適用させて読み解こうと思う。

この空をくれたのはあなただったの

空はイコール「世界」と読むとして、その空をくれたのは「あなた」だったと、ここで書いている。
「だったの?」と一番と同じように疑問符がついている可能性もなくはない。こればっかりはaikoに電話してどっちなのか問い質さないとマジでわからないやつである。
が、一番では「?」と付いていることから、ひょっとすると対比でこの最後のフレーズではつけないことにした、すなわち肯定文の可能性の方が高い、と見たい(疑問文だとまた別読解を用意しないといけず読みが分散してしまうので、今回は割愛ということにさせてほしい)

シンプルに言うと、世界とはイコールあなた、というわけでもある。いくらなんでも感情がデカすぎではあるが、「運命」はそのあなたを失ったどころか、あなたから捨てられたくらいまであるのである。
言ってみれば世界からの追放だ。やはりここでも「死」と同義であり、どうあがいても「死」の読みから逃れられないのが少しわかってもらえたかと思う。

しかしだ。世界と結びつき、あなたとも結びついていたものは、99%死んでいるようなこんな状況でも、まだ確かに存在しているのである。

空だけは誰も疑わない

それが、今私達の頭上にも広がっている「空」である。空にはまだあたしに、等しく人類に残されている。すなわち、言ってみれば希望にも等しいのである。
あなたを失っても、恋が終わっても、「空」は在るのだ。入れ物としての「世界」はある。変わらずに、何も知らずに、存在し続けている。それをあたしは見つけて「しまう」のである。

そう。その空の色を、他でもない「あたし」が見つけるのだ。
ひょっとすると、あなたがいなくなっても空があること、世界が変わらずに存在し続けることに、下手したらそこで初めて気付いたのかもわからない。それは物事の残酷さと惨さであるが、決してそれだけではない。同じくらいの優しさがあるのではないかと、私は、何となくそう思う。

ところで、空の色を「水色」というのも少し独特で面白いと感じるのであるけれど、それこそ、そんな風に言っていたのが他ならぬ「あなた」であり、だからこそあたしは「この空をくれたのはあなた」と歌ったのかも知れない。
しかし、そうであることと同時に、そうでもなくある。空なんて誰が考えたわけでも、作り出したわけでもない。変わらずにずっとずっとそこにあったものであって、そしてそれは、世界自体もそうであるのだ。

続・何事もなく続くなら

もう、あたしの近くにあなたはいない。──奇しくも、「時のシルエット」収録曲にしてMVも制作され、リード曲として音楽番組で多数歌われていた「くちびる」の「あなたのいない世界にはあたしもいない」と、正反対を走っている。それが「運命」の状況だ。

かつての愛は死に絶えた。無邪気に信じていた運命はせせら笑うように消え、あたし自身も死の淵にいるくらい、何もかも失っていたことだろう。

おそらく本当に、全てを終わらせるくらいまでいってしまったのだと思う。そうだ。世界にはいっそ死んでしまった方がずっといいことが、あちこちにある。
生き続けることは、とてつもなく苦しいことだ。終わらせることが出来るなら、どんなに楽だろう?

しかし、あたしは世界が何事もなく続いて存在し続けていることに、最後の最後で気付いてしまったのだ。
変わらずに日は昇り、沈み、雨が降り、また上がる。誰かが笑って喜んで泣いて、お腹が空いて喉が渇く。
そしてどこかの誰かと誰かが惹かれ合って、恋に堕ちる。

あなたはいなくなってしまったけれど、あたしと、あなたがくれた空は在り続けているのである。
そりゃ確かに、気付かない方がずっとずっと幸せだったかも知れないけれど、だけど、そこで何もかも終わりにするよりは、ずっとよかったのではないだろうか?

昨年読解した「何時何分」と同じである。世界は何事もなく続き、空は晴れたり雨を降らせたりする。そこでも書いた通り、恋も愛も、一度ダメになったからと言って、終わってしまったからと言って、人生を棒に振るくらいのものではないのである。
その恋がどんなに激しくて、どんなに愛しくて離れがたい人で、その人を失ったことで全てが無価値に思えたとしても、人の命が、人生が、その人のかけがえのない時間が、そんなもの程度で終わってはいけないのである。

このラスサビが一番の繰り返しだったのならば、おそらくデッドエンドだっただろう。
しかしこの「空」が、ほんの1%だけメモリを生の方向に動かしてくれたのである。これをパンドラの箱の底に残された希望と言わずして何と言おう。そしてこの、この僅かにも生に結びつかせようとするあがきこそ、aikoのaikoたるゆえんであると、私は固く信じている。

おわりに -私の運命の人・aiko-

あたしは「空」があることに気付く。気付いてしまった。
まだ手に取れるほど確固たるものにはなっていないけれど、希望の芽が出たところで、この「運命」は終わっている。いや芽どころではなく、種レベルかも知れない。いずれにせよ曲は忙しなく終わり、その先のことは一切語られない。

先ほど1メモリでも生に傾かせたことについて、それこそがaikoのaikoたるゆえんであると書いたのだが、しかしわからない。案外この先、あたしはぽっくり死んでいるかも知れない。現実はいつだって非情なので、やっぱり針は死の方向へ思いっきり振れるかも知れない。
が、aikoがインタビューで語っていた通り、ぐっと集中して作った、言うなれば「その瞬間のことだけを描いた」ものなので、それ以降のことを考えたり勘ぐったりするのはあまりにも野暮と言うものだろう。私もそこまで責任は持てない。

思うに、この曲を生み出し、アルバムの一曲として残したことには、aikoの祈りがあるかも知れない。
オリスタで語っていた通り、どんなに嫌なことや辛いことがあっても、それはやがて自分を作る時のシルエットの一つになっていくのだ。人生の中では恋愛に限らずとも、死んでしまいたい時や、すべてに絶望して何もかも終わらせてしまいたい時があるだろう。
でも、世界は続いていく。時は永遠に流れていく。生きてさえいれば、きっと何かが見えてくる。光あふれた夢に繋がるひなたの道を、誰かや何かに連れ出されるのではなく、自分で歩める日がいつかやってくるだろう。

そうなるかもしれない未来へ繋がる今に、何とかあたしを括り付けたその僅かな一瞬、それを捉え描いたのが、「運命」という曲だったのかも知れない。
そしてそうやって生きていく先、いつかの未来で、この「運命」で語られた恋も愛も、かつての想い人のことも、その一つ一つの思い出も、肯定できる日が──受け止めて、誰かに語ることの出来る日が来ればいいと、そう思う。
「そんな事」なんて言わないで欲しいし、「忘れた」なんて言い捨てるのも、あまりにも悲しいことじゃないか。
そこには確かに、ひたむきに誰かを想っていた、愛していた、恋していた、輝かしいあなたがいるのだから。

「運命」。とても心惹かれる、ロマンティックでミステリアスな言葉だ。おそらくaikoは「運命の人」「運命の恋」で用いられるニュアンスの「運命」をこの曲の名前にしたのだろうが、読解した私からしてみると、この曲が表している「死から生へと切り替わる運命の一瞬」と言う意味での「運命」がネーミングの意図だったのかも知れない。そう思う限りである。

そうして生きていった先に──そう、それこそ「命を運んだ」先に待ち受ける人の中に、本当の意味で「運命の人」もいるかもわからない。
少なくとも私にとっては間違いなくaikoもその一人である。そしてまだaikoを知らない人や、aikoに出逢うべき人、aikoを必要としている人達にも、“運命の人”としてaikoといつか出逢えますように。

その為に彼女の音楽がこれからも末永く、時の中で聴き継がれていくことを願いながら、この稿を終え、再び毎日を生きていくことにしよう。

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