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枯れない涙消えない花火 -aiko「花火」読解と解釈と、いろいろな思い出と、下衆の勘ぐり考察- 第三部・下衆の勘ぐり考察編

本稿はaiko「花火」の読解を主たる目的とした、tamaki(PN:おきあたまき)による歌詞研究である。三部構成となっており、本記事はその第三部にあたる。以下は第一部と第二部のリンク。

第二部終わりに書いた通り、ここでは、作者であるaiko本人とそれを巡る背景に焦点を起き、そういった視点から見て、「花火」とは一体何だったのかaikoというアーティストから見て、「花火」から何が読み取れるのか、と言うことを探っていきたい。
趣としてはaikoと言う作家研究であり、かつ、作者aikoと「花火」を考察することによって、ちょっとした文学研究の香りも漂わせることになったのでは? と言うような感じだ。

すべては、読解にあたって、花火の制作背景を見ていた時に、ふ、と思いついたことであった。

歌手よりまえのaikoのおはなし

制作背景については第二部読解で書いた通りである。毎年友人達と行っていた淀川花火大会に、aikoは仕事で行くことが出来なかった。これがそもそもの「花火」誕生のきっかけである。
その年の7月17日、つまりこの花火大会のわずか一ヶ月前、aikoは「あした」でメジャーデビューを果たしており、この花火大会に被ってしまった仕事もおそらくは歌手活動においての仕事だったのだろうと推測している。

実はその前年までの年も、aikoは一応は有名人であった。インディーズデビューはまだしていないものの、地元のラジオ・FM大阪の深夜番組・COUNTDOWN KANSAI TOP40のDJを務めていたのだ。二代目パーソナリティで、96年の4月から担当していたようである。

……ん? いやちょっと待ってください??
確認の為に、一番古いライブパンフであるLove Like Pop Vol.4のライブパンフのバイオグラフィ見てるんですけど……。

96年4月→fm-osaka「COUNTDOWN KANSAI TOP40」パーソナリティ開始
97年4月→MBS「ぽっぷん王国」パーソナリティ開始
97年10月→MBS「ヤンタンMUSIC MAX」パーソナリティ開始
97年12月→インディーズ1stアルバム「astral box」リリース

……。
なんッッッッでメジャーデビューどころかインディーズ1st出る前にラジオ3本もやってるんです!?!?!??!
しかもメジャーデビュー後にラジオ2本も追加されとるやんけ!?!??! ラジオ5本!?!??!!? アホなの!?!? バカなの!?!?! この人どんだけラジオ好きなんです!??!!? そら「違うよとノイズまじりに叱られた」どころじゃねーわこんなんラジオ本体でボコボコに殴られるやつだわ!?!?

……いっや~、こりゃ実質ラジオ曲である「メロンソーダ」の読解のハードル、爆上がりしちゃったな~……。というかこの人追って20年で初めてこのとんでもない事実を認識したような気がする……。何事も遅い……。でもそれって、今でも驚かされるってコト…つまり、そう、SUKI……。

ていうかむしろこんな筋金入りのラジオっ子みたいなバックボーンでよくあじがと(有料aikoサイト「team aiko」にて隔週配信中のwebラジオ・あじがとレディオのこと)を2017年までやらなかったのか不思議なくらいである。いくらなんでも遅すぎんよ……。まあサブスク解禁も遅かったしな……。ベスト出るのも遅かったわ……。

話が大いに逸れた。そんなわけで、歌手としてデビューしてはいないものの、ラジオのDJとしてそれなりに名前は売れていたのではないかと思う。
というか多分そう。私のaiko関係のフォロワーさんで「ラジオの子ってイメージやった」と語る関西の方もおられたし、aiko自身もaikobonのロングインタビューで「DJやってましたからねぇ、何年も。だから普通にDJとして私の番組聴いてくれてた人は「デビューってどういうこと?」みたいに思ってたかも知れませんね」と話している(aikobon 151ページ)
いやホントに、歌手としての道がなかったらラジオのDJとして食っていけたのではないかと思うよ……。
とまあ、そんな感じで地元大阪でちょっとした有名人ではあったものの、花火大会には行けてたわけである。

ところが、メジャーデビューし、歌手としての仕事がきっかけで(多分)花火大会には行けなくなってしまったのだ。
その次の年はどうだったのか……と思うまでもない。翌年1999年8月4日、花火大会の前日に発売したのが、それこそこの「花火」である。全国津々浦々を巡るPR活動に忙殺されていた頃だ。とてもじゃないが地元の花火大会のことなど、もしかすると思い出す暇もなかったかも知れない。第二部で引用したBP会報掲載のキャンペーン記録によると、花火大会当日の8月5日は広島と岡山で一日中プロモーション活動をしていたようだ。

そしてその次の年の2000年。大阪には既に、aikoの姿はなかった。歌手活動に本格的に専念するために、大阪からの通いを止め、2000年の1月にaikoは拠点を東京に移していたのであった。
そしてその年の3月、2ndアルバム「桜の木の下」をリリース。ミリオンセールスを記録し、その年の暮れには「ボーイフレンド」で紅白歌合戦出場を果たした。
その頃には既に、aikoは、ほんの3年前まで地元で3本も番組を抱えていたラジオDJとしての姿よりも、オリコンチャートを飾るシンガーソングライターとしての姿の方が、より濃く全国的に映るようになっていたのだった。

……。
やばい……。
これ書きながら、「aikoが遠くへ行ってしまった……」と悲しくなっているワイがおる……。
でもだってそーーーーーーーーーじゃーーーーーーーん!!!!!!!!!深夜ラジオのDJやってたねーちゃんが4年後紅白出るとか夢にも思わんじゃーーーん!!!!! 最初のライブのチケットラジオで予約受付とかしてた歌手がですよ!?!? ファンレターの住所リストでチケットのDM送ってた歌手がですよ!?!?!?!? もう全然めっちゃ遠いとこいっちゃってるじゃーーーん!!!!

いや……まあ……それもこれも全部aikoがマジでガチの天才過ぎて、とんでもねえ歌手だからこそって思うけど……思うけどね……。
せやねん……天才やねん、この人……皆さん知ってますか?? この人19歳になるまで曲作ったことなかったのに最初に作った曲でコンテスト大賞受賞してるんですよ……?? 更に言うとその時風邪引いてたとかで歌唱におけるコンディション最悪だったにも関わらずですよ……何??? 天才って本当にいるんですね??? 皆さん色々な天才ご存じだと思いますがそこにaikoさんの名前も加えといてくださいね……。

まあでも、人気アーティストの一人になった、そうなったきっかけって、もうそれもこれもぜ~~んぶ「花火」が売れたからよねぇ……しみじみ……とか思っちゃったんですよね……。
いやあ……aikoを一般人から完全に切り離した曲って考えると、ちょっと怖いもんがあるよね。

「花火」隠しルートへ進みますか

そう。これだ。
「aikoを一般人から完全に切り離した曲って考えると、ちょっと怖いもんがある」
これこそ冒頭で書いた「思いついたこと」である。
ここに、「花火」に隠されたもう一つの物語――aiko自身の物語があるのではないだろうか。

ここから先に書くことは、第二部で述べた歌詞読解とは完っ全に切り離された世界であることを、どうか心に留めておいてもらいたい。
花火の読解は読解で、ここから私があれやこれやを下衆の勘ぐりで考察し好き勝手に書くのは、スーパーハイパー深読み乙ということです。いつもの歌詞研究だったらこんなことは絶対にやらないし、そもそも私が嫌いな行動でもあります。

多分aikoそこまで考えてないよどころか、そんなこと絶対に意識もせず書いただろうし、何だったらaikoに「たまきぃ!おめーやりやがったな!」と殴られる可能性すらある。
……??? マジ??? ほっぺた空けて待ってます💓

と言っても何もaikoを侮辱するわけではない。そんなことするわけなかろう、世界で一番好きな人ですよ。
でもただ、もし本当にaikoが読んだら、きっとちょっと、複雑な気持ちになるだろうな、とは思う。
aikoも気付いていなかったことに、気付かせてしまうかも知れない。言ってみれば私は、aikoのブラックボックスの一つを開けてしまったかも知れないのだ。

それでも私は、この下衆の勘ぐり考察を深めたことで、どうしても「花火」読解において実は腑に落ちていなかったことが、「あ~~~~!? そういうこと!?」と、それはもうびっくりするくらいスッと腑に落ちたのである。
それと同時に、aikoという作家、いや人間に、また私なりの歩み方で、少し近づけたような、ちょっとだけ、それまでわからなかったことがわかったような、そんな気もした。それでまた、やっぱりaikoのことが好きになったと、そう思う。
出来ればこれを読んでいる方にも、aikoのことを好きになってもらいたい。この先のお話に興味があるようでしたら、どうか進んでもらいたいです。

花火が象徴するのは

私は第二部の花火の読解において、こう書いた。

制作背景を踏まえるに、「花火」の物語において重要なのは、花火大会に集っていたaikoの友人達が象徴する「あなた」側がどうこう、と言うよりも、花火大会に行けなかった作詞者のaikoが象徴する「あたし」側に「何かがあった」あるいは「何かがある」と言うことである。

あたしは、あなたから離れようとしている。と言うか離れざるを得ないのっぴきならない事情がある様子なのだ。

のっぴきならない事情。決して「あたし」イコールaikoというわけではないのだが、制作背景になぞらえて考えるなら、「それは歌手としての仕事」であり、それをもっと大雑把に捉えると、aikoの『夢』ということになる。

対するあなた側は、何だろうか。
友人達や、aikoの学生時代の思い出や、ラジオDJとして地元のちょっとした有名人になっていたこと……他にも色々、地元大阪でのありとあらゆることと言えよう。それをまとめた大きな象徴のような「行けなかった花火大会」が、「花火」の制作背景では語られている。
これもざっくばらんに、大雑把にとらえてしまうなら、『aikoが夢を叶えていなかった頃』つまりは、『一般人だった頃』だ。

勿論aikoはこの頃、既にコンテストで大賞を取っていたり、事務所の社長から声を掛けられていたり、インディーズの制作に取り掛かっていたりと、夢に向かっての準備段階を着実に一歩一歩進んでいる時期であった。
それでもまだ、歌手としては明確にデビューしていない。出来ていない頃だ。大衆と言う砂粒に埋もれていた原石に過ぎない存在でしかなかった時なのだ。

私はあくまで、「花火」の読解の上では、「花火」とはあたしの想いの象徴であると書いた。それは正しい。
でもそれはあくまで読解の上での話だ。重ね重ねになるが、ここで語ることは第二部の読解とはわけで考えて欲しい。

この下衆の勘ぐり考察において、「花火」とは別のことを象徴している。
というか、もう既にほとんど書いてしまっている。

「花火」が象徴するのは、「一般人だった頃のaiko」なのだ。
aikoではない、柳井愛子、あるいは甲斐愛子だった頃だ。
友達と花火大会に行けて、ラジオのDJで楽しくお喋りをして、友達と遊んで、海にもお祭りにも、買い物にもどこにでも行けて、恋愛相談にのって、そして自分も誰かに恋をしていたかもしれない、そんな、名もなき少女だった頃の全てだ。言ってみれば、「かつての自分」だ。

それを、たしかに好きと、こんなに好きと、彼女は歌う。aikoの地元愛もラジオ愛も友人達への愛も、今更語る必要はないくらいだ。
むしろaikoはどこまでも一般人であるようにすら思う。そりゃ、新曲やアルバムが出る時にはメディアへの露出が増えるから、雑誌を買ったりテレビやラジオをチェックしていたりすると「そう……aikoは芸能人なのだ!」と冗談めかして思ったりするが、ライブのMCにしろラジオでのお喋りにしろ、ラジオでリスナーと繋いだ生電話にしろ、こんなに身近に感じられる人はいない。私だってずっとずっと、aikoをものすごく近くに感じている。

ところで、どうしてあたしは、あなたに想いを伝えることが出来なかったのだろう?
それが少し前に書いた、「花火読解において実は腑に落ちていなかったこと」だ。

どうして離れていかなくてはいけなかった?
どうして叶わない恋だとわかっていた?
それはこの下衆の勘ぐり考察において、こういう解となる。

出来ることだったら、帰れるのだったら、帰りたい。
昔に戻れるなら、うんと遊びたい。友達とバカなことを言い合って、花火大会だって余裕で行って、海にでもどこにでも、遊びに出掛けたい、ラジオでだって沢山喋りたい。

でも出来ない。
だってaikoは歌手になりたかったから。

歌手になる。aikoはこれだけ名が知られ、ライブを重ね、ヒット曲を沢山リリースしてきた今になってもなお、夢は歌手になることと言い続けている。
その夢を持ち続け、今もなお願い続けて、叶え続けているから。
だからaikoは今も歌手でいるのだ。

「そっち」側にいたら、夢を叶えることが、出来ないから。

あたし、一番やりたいこと、なんやったっけ?

aikoがかつてパーソナリティを担当していたCOUNTDOWN KANSAI TOP40にて、東京について語っていた回で、彼女は非常に興味深いことを話していた。
以下、かなり長くなるが、この考察の裏付けにも近いことを話しているため、文字起こしで引用する。

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「ナキ・ムシ」「花火」「カブトムシ」と、リリースして(中略)
そこらへんかな、(中略)やっぱりどうしても、
制作に支障が出てきたのね。通いレコーディングに。どうしても。
aikoのレコーディングは、いつも東京でやっているでしょう。(中略)
どうしてもねー、最後の過程まで、立ち会うことが出来ないのね。
たとえばその、ミックスダウン。(中略)細かい作業、それの聴くチェックだとか、そういうこと出来ない状況に、どんどん陥ってきてですねえ。

ほいでこれはちょっと、んーなんか、
「あたし、するべきこと間違ってるかもな」って。
そん時ね、ラジオ5本ぐらいやらさしてもらってて。
そう。ようやった。ほんと。

あたしその時にねー、谷口崇くんにいけず言われたこと覚えてんねん。
「もうaikoさあ、DJで食っていけるんじゃないのー?」
って、言われてぇ。
なんでそんなん言うんよー!
歌手やりたいのにー! とか言って、
もー! とか言ったの、覚えてるんですねえ。

ラジオで喋ることってもうすごい楽しいし
自分はラジオっ子やったから、すごいラジオ愛してたし、
やらしてもらっててめっちゃ楽しかってんけど、

あれちょっとまって!? とか思って。
あれあれ? aikoはやっぱ、
あたし、一番やりたいこと、なんやったっけ?
あ、歌うたうことやん、な! って。

なおかつそれで通いで、どうしても通えない時があって。
ラジオの生が入ってたりとかで。
ほいで……ちょっとこう大阪から通うのは、無理になってきたんですよね。
で、東京に引っ越す……ことになって。

でこんときはねぇ……あのぉ……お涙もなしで。
あの、友達にもなんかパーティしよー、とか言われてんけど、
いや、忙しいから無理、とか言って。そう全部断ったりとかして。

いや絶対泣くやん、だって。もう。パーティなんかされたら。
もう一生会われへんみたいなこう、みたいな感じになるからさ。
もう忙しくもないねんで? 全然。そんなことないねんけど。
でも全然忙しいから無理やねやんかー。とか言って。
あの……友達とご飯食べにいくのもいかずに、
するっと、みんなが、こう知らない間に引っ越したん覚えてる。うん。
なんか、手紙書いたりとかしちゃうと、もう我慢出来ひんくなるから、
あたし、あの、新幹線から降りてしまいそうだったので。
何もせずにそのまんま、東京に出てきたね。うん。

悲しかったけど、すっごい寂しかったけど、
ほんっとに切なかったり……
(TOP40 2001年4月14日放送分より文字起こし・一部省略等あり)
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この中でaikoが語るように、aikoが本当にやりたいこと、それは今も昔も変わらず「歌を歌うこと」だ。それこそがaikoの本当の夢で、一番大事にしたいことだ。

だからaikoは、手を振った。何も言わずに、去っていった。
aikoの、そして「あたし」の“のっぴきならない事情”とは、『夢』のことにほかならなかったのだ。

夏の星座にぶらさがって

既に書いたことだが、aikoは「花火」のヒットにより、確実に『あっち』側に行ってしまった。つまりは、大物ミュージシャンの路線に乗ってしまったのである。

それを象徴している一つの出来事は、今もなお続く長寿音楽番組『MUSIC STATION』への初出演だろう。
aikoはこの「花火」でMステ初出演を果たしたが、Mステは日本全国で見られている注目度の高い番組であるし、金曜夜8時と言えばこのオタクな私でさえもMステという認識だった。
とは言え私は必ず見ていたわけではないからaiko初登場も多分スルーしていたのだが、何せ全国ネットの有名な音楽番組である。関西以外の人が初めて見るaikoだったとさえ言っても、過言ではないのではないだろうか。

Mステ初出演は「花火」リリースの10日後。そして更に、それからたった一ヶ月で同じく「花火」で二度目の出演を果たしている。その間の8月中に「花火」は全国各地のラジオのパワープレイに決まり、その中には私が聴いたFM石川もあったはずだ。

そののち、同年11月17日に「カブトムシ」をリリースし、同日、全国ネットの深夜ラジオ、ヌルコムこと「aikoのオールナイトニッポンコム」もスタートする。2000年には東京に引っ越し、「桜の時」リリース、そして2ndアルバム「桜の木の下」はオリコン1位を記録、5月にはミリオンも達成する。
……もうここまででいいだろう。それからのaikoの快進撃は、多くを書かずともいいはずだ。

勿論、「花火」を作った頃はまだデビューから一ヶ月程度しか経っていなかった頃であり、大阪では売れていても、全国的に見てまだ無名と言ってもいい頃だ。デビュー曲「あした」は理由あってaiko作曲のものではなかったし、そもそも大阪で売れていると言っても全国で通用するとはまだ……。

……いや。……書いてて思ったけどでも、この人大賞とか取ってるんだよな……。ていうか全国で通用するから売れたんやん……さっき私、この人のこと天才って書いたよね……。うん、そう、天才なんすよ……。
いや!! いやでも! まだわからん頃だったんです!! まだCD売れる時代だったし!! ごろごろいたし歌手なんて!! 華の98年組だしなaikoはな! そういうことにしとこ!!

けれども曲がりなりにもメジャーデビューを果たしたことで、aikoは正式に“芸能人”ということになった。
それは一般人の私達からしてみたら、天の上の人達の世界に、aikoが足を踏み入れてしまった、ということだ。

天。天。それはすなわち、空のこと。
空。空に浮かぶのは、何だろうか? 星だ。最前線で活躍する人や、めざましい活動をする人のことを、私達はスターと呼ぶ。
その星を繋ぎ合わせていったものを、星座と呼ぶ。

夏の星座にぶらさがって 上から花火を見下ろして

この、私を22年間捕まえて離さないフレーズにも、そういうこと…?? と深読みの鎌を振り下ろしてしまうことになってしまうとは、この「花火」読解をやろうと決めた時には、全く想像もしていなかった。

芸能人と一般人。都会と地元。星座と花火。「あっち」と「こっち」のはざまにいるような“あたし”は、天の住人、星座にはまだ、完全になりきれていない。半分「こっち」側にいるような心地で、“ぶらさがって”いるような、境界線上に、宙ぶらりんの気持ちでいる。
そして、少し遠ざかってしまった、かつては見上げていたはずの花火を、愛おしい気持ちで、切ない気持ちで見下ろしている。

仕事で花火を見に行けず、行きたかったな、いいなと思いながら一人で眠るしかなかった――そのわずか二年後に紅白の舞台に立つに至る、大阪のとある駆け出しの歌手は、きっとまだそんな、どっちでもあるような状態だったのだ。
それでもぶら下がった手を未だ放すことはなく、夏の星座にぶら下がったまま、彼女はやがて花火に手を、別れの手を振るのである。

叶えたいから戻らない

結局この第三部、何が言いたいかと言うと、端的に書くなら、「花火」には多少の、aiko本人の背景だった「それまでとは違う世界の人間になった」という要素は、それなりにあるのではないだろうか。という実に勘ぐりも勘ぐりな話である。

でも、このスーパーハイパーアルティメットウルトラ下衆の勘ぐり考察と、第二部で私が書いた読解を合わせると、もう少し大切な何かが見えてくるような気がする。

花火は消えない、涙も枯れない。あたしが行き着いた解はそれであった。aikoもそうだろう。地元大阪やかつてを懐かしく想う気持ちは当然ある。
そしてaiko本人はきっとずっとaikoだ。大阪で育った愛子だった頃がそのままaikoになったのは今もきっと変わっていまい。デビューした当時22歳の頃から今まで、23年の時が経っても、aikoはやはり変わらずaikoである。

そりゃ22歳から45歳、まもなく46歳なわけだから、全く変わっていないわけはなくとも、「aikoをつくったあの頃」を、あの街を、あの時代を、あのラジオを、aikoは今も愛し続けていることだろう。
もうこれに関しては私が何かを言わなくてもいい。aikoという人がいかに故郷や昔を愛しく思っているかなんて、aikoファンなら当然知っていることだからだ。大阪のライブはaiko自身の熱の入りようもあって、いつもすごく楽しいし、「すべての夜」読解でも書いたが、ここ最近の新曲フルサイズ解禁の名誉はaikoの古巣であるFM大阪が独占しているのも、aikoがそれだけ地元に、古巣である大阪に信頼を置いているからだ。

でも、aikoはきっと、大阪には戻らないと思う。
一般人であった頃に、戻ることはないと思う。
aikoがいかに歌うことに人生をかけているかについてだって、もうそれこそ、本当に枚挙に暇がないくらいに、私は、aikoファンはうんっと知っているからだ。

多分これからもaikoは、もっともっと沢山の人に歌を届けたいと思っているだろうし、私だって追いかけたい。これは私のaikoファン歴20年の節目として書いている記事であるが、まだ20年だよ。まだまだこれからだ。aikoが歌い続ける限り、夢を叶え続ける限り、30年でも40年でも追いかける。

戻らないから、戻れないから、夢を叶えたいから、aikoは23年も歌い続けてきたのだ。気付けばもう、人生の半分も。
そして私もまた、人生の半分以上を、aikoと一緒にいるんだよ。

aikoがずっと夢に向かっていて正直でいてくれたから、一番大事なものを見失わずにいてくれたから、私はaikoと、aikoが書く素晴らしい曲達に出逢えたし、いろんな人達に出会うことも出来た。
それは私だけではなく、日本全国にいる沢山のaikoファンも同様だ。

そして生きる力をもらった。書ききれない、表せきれない大切なものを、大事なものを、数えきれないくらい、いっぱいいっぱい、もらってきた。

だから、だから私は、もっと沢山の人に、aikoの紡ぎ出す歌詞の世界を、彼女の持つ文学の世界を伝えて、aikoの歌をもっともっと多くの人に聴いてもらいたいが為に、こんな文章を書いているのだ。
絵も描けないし、歌も歌えないし、ファッションで勝負することも出来ない私に唯一出来ることは、ただ書く、ということだけだから。

楽しいはもっとめちゃくちゃある

今回の読解とこの下衆の勘ぐり考察を通して、「花火」という楽曲は嘘偽りなく、文字通りaikoの人生を変えてしまった曲であるし、歌詞の上でもその片鱗が表れていたのでは、ということが、改めてわかってきたような気がする。

勿論「花火」を作った頃、初めて歌った頃などはそんな気配はまだなかったし、大体これは「花火」リリースから22年後に、様々な材料を持ち寄って私が好き勝手にやっちゃった、aikoの人生に土足で踏み込むような深読みであって、「花火」を書いた作者のaikoのねらいとしても、そんなつもりは毛頭ないわけだ。

aikoはあくまで、幾多にもある自分の作品の一つとして書いたのであって、ここに作者のなんとかがあれこれでどーこー! なんて言われても、そんなん知ったこっちゃないわけである。だから殴りに来るのを正座して待ってます。
でも文学研究や作家研究なんてわりとそういうものな気がする……そう、第三部のこれは、これこそが私が到達したかった、やってみたかった研究、なのかも知れない。

色々と長々と、三部構成にして文字数ウン万とかになってきているこの花火読解、どころかもう読解飛び越えて「花火」研究だけれど、そろそろ終わらせる段階に入って来た。

デビューから23周年。様々なものが短く消費され、移り変わりが激しいこの令和の2021年において、23年も続けてこられているのは驚異的である。しかもレコード会社を移籍していない。この昨今の情勢でライブが延期になったり、信頼していたプロデューサーを失ったりと色々なごたごたはそれ相応にあるものの、aikoは今日も変わらず歌手として活動を続けている。

それもこれも、ずっとずっと彼女が「歌手になること」「歌を歌うこと」という夢を諦めずに追いかけ続けてきたからだ。その活動も意欲も、本当に素晴らしい。彼女の歌うことへの執念と熱意に触れるたびに、嘘偽りなく心が震える。この人をずっと追いかけていきたいと、そう思う。

aikoは今年の8月4日、花火発売22周年の日に、こんなツイートをしていた。

「この曲があったから今があると思う。本当に楽しい日々」
「悔しいとか悲しい事も沢山あったけれど、楽しいはもっとめちゃくちゃある」
なんだかもう、これが全てだ。だからaikoは今もなお走り続けているのであろう。

この記事を掲載する9月24日は20年前、私が初めてaikoのライブに行った日で、奇しくも『MUSIC STATION』でaikoが新曲「食べた愛」を披露する日でもある。
そう、aikoはまもなく新しい曲を出すし、ツアーだってやっている。
歌手であり、歌詞という文学を生み出す作家でもあり、でもやっぱり何よりも歌手であるaikoのこれからを、その作品を、私はずっとずっと追いかけていくのだろう。

もっと沢山の人にaikoの素晴らしさが伝わりますように。
そう願いながら、長い長いこの「花火」に関しての全ての文章を終えようと思う。

aikoの41枚目のシングル「食べた愛 / あたしたち」は9月29日発売です。2曲とも先行配信中。どうぞ各サブスクで聴いてみてくださいね。「食べた愛」はYouTubeにMVもあがっています。



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