世界はあたしに寄り添わない -aiko「青空」読解-
aikoは人生な文章書く系&小説書くオタクのtamakiです。PNはおきあたまきといいます。
aikoのデビュー記念日の7月(前期)と誕生日の11月(後期)にaiko歌詞研究として2曲ほど読んで発表する活動をしています。来年後期は諸般の事情により、ひょっとしたら1曲のみになるかも知れません。
2020年までは個人サイト「愛子抄」で掲載していましたが、2021年からnoteでの掲載に移行しました。マガジン「aikoごと」にこれまでの読解のnoteをまとめているほか、一部愛子抄からの転載もあります。
過去作について、徐々にこちらに転載していこうと思いますが、思った以上に時間がかかるので現状全然出来てません。それもあるけど昔の自分の文章が正直見れたものではないので、あんまりやる気がないです。
今時ビルダーで作ってる個人サイトなのでしぬほど読みにくいですが、他の曲が気になった方は是非「愛子抄」の方にアクセスしてみてください。「カブトムシ」はこっちにあります。
なんか気付いたらトータルすると50曲以上読んでるそうです。マジ? ちなみに個人誌で読んだもの含めると60曲越えます。は?
↑実はこんなプレイリストがSpotifyにあったんですねぇ~。
マジ?と書いてる通りに、実は書いたことはほとんど忘れるタイプの作家なので、かなり前のものについては正直何書いたかマジで覚えてないです。責任持てるのはせいぜい過去5年くらいのものです。
というか歌詞研究の文章のテンポや進め方、メソッドのようなものが定まってきたのもここ最近だなーとやっと思ったくらいなので、出来れば新しいものを読んでほし~な~……とか思ってます。責任が持てるので……。
特に昔に書いたものは文章量も違うし資料も全然当たってないしとにかく信用なりません。読んじゃダメ!(フリ)
前振り長~い。本題にいきます。2022年後期は「青空」と「アンドロメダ」を読みました。本noteでは「青空」稿を掲載します。「アンドロメダ」は11/22の21時頃に掲載します。
はじめに
aiko「青空」は2020年2月26日に発売されたaiko39枚目のシングルである。
この日付を見てもわかる通り、コロナ禍が本格的に日本を襲い始めるまさに直前であり、確かこの日の数日後に、筆者が両日とも現地参加予定だったアイドルマスターSideM・プロデューサーミーティング2020の中止の報を受けた覚えがある。3月に入ってからは続々と、ライブやイベントの開催中止、映画も上映延期などの処置が続くこととなり、あの頃を思い出すと途端に胸が苦しくなってくる。
当然ながらaikoの方も甚大な影響を受け、当時開催中だったライブハウスツアー・Love Like Rock Vol.9の最後となる東京2公演を延期せざるを得なくなり、そのまま初の無観客ライブ配信としてLove Like Rock 別枠ちゃんを開催するに至ったのは、2022年の今だとまだつい最近の話である。
……というのに既にどこか懐かしい気持ちもあるのだが、そう感じてしまうのはこの2年でいろんなことがあり過ぎて、いろんなことが変わり過ぎた所為だろう。
まさに、これからどうなっていくのか、どう進んでいけばいいのかまったくわからない──そんな風に全世界の空の雲行きが怪しくなり、迷走を始めてしまう頃にこの「青空」はリリースされたのであった。
ちなみに別枠ちゃんはアルバム「どうしたって伝えられないから」初回限定盤の特典として円盤が出ているぞ!(宣伝は基本)私が初めてUOを折ったライブです(くそどうでもいい情報)
しょっぱなから余談・サブスク解禁!
日付的にどうしてもコロナのことに意識が行ってしまうが、良いニュースのある頃でもあった。この曲の発売と共に、aikoもaikoファンも念願だったサブスクが解禁され、インディーズ曲・そしてまとめ特典曲「ラジオ」を除く全曲が各サブスクサービスで聴けるようになったのである。
↑いい動画。
やはりまだ二年前の話なので記憶に新しい。2022年の今となっては、もはやサブスク解禁されていない、サブスクで聴けないことが完全なるデメリットにしかなっていないくらいに配信・サブスク視聴が当たり前となってしまっている、と私は感じている。……アイマス!アイドルマスター!!!お前のこと言うてんねんで!発表してから何ヶ月経ってんねん!!いつ解禁になるねん!!!
話を戻す。ここでaikoが解禁しなかったら、aikoに出逢えていなかった人もいるのではないだろうか。特に若年層はCDを買うこと自体が稀となってしまっているくらいだから、サブスクによってより一層若い世代にaikoが広まり、親しまれることを祈るばかりである。
ベストアルバムですらなかなか出さなかったaikoである。非常に画期的な出来事でもあり、確かTwitterトレンド入りも果たしていた記憶もあるので、その日は非常にホクホクした気持ちで過ごしていた。
ちなみに筆者は30代も半ばの年齢であり、aikoと同じく90年代というCD全盛の時代を過ごしていた。当然のことながらCD派であり、特にこれといってサブスクを使ってこず、利点もそれほど感じていなかった私であるが、いちいちiTunesを立ち上げたりiPodtouchを操作しなくても聴ける、という実にモノグサな利点から、最近はYouTubeMusicの方でaikoを聴くことが増えたような気がする。非常に微々たる額ではあるが、aikoのお金になるという点も良いと思っている。
……ちなみに使い勝手的にはプレイリストの豊富さからSpotifyがいいかな~と思ってるんですけどYouTubeプレミアムの民なのでYouTubeMusicの方を仕方なく使ってる感じです。サブスク富豪になりて~。
「青空」の初出は、記憶が正しければ2020年の新年CMである。最後の英文メッセージの頭文字がSKPRで、さりげなくスカパラのゲストボーカルとしても参加することの匂わせも仕込まれていた。
さてこの「青空」、青空というタイトルから想起される爽やかなイメージの曲……となってはくれない。それでこそ我らがaikoである。
終わった恋に手も足も出ず呆然とするあたしの前に、圧倒するようにただ広がる空。そんなイメージがサビでは描かれている。この青空に込められている世界と物語は果たしてどのようなものなのだろうか。
資料を読む
「青空」も9月に掲載した「磁石」同様近年の曲となるのでわりと資料は豊富な方なのだが、あまりありすぎるとありがたい一方で結構大変、と言うことに気付いたので絞って見ていきたいと思う。
オフィシャルインタビュー
まずは公式ページに掲載されたオフィシャルインタビューを手掛かりにしていく。オフィシャルインタビューはその曲に関してのaikoの基本的なコメントが伺え、手がかりにする分には資料価値が高いのだが、発売後しばらくすると消去され読めなくなる謎仕様なので、スクショするかPCローカル保存をおすすめしておく。2022年11月現在まだ「果てしない二人」のは読めます。
最初のフレーズがまず浮かび、そこからバーッと一気に書いていったと話しているのが興味深い。aikoは二番以降は制作が決まってから書く独自スタイルなのだが、2022年の今も変わらない様子であると最新曲「果てしない二人」の各種インタビューでも伺えるので、2020年の「青空」でもそうだろう。ドキッとする歌い出し、あそこから一気に世界に引き込まれるのが「青空」の魅力だと感じているが、書いている作者aikoも自分の筆に一気に引っ張られていったのだろう。
「晴れてても曇ってても自分の気持ちがくすんでいると全部灰色に見えてしまう」という彼女の言は、小説などにおける風景描写を思わせる。
空と自分はそれぞれまるで関係ない独立した存在だ。けれども、その空=世界を捉えているのは自分自身である。自分のコンディションによってすべてが左右されるのは、小説や映画といったフィクションの表現のみならず、aikoが話すように実生活においてもまったく同様である。
続けてaikoは「青ければ青いほど寂しいなって感じてしまったりもする」と話す。寂しいは切ないと近い感情だと思うのだが、そういえば同じ青空をモチーフにしているaikoの曲と言うと、真っ先に挙がるのがかの名曲「青い光」だろう。しかし、あの曲は前向きで尊い気持ちを歌っている曲ではあるのだが、全体的には切なさが際立つようなバラードであるつくりなのは、aikoのこの独特の感性によるものなのかも知れない。
彼女が眠る前、明け方に見る空についての話から「そんな想い(くすんでいると灰色に見える、青いほど寂しい)がきっかけになって出来た気がします」と、歌詞についてのコメントを締めている。
ここから私が個人的に読み取るのは、「おいてかれてる」「ほっとかれている」という印象だ。
空、すなわち世界はどんな時でもそこに在り、全てにおいて等しく美しく尊くある。けれども、そんな素晴らしい存在でも、美しさも尊さも、全て自分とは関係なく存在しているのである。
自分がどれだけ傷付いていて絶望の底にあっても、空は全く私達のことなど知らない。私達の為に泣いてはくれないし、怒り散らしてもくれない。憎い誰かに天罰の雷を撃ってもくれない。
良い意味でも悪い意味でも、空は、世界は誰か個人に寄り添ってはくれないのである。「赤いランプ」の「黄金色の今の空は何も知らない」ではないが、この世界に生きる私達のことを誰一人知らないまま、空は空として、世界は世界として在り続けているだけである。
Spotifyライナーボイス
音楽ストリーミングサービスのSpotifyが提供しているインタビューボイスである。ライターとアーティストの対談形式になっており、aikoの「どうしたって伝えられないから」はこのコンテンツの記念すべき第一弾となっていて、2022年11月現在でも視聴が可能である。
と、「磁石」読解でも引用したもので、説明もほぼコピペである。書いているように「どうしたって伝えられないから」にフィーチャーしたものであるが、シングル曲も他の収録曲と同じように語られているので、歌詞や曲について語っているところを文字起こしして掲載する。
ウワーーッ!! お前そんなだからだよ!! そういうところだよ!!! と思わず文体を投げ捨てるほどには頭を抱えてしまったところである。ともかくaikoという人を知っていれば知っているほどお前な……と苦笑せざるを得ないところだ。お前さ……お前さ~~~~~(頭抱え)
勿論ここで終わりではなく、もう少し続く。ここは「青空」の歌詞ではなく空というものへの印象の話ではあるのだが、個人的には「青空」を読み解く上では聞き逃せないコメントになっていると感じている。
このaikoの言から伺えることは、「立ち直れる空」と「立ち直れない自分」という対比である。悔しいと思うaikoだけれど、「比較しても仕方ないんですけど」と彼女の言うように、そんなことすら空は全く知らないのである。勝手にaikoが、と言うか人間が悔しがっているだけであって、空は傷付かないし、感情もない。ここにもまた虚しさを感じるし、結局は空と人、その圧倒的な差に打ちのめされるばかりである。
音楽と人
これまでの歌詞研究の資料紐解きパートにおいてたびたび引用され、いずれも資料価値の高いコメントを有してきた専門誌「音楽と人」を今回も活用しよう。
ライブ活動はあったものの、aikoとしての純粋な動きは「愛した日」の配信リリースとシングルコレクション「aikoの詩。」のみのリリースとなった2019年は、その最中においては(私も私生活でいろいろ大変だったので)特に気にしていなかったが、今考えると異常な年だったと振り返って思う。
その異常さ、というか不自然な静けさについての理由がaikoの口から語られている唯一の資料(私が見た限りでは)でもあるので、興味の興味のある人は是非一読してもらいたい。簡単に言うとaikoファンにはお馴染みであったプロデューサーの千葉氏がaiko公式サイドから退いた、という話である。
「44にもなったらね、もう、空がいろんな色で見えてくんねん」や「日差しが暖かいきれいな空を見ても、私はきっと悲しい曲を作りますね」と言った発言に、いやもう正直うん~~~~~~ざりしてしまうところもあったりするのだけれど(本当そういうところだぞ)こういうことを言ってしまう人、というか、そういう想いを抱いている人が書く曲なのだ、とaikoの様々な作品を思うと、いやもう、実にaikoだな……と苦々しく感じなくもない。
しかしこの数年世界を脅かし、その形を変容させたコロナ禍を過ごし、自身も罹患し非常に苦しんだ日々を過ごした以上、彼女の中でこういったある種厭世的な考えは少しずつ変わっているのではないだろうか。
……な~んて思ったりしたのだが……しばらく考えたが、うん、なさそうだな、と思うのが個人的なところである。根本からこういったネガティブな考えに浸っていないと、これまでの数々の名作は書けなかっただろうし、この明るい中に寂しさや切なさを見出してしまうのはaikoの文学性であり同時に人間性でもあろう。
「こんなに青いことがつらい」と言う発言はオフィシャルインタビューで語ったことに近いが、美しさも行き過ぎると寂しく切なく、時に辛くなる──ということを感じる為には、aikoに備わっている、というよりも巣食っている消極的で後ろ向きな性格がどうしても必要になってくるように思う。これはもう本当にどうしようもない話なのだ、きっと。
「(明日も幸せだといいなとは)なりませんね。<遠くにいるあなたは元気かな>って感じになっちゃう」「悲しい、寂しい、もう二度と会えないんだなって方向に行きがち」……。……………………。
ここである。ここに共感できるかそうでないかがaikoファンであるか否かを分けているような気もする。
じゃあそんなことを書いている私はどうなんだという話だが、まるきり全肯定というか全共感は出来ないので(暗いなと思うし、前向きなこと考えたいので)お前本当にそういうところだぞ……とまたしても頭を抱えて思ってしまうし、正直鼻白む気持ちになる。
しかし一方で、aikoのそういう言い分は実に文学的だな、とものすごく感心してしまう面もある。まあどう転んでもaikoのおたくであるのでこの私がaiko側に立たないわけがないので、インタビュアーも言うように「それがaikoらしい」というのは十二分にわかるのであった。
aiko自身も「その切なさみたいな感情をどう唄うかが、自分の中にずっとテーマとしてある」とはっきり自覚していることもその証左であろう。
そこからの発言はネガティブ上等と言うばかりだが、私もつい最近まるっきり同じような気持ち(なくなる日の悲しみに耐えられないから、そんなに好きにならんとこう)になることがあったので(※Mobage版アイドルマスターSideMの更新停止およびサービス終了)インタビューを書き写しながらうんうんと頷いてしまっていた。おそらく多くの人が多かれ少なかれこういう気持ちになったことはあるだろうし、こんなことを思うaikoだからこそ、デビューから24年が経った今もなお絶大な支持を得ているのだとも思う。
悲しい、寂しい、もう二度と会えないんだなという方向に行きがち。
そんな風につい切ないことを考えてしまう、そういうことを思ってしまうと、aikoは自身のことをそう語る。
しかし、言ってみればだからこそ「青空」の歌詞を書けたのだ、歌詞として出力出来たのだとも思う。空が綺麗過ぎて、しかし地上には恋に破れたぼろぼろの、みすぼらしい自分がいる。澄んだ青空を見て切なくなれるからこそ、みすぼらしい孤独なあたしのすぐ傍にaikoは立つことが出来る。aikoという作家が描こうとするのはいつだって、万人を魅了する美しい空ではなく、切なさの極みにいる、ずたぼろに弱り切ったあたしの方なのだ。
余談追記(2023/1/9)
この「音楽と人」にあった「どんな時も心の底から楽しいと思えていない」という発言についてaiko本人から現在はどうなのかという回答がありました。えっ?
そうです。私が送りました。ということでこの発言についてaikoが直々に解説と言うか、aikoは自分のことをどういう風に捉えているか、aiko研究の立場から見てすごくすごくすご~~~く貴重なお話をいただけたので、是非team aikoに登録してあじがとレディオ第134回を聴いてみてください。
やっぱりaikoが傍に立とうとするのは孤独なあたしの方だし、描くのもそちらの方になるのだな…と深く理解出来た、そんなお話でした。aiko本当にありがとう~~~!
資料読み雑感 -世界は別に優しくない-
空は美しくて眩しくて、だからこそ、ぐずぐずしている自分が情けなく惨めで、なんだか置いてきぼりを喰らったような気持ちになる。絶対に立ち直ることの出来る空と、立ち直ることなんて出来そうにない自分。空と人間、その残酷なまでに圧倒的な差。そんなどうしようもない悔しさと孤独感を、aikoは逃さない。
この「青空」で描かれる、どこか置いてきぼりになって呆然としているあたしというのは、過去作かつ私が最近読解した作品で言うと「何時何分」のあたしに近いと思う(2021年後期掲載)
終わってしまった恋から未だ立ち直れず、ぐずぐずとしているあたしをどこか見下すかのように「何時何分何曜日 空はとても晴れている」とサビの終わりに綴られる。この「空はとても晴れている」にあるそこはかとない憎らしさこそ、「青空」の最後に綴られる、あたしとは無関係に広がっている「本当は涙で見えないただの空」にも共通して存在しているように思えないだろうか。
泣いていようが、過去の恋愛を未だに引きずっていようが、空はやっぱりあまりにも知らん顔である。その悔しさを空にぶつけようが、やっぱり知らん顔をしているのだろう。人間一人なんかに、空は構っていられないのである。
そこから脱却する、立ち上がっていく為には、神様でも奇跡でもなく、“自分で”立ち直らなければならない、ということを思わせる。「何時何分」と「青空」はそういう二曲であるように思う。
世界は憎たらしいほど綺麗だけど、でも、だからといってあたしに特別優しいというわけではない。「青空」は「世界は別に優しくない」ことを書いている曲だろう。
いや、私が今年読解してきた「運命」も「磁石」も、去年読んだ「何時何分」も全部そうだったと思う。あたしも空もあくまで独立した存在で、私達人間が勝手に結び付けたり、何かを見出しているだけである。極論言うと「運命」も「磁石」も読解してる私ことtamakiことおきあたまき自身が見出したものを単に書き出しただけに過ぎない。
でも、だからこそだ。独立していてお互い知らない、関係ない。それゆえに空のあずかり知らぬところであたしを救うこともある。
「運命」も「磁石」も、私はそうだったと思う。「運命」の死に瀕したあたしも、「磁石」の愛した人への疑惑で心底弱り果てたあたしも、「空」に何かを見出してそれぞれ新しい方向へ踏み切ったり、命をぎりぎり繋ぎ止めたりした。
しかし「青空」はそうではない、という曲なのだ。「運命」と「磁石」が救われたエピソードなら、「青空」は救いもしなかったどころか、より底にあたしを叩きつけたような曲と言ってもいいような気がする。(「何時何分」は恋の終わりから少し時間が経っているので、空とあたしの関係は「青空」ほど落差があるものではない)(ないが、それなりに無慈悲なのは先述した通りである)
もっと細かく言うと、空ではなく(関係ないので)空を見る「あたし」の中に何があるか、である。オフィシャルインタビューで最初に読んだ通り、世界を捉えるのはあたしだ。薄ら汚れたあたしのままではきっと何も見出せない。おそらく何もないままで「青空」は終わるのだろう。それ故に、痛烈な悔しさが滲み出てしまうのだろう。
なんだか早くも結論めいたものを書いてしまったが、実を言うとまだ歌詞を一ミリも読んでいない状態なのである。あくまでaikoの言葉に触れたうえでの雑感であり、なおかつ朧げな解釈である。
読解と看板に挙げている以上、歌詞を読み込まなくては話にならない。御託はいいので早速歌詞を読んでいこう。「青空」に描かれている物語は、あたしという人間は、一体どういうものなのだろうか。
歌詞を読む・一番
最初からまちがっていた
触れてはいけない手。重ねてはいけない唇。聞いても読んでもわかる通り、ここに閃くのは禁断の恋のようなニュアンスである。「いけない」という文言にまさしく“いけない”気持ちを抱きかねないというか、直截的でどこかエロティックな表現にはリスナーのほとんどがかなりドキッとしてしまうのではないだろうか。
aikoはこれが浮かんでそれ以降をばーっと書いていったと言うが、しかしながら、禁断の恋に酔いしれていくような歌詞になっていないのは聴いてわかる通りである。「禁断」と書いたが、そのニュアンスからわかる通り、本来ならば禁じられるもの、受け入れられないもの……からもう少し意味合いを伸ばして、往々にして上手くいかないものであるとか、ストレートに“過ち”であるように思う。
歌い出しからドキッとさせて、歌詞から匂い立つ色気にひょっとしてそういう、際どいところを狙っていく曲なのだろうか? という期待をにわかに抱かせながら、aikoはしかし裏切って、「最初から上手くいかない恋」と言う舵取りで容赦なくどんどん進むのである。とんだ詐欺である(それは言い過ぎ)
けれども、歌い出しからバーッと書いていったということを踏まえるに、aikoはもう最初から恋の終わりを描くプランで完全に固まっていたのだろう。これもまた彼女のネガティブがなせる業なのかも知れないし、「音楽と人」の引用しなかった部分で「楽しい曲より悲しい曲のほうが好きなんですよ」と言っている通りであろう。
「知ってしまったんだ」という表現からは、知ったからには戻れない、これが過ちと知りながら、この人に酔いしれずにはいられない、このぬくもりを、感触を手放すなど出来ない……というような、恋に溺れ、破滅していく瞬間をまざまざと感じ取れる。
あたしは過ちとわかっていながら、あるいは上手くいかないと感じながら、何もかも投げだして全てを捧げたのである。そのがむしゃらな激情はおそらくaikoも好むところであろうが、今回においては彼女は極めてシビアに現実を描いていく。
いらないこんな器など
極めてシビアに、と書いた通り、出だしである一番Aメロの時点から恋はとっくに終わっているのである。
そもそもこの曲、歌詞を俯瞰して見ると、恋らしいところと言うかいかにもラブソングで甘くてドキッとするところは歌い出ししかないのでは? となってしまう。なるわ。なるよね。っていうか失恋曲をラブソングと称してはいけない(看板詐欺)(失恋もラブやないかい!)
失恋の直後だろうか。あたしは苦しみと悲しみの真っただ中にいるらしい。「体を脱ぐ」とは面白い表現である。
あなたに愛されていたのに今はもう、そうではない。そうなると、かつて愛されていた自分である「体」に自分の精神が入っていることも、あたし的にはもはや耐えられないのだろう。なんだったら、「あなたがもう触れてくれないなら、こんな体などいらない」と言っているようなものでもある気がする。
あたしの中にいるあなた
あなたがいないとなると、あくまで見た目の上では、あなたがいなかった頃に戻ることになる。
それにしても、「何でもなかった自分」が、あなたによって変わった──「自分が変わった」と言えるような出逢いとは、立派に“恋”ではないだろうか。この曲のあたしはあなたにもう逢えないような状況だが、「あなたとの日々によって変わったあたし」という“精神”はあなたが残したもので、恋が最後に授けた贈り物でもあると思っている。
あなたは確かに姿を消した。しかしあなたとの日々も時間も、あたしの中に刻まれていると言えようか。
そう、なんだったらあたしという存在の中にあなたも「いる」のである。含まれているのである。時がしっかりと流れている以上、それが喜ばしいことであろうと苦しいことであろうと、記憶を消したわけでもなし、「あなたに出逢う前の何でもなかった自分」になど決して戻るわけがない。
ところが、あたしはそこに気付けない。あなたを知らない、出逢う前の「何でもなかった自分」に戻らないといけない、戻ってしまうと思っていて、そしてそれを拒否しているというか、到底受け入れられないと項垂れているように見える。
虚しいことだが、あたしはあくまで物理的な「あなた」という存在だけを追っているのである。その手を、唇を、ぬくもりを求めているのだ。あなたが触れてくれないあたしなどいらないと、きっとそう思っている。
既に手にしているとても大切なものに、あたしは気付かない。それもしょうがないだろう。苦しくて悲しい今はとにかく視野が狭すぎる状況なのだ。考えてみると、空との残酷な差異はこの「視野の狭さ」にも表れているのかも知れない。
見てみぬ振りして恋をする
「目の奥まで苦い」と言うのも独特な表現だと感心するところだと思う。aikoにしかわからない感覚だと思うので、どういうことを指しているのか一度本人に聞いてみたいところである。個人的には、涙を流さないようにぎゅっと押し込めていることなのかな、と思う。
ところで、ここで書かれている「間違い」とは何だろう。少し考えてみたい。
まず一つ目としてはあなたに恋をしたこと、つまりこの恋そのものだ。歌い出しの段落で書いたが「触れてはならない」「重ねてはいけない」とあるからには道ならぬ恋だったから、まさしく間違いである。
二つ目はあたしがやらかしたであろう、この恋の破局を呼び起こした何らかの間違いや過ちや失敗と言ったものである。文脈からしておそらく後者の方が正しいのだろうが、正直読解する人によって違ってくるというか、どっちもありそうな気がするし、aikoもひょっとしたらダブルミーニングで書いている意図があるかも知れない。ともあれ文脈的には後者を選びたい。
あたしはその間違いを起こしてしまったが、「無しに出来ない」と歌詞にもある通り、起きた以上取り返しのつかないことである。そう。この世界に「あった」ことは無かったことには出来ない。
その間違いをリカバリーするでもなく、フォローして何とか繕うでもなく、なあなあにしたまま無視し続けて、あたしは恋を無理やりにでも続行させていたのだろう。その綻びが最終的には恋を腐らせていくのも道理である。
でも、ずっと背けてしまうくらいに、あたしはあなたと過ごす時間を、あなたの手のぬくもりと唇の甘さをひたすらに追い続け、溺れてしまっていたのだ。
なんにでも頷いちゃってばっかみたい
唇に力を入れていた。笑っていたのかも知れない。ほくそ笑むというか、むずむずと湧き上がってくるにまにました笑みを浮かべる時、つい唇に力が入ってしまう経験は少なからずあると思う。
しかしここでは「口を開いていない」ではないだろうか、と思う。口を開かない、喋らない。イコール、「あなたの言うことに余計な口を挟まなかった」と言うことではないだろうか。
反抗せず、当然自分の意見も言わず、あなたの言い分をイエスと答えていた、あなたを追い求めるあまり、全肯定ばかりしていた、という読みだ。
それは続く「何にでも頷いてって」という表現からも裏付けが取れる。そんなかつてのあたしを、恋が終わってしまった世界線のあたしは口汚く「馬鹿」と判断し、罵るのである。馬鹿、とは随分酷い言葉選びであり、私の記憶が正しければaikoいち強烈と言ってもよいかの「舌打ち」以来である。
まあ確かに、相手に対して意見したり、異を唱えなかったり否定することもなかったのならば、それは確かに愚かだと言えよう。やはり恋は盲目と言うことだろうか。あなたを欲するあまりに、そしてあなたに見捨てられたくない為に、あたしは健気にあなたに従い続けたのである。
歪んだ世界を見ただろうか
風景描写は心理描写であるのは常識と言ってもいい。恋が終わり、一人取り残されて呆然とするあたしの目の先にあるのは、愚か者だったあたしを圧するかのように広がる空である。
ぱあっと丸く大きく爽やかに広がっているというのにそれが歪んで見えているのは、すなわちそれを見る、終わってしまった恋の亡骸を抱えるあたしの心が痛々しい程に歪み切っているということである。
そう。空は青く晴れている。「何時何分」のサビ終わりの「今日も空は晴れている」と全く同様だ。しかしあたしはそれを認識することが出来ない。美しさもわからないし、何かを見出すことも出来ない。
世界を定義するのは観測者のあたし自身だ。そして、これまで過去の歌詞研究において使い続けてきた理屈を再び持ち出すが、空とは「世界」そのもの、である。あたしが歪んだ心でいるので、空がどうあれ結果あたしは歪んだ世界にいる。
世界は今日も続いてる
しかし、だからといって、世界=空はそんな可哀想なあたしに特別優しくするとか、救済を齎そうとか、そういうことは一切ないのである。そりゃそうである。世界は、空はあたしのことなど、これっぽっちも知らないのだ。
資料読みの時点でもさんざっぱら書いていたように、あたしと空はどこまでも無関係だ。
世界は誰かの恋が終わっても、泣き叫んでも、どんなに悲しみに打ちひしがれていようとも、まったくの無関係に無慈悲に存在し続け、今日も変わらず時間を流し続けていくのである。それはあたし如きが喚いても、歪んだ視界で睨みつけても何も、何も変わらないのである。
歌詞を読む・二番
終わりになんてするものか
楽しければ時間が短く感じるのはよくある話だが、恋をしている頃はその関係がずっとずっと続くと当たり前のように思い、永遠のように長く感じられていたのかも知れない。充実した時間だったのだろう。
しかし終わって振り返ってみれば、数字として出してみれば「だったこれだけ?」とまさしく歌詞の通り「あっけなく」思ってしまうかもしれない。あんなに貴重でキラキラしていて一瞬たりとも目が離せない、ずっとずっと楽しんでいくはずだった二人の最高の時間を、そんなつまらない感情で包んでしまうのは怖くもあるし悲しくもある。
だからあたしは恋を振り返らずに今、踏ん張って立っている。それどころか、振り返りなどしたらそれこそ「終わり」であろう。
怖いことを言うが、仮に振り返ってみたとして、大した思い出がなかったように思えたらそれこそ幻想の崩壊というやつである。残るのは中身のない殻と虚しさで、そんな結末に怯えているから、あたしは振り返ったりなどしない。思い出になんかさせない。思い出にしてしまっては、それこそ完全なる敗北じゃないか。
冗談まじりにあてもなく
それにしても、かつての自分にあった「あてもなく信じた心」はサビの「何にでも頷いてって 今思い返すと馬鹿みたいだな」と見事に呼応している。相手を無邪気に肯定し、嫌われたくない一心で付き従った日々はどれだけ遠くなっていることか。
ところでこの「あてもなく信じた心」、他の曲のフレーズで、ものすごく似たフレーズがあったような気がしないだろうか。
……そう。「運命」の「冗談まじりに運命を信じていた」である。あたしは相手を疑うことをせず無条件に信じきっていたし、恋が終わってしまうことも予想しなかった。無垢な少女そのものだったかつての心を今、愛しいと思うと同時にあたしはものすごく嫌悪しているかも知れない。
ああ、なんてことだ。こんな結末が待っているのに、あんな風に信じちゃって。それこそ、サビでも用いていた「馬鹿みたい」とここでも吐き捨てているように思う。
思い出なんかにするわけが…
「剥がれた」と「ふとした時」という表現から、折に触れて思い出すことを指しているように思う。こんな状態で、ふと去来するかつての思い出を自分は抱きしめることは出来るのか。
いや、ちょっと待て。「思い出」ってなんやねん。思い出にしてしまっては完全なる敗北だ、とついさっき書いたばかりであった。そうなると完全に「終わったこと」になってしまう。だから「抱きしめる日が来るわけが(ない)」と言って、そうなることを拒みたいし、そんな風になる自分にはならないと誓っているのだろう。
しかしながら、ここに意味ありげに付されている三点リーダについて注目してみたい。「来るわけが…」と断定を避けているような表現になっていることが気になる。ひょっとするとこんな風に言いながらも薄々あたしは「無念だが、終わりを受け入れざるを得ない……」と思っているのかも知れない。思い出すのは「アスパラ」の「認めるしかないと笑った」であるが、それに大分近いところがある。
しかし、まだだ。まだ終わったことにはしたくないのだ。たとえそれが無駄なあがきであっても、この歌詞の表現からして「あなたのことは思い出などにはしない」=「ずっとずっと想い続ける」ということを暗に言っているようでもある。
けれども、やはり表現の上で「…」の存在が気になってしまう。思い出を抱きしめる日が来るわけなんかないと言っているのに、はっきりとした言い切りが出来ていないところに迷いがある。もしくは疲弊感が見える。終わってしまったこと、これ以上の発展が望めないものにいつまでも執着し続けることは簡単ではないし、想像以上に神経を使うことだからだ。
それでも、あなたにいて欲しい
Bメロ前半はまさに恋、と言えるフレーズで深く、そして重く頷いてしまうフレーズだ。
好きな人がいて、通じ合っていて、互いの愛が確かに感じられる時はそれはもう幸せだろうけれど、でも、嫌いが忍び寄る時もあるし、窮屈な理不尽を感じたり、強いられたり、越えられない相互不理解に直面する時もある。自由で不自由と綴られているけれど、むしろ不自由な時の方が圧倒的に多い気がする。だいたいサビの「何にでも頷いて」がまさに「不自由」の象徴そのものである。
しかし。だがしかし。そんないいことも悪いことも同時に存在する恋は、不自由極まりない窮屈な恋には最大の利点がある。それがあるだけで他のデメリットを帳消しにするくらいには強い利点だ。
それは「あなたがいる」ということだ。そもそも、「出来たんだ」とあるように、あなたがいるからこそ恋が成立するのだ。恋は一人ではできない。
そう、一人では出来ない。けれども実際問題としてあたしは今一人だ。あなたの存在を失っているし、再来もないだろう。見た目的にも本質的にも、恋が終わっていることは明白である。
だが、あたしはなおも求めたく思っている。苦しくても不自由でもいいから、自己を抑圧し変容してでもいいから、とにかくあなたがいて欲しかったのだ。死んでしまっている恋をどうにかして延命させたいのである。
あたしは未練たらたらで、なおももがき続けている。──もがいたところで実がないことくらい、きっとわかっていながらも。
無くなる指輪有る意識
指輪の表現が非常に秀逸である。この「縛る」という表現一つ見てもBメロの「不自由」、一番サビの「何にでも頷いて」を思わせるのだが、さすがに穿って見過ぎかも知れない。恋を終わらせたくない、思い出なんかにしてやるものかと思う反面、あたしは指輪を外していく。心のどこかで、終わらせる準備を始めているのかも知れない。
続く「ほどいて無くしても」という書き方が少し気になるところだ。「縛る」という表現があるので呼応させて「ほどく」を選んだのだろうか。単純に考えると、縛っていたものを「ほどく」ということは、後に続く「無くす」ことでもある。
そして「無くす」とは文字通り「無にする」ということでもある。外しただけでなく、恋が終わったので恋の象徴の一つである指輪も「無」にしていくのである。まるで介錯でもするかのようだ。
ところで、指輪を無くす、という設定も何かを思い出さないだろうか? そう、既に度々挙げている「何時何分」の冒頭である。
サビの空の描写と言い、この指輪のことと言い、失恋と言うシチュエーションと言い、「何時何分」との類似性が大分あるなあということは、「青空」を読もうと決めた時……いや、もしかすると初めてフルで聴いた時から薄ら感じていたことかも知れない。もしかして「青空」って「何時何分」の本編だったりするんですかaikoさん?(本編とは?)
そんな風に、恋を象徴するものを意図的になくしても、指輪をつけているとまだ錯覚してしまう。服を脱ぐ時にも気を付けてしまう。まだまだ、ううん、ずっとずっとあなたのことを、この恋のことを意識してしまう……とまあ、見事なまでにあたしは恋の意識から全く抜け切れていないのである。何と言う浅ましさであろうか。
と言っても、失恋からそんな簡単に立ち直れるわけでもないし、全然許容範囲だろう。
しかし、余談ではあるがアルバム「どうしたって伝えられないから」はこの「青空」の後に自らあなたの元を振り切って去っていく強いあたしが描かれる「磁石」が来るので、「青空」のあたしがいかにグズグズしているかが悪く際立ってしまうのである。曲順を決めたaikoにどれだけの意図があったかは謎であるがわざとやったのならまあまあ鬼である。まあまあどころじゃなくて鬼なんだよな。
歌詞を読む・Cメロ
さて一番、二番と読んできたのだが、どちらも程度に差はあれど非常にメソメソしてグズグズしていて、恋が終わっているというのにまるで徹底抗戦でもするかのように未だ恋の意識はオンのままである。
ええい!未練のタレ二度漬けでもしてんのかい! とうんざりしてしまうようなあたしだが、曲終わりまでこうなのだろうかと不安に思っていると、どうもCメロから毛色が変わってくるように思う。
表現するならば、少しずつ「覚めてくる」──あるいは「冷めてくる」というか、「現実を見る」ようになっていくのだ。それこそ段々と雨が上がり始め、雲間から光が射してくる空のように。
すべて虚しく儚くなる
ここはもう、本当に身に刺さるというか、恋をした人や誰かと付き合ったことがある人は大なり小なりわかるだろうくだりである。
あんなに一生懸命着飾ったり、メイクしたり服を買ったり、デートしている時も大丈夫かなとソワソワしたり言葉遣いや言動に至るまで気をつけて、なんだったら相手の一挙手一投足にも心動かされ、時には焦り時には嬉しく弾んでいたというのに、恋が終わった──それだけでその全てが、一斉に無に帰してしまう。
恋の臨終
虚しさや徒労に終わった馬鹿らしさを、憎まれ口でも陰でこそこそ叩くようにぼそぼそと口にしながら(aikoの歌い方がこんな感じだからこう書かせてもらう)ここで初めてあたしは「恋が終わった」と、そう呟くように歌う。
言葉にする、ということは、事実であると認めるということだ。思えば、一番二番Aメロのあの三点リーダーも、言い切ることを避けたかったからあんな表現にしたのかも知れない。
あんなに夢中になっていたものを終わったと、もう無いのだと認めることは、とてつもなく辛いことだから。悲しくて、寂しいことだから。
破裂した音。恋が終わる音だろうか。そして「薄ら汚れた空」だ。
これが今あたしの見ている世界であり、あたし自身の認識でもある。あたしは恋に破れ、ぐずぐずと泣いていて、到底まだ立ち直れそうにない。惨めさとぼろぼろになった自尊心と失われた時間の所為で、心身ともに汚れてしまっているのだろう。
「吸われていく」という表現が個人的には少し謎であり、またしてもaikoの感性に振り回されるところでもあるが、吸われていく先が「あたしの薄ら汚れた空」なので、自分の中に染みつくだとか、あるいは(仕方なく)受け入れた、ということなのだろう。これもまた読解する人によっていろんな解釈が当てられるところだと思う。
現実は今日も続いてく
そしてこのCメロを締めくくる、二回目の「恋が終わった」である。
さっきは受け入れた、と書いたが、でも、あれだけグズグズしていたのだ。完全に受け入れ切ったわけではないのだろうな、ということを読み取りたい。
でもこうして声に出し、文字にしてはっきり示したことで、もはや自分を支えていたと言ってもよかった大事な半身を、あたしはついに失ってしまったのだろう。受け入れはしたけれど、呆然として先に進めない。「夏服」ではないが「あたしはここに立ったまま」だ。到底元通りに歩いていけるわけがない。あたしを無視してどんどん進んでいく現実に、ついていけないのだ。
けれどもあたしがそうしている間に、時間だってどんどん流れていく。否が応でも、あたしはその日のままのあたしでいられなくなってしまう。耐えがたきを耐え忍びがたきを忍んで、受け入れがたいものを受け入れて、生きていかねばならないのだ。
aikoがSpotifyのライナーボイスで言っていたことが、ここで改めて思い出される。自分が立ち直れる日はいつなのか、本当にそんな日が来るのか。嵐が来ようが雪が降ろうが、最終的にはけろっと晴れを見せる空みたくなれたらいいのだけれど、あいにく人間はそう出来てはいないのだ。
歌詞を読む・大サビ
空はなんにもしてくれない
馬鹿みたい、という言葉も、また刺さる。素直で従順過ぎたかつての自分を馬鹿と罵るあたしだが、その言葉選びは若干強くないだろうか。今の自分も泣いているだろうに、自虐が酷い。辛い状況なのにそれ以上自分を不用意に傷付けることはいけない。恋の終わりを受け入れただけで十分だ。あたしはよく頑張った。
しかし頑張って現実を受け入れたあたしに、天が何かを授けるわけではない。
空はいつでもただの空
そう。「ただの空」なのだ。別にあたしを助ける、なんてことはない。
歪んで見えているのは涙の所為で、実際の空はなんてことない顔で世界を包んでいる。泣いているあたしのことなんて空は何も知らない。あたしは、恋が終わったと歌いはしたけれど、その実まだまだ恋に囚われて、とてもじゃないけど前向きになれずにいる。あたしは完全な敗北者で、つまりは負け犬である。
けれども、天に広がる、圧倒的な世界そのものである空に対して「ただの空」と言い切ることは出来た。恋の終わりに虚しく降伏してしまったあたしの、せめてもの抵抗なのかも知れない。
恋を終わりたくない、でも……と形の上では、最終的には受け入れてしまった。悔しさと虚しさでいっぱいになったあたしだが、涙で歪んでいる視界越しに食らいついて、ついに真実を見ることが出来た。
そうだ、どんなに美しくても気高くても、あたしがあたしであるのと同じくらい確かに、結局は「ただの空」なのだ。これも彼女なりの抵抗なのだろう。悔しさが成した業と言えるのだろうか。
あたしの勝利と敗北
そう、空は空である。あたしと独立して存在していて、そして、何度も書くがあたしのことは何も知らない。悲しいほどに、残酷なほどに。だからこれは、ある意味ではあたしの「勝ち」でもあるのだ。
しかしながら、あたしは、「空」から何か、この涙にずぶ濡れて立ち直ることなど到底出来そうもない状況を、少しでも打開出来そうな何かを見つけることは叶わなかった。
以前読解した「運命」では色を見つけ、「磁石」では眩しさを見つけた。この二曲も、それはそれはもう大概悲惨な状態だったのだけど、何かを見出せるだけの「余地」があったのだ、と「青空」を読んだことで気付かされる。あの「運命」でさえもそうだったことにはさすがに驚きである。
いや……と言うよりもおそらく、よっぽど追い詰められていないと土壇場の起死回生というか、パンドラの箱の底の底に残っている希望というか、ともかくそういう立ち直るための可能性は、そもそも発揮出来ないのかも知れない。というか生まれさえしない、までありそうだ。
底の底まで落ちてしまったのなら後は上がるだけと言うか、夜明け前が一番暗いと言うか、何もかも失ってこそ初めて得られるものがある……と言うことを書いているといかに「運命」と「磁石」が極限状態にあったかと言うことも改めて気付かされるばかりである。なんでそんな生きるか死ぬかみたいに思わせる曲書くんだよ。修羅か?
話を「青空」に戻そう。
「青空」には空が「ただの空」、と言い切れる程度の強さはまだ残されていた。しかし逆に言うと「それだけの強さがまだあるなら(あるいは生まれたのなら)何か見出せなくてもまあ大丈夫でしょ」と言うことでもあり、「青空」での空は「ただの空」以上でも以下でもない。
「あたし」はそこから何かを探り出し、見つけ出せるくらいの力は、残念ながら備わっていなかった。それが良いか悪いかはそれこそ聴く人の感性に委ねられている。
空は助けてくれないし寄り添わない。未だに涙に沈み、薄ら汚れた空を広げてしまっているあたしは、それでも一人で立ち直っていかないといけないのだ。「青空」はそれを痛感するまでの物語だったと言えるだろう。
補足・空もひとり
けれども、「ただの空」と暴かれた空もまた“一人”であることにお気づきであろうか。先述したように、あたしと独立して存在しているどころか、空はずっとずっと、この世界が始まった時からずっと一人なのだ。
私がaikoと並んで敬愛し、尊敬する歌手・谷山浩子の「静かに」の一節である。谷山はこのフレーズについて「思いついた時すごく慰められたのを覚えています」とコメントしている(memories・ライナーノーツより)
私が初めてこの曲の「空もひとりだよ」という歌詞を読んだ時、本当にものすごく衝撃を受けたのである。ゆえにaikoとは全く関係ないながらも、今回引用させていただいた。
空も一人で、ただの空だ。何にも知らずにあたしの真上に広がるけれど、何にも知らないからこそ、きっと時に優しく見える日が来るのではないだろうか。
おわりに -この優しくない世界で-
「空」はSpotifyライナーボイスでaikoが話していたように、雪が降ろうが雷が鳴ろうが、いつかちゃんと晴れ間を見せる。なかなか立ち直れない「あたし」を描くaikoはそこに悔しさと羨ましさを滲ませていたが、でも、人間だって時間をかけてゆっくりゆっくり、少しずつ立ち直っていく。
今は悔しさと惨めさと、未だにあなたに後ろ髪引かれまくっている、あなたばかりを求めているあたしだけど、いつかはちゃんと、それを遠い日の愛しい思い出として残せる日も来るだろう。空を歪ませる涙は決して無駄ではないし、馬鹿みたいだった日々もあなたと出逢って変わったあたしも、全部全部、その先のあたしを作っていくものだ。
その時、愛する人がいてもいなくても、薄ら汚れた空が美しく澄み渡る青空に変わる日は、いつかきっと来る。
ただ、今はまだ悔しさや惨めさや苦しさに、思い切り泣いてほしい。地団駄踏んだってかまわない。みっともなく暴れたって、叫んだっていい。敵わない空を、存分に睨みつけたっていい。寄り添わない優しくない世界で生きていくために、立っていくために、そんな泥臭いあがきもまた必要なのだ。
ひたすら惨めであってもボロボロであっても、一人立ち尽くすあたしのその姿はどこか愛しく尊く、そして美しい。
人間だけが有するその美しさと気高さには、きっと青空も敵わない。私はそんな風に思うのである。