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【感想文】レ・ミゼラブル/ヴィクトル・ユゴー(第2部:コゼット)

『ダイハツ・コゼット』

第二部第七編「余談」(岩波文庫/第2巻,P.251〜)には、著者ユゴーの修道院批判ひいては自身の宗教観が展開されており、この章を読み解くことは作品主題・人物像を把握する上でも重要である。

※ただ、第七編は主張がそこかしこに点在しており、また、冗長かつlyricalな表現の多用により真意が捉え辛い。正に余談なり。

▼修道院批判:
修道院の効果について、ユゴーは歴史的な視点から <<文明の初期においては有益であって、精神的のものによって獣性を減殺するに役立つのであるが、しかし民衆の活動力には悪い結果を及ぼすもの>> とし、つまり文明の成長発展を阻害するものと主張する。次に、修道院内部に関して言うと <<恐るべき帰依の巣窟、童貞女らの洞穴、残忍の場所>> と危惧し、ユゴーはこの点を執拗に追求している。例えば、スペイン、チベットにおいては神への畏怖ではなく修道院への恐怖を導く <<残虐、寂滅牢(じゃくめつろう)、緘黙(かんもく)、閉鎖されたる頭脳、永久誓願の牢獄に入れられたる多くの不幸なる知力、僧服の着用、魂の生きながらの埋没>> と非難し、度を越した封建的、禁欲的な内部制度の腐敗は、<<かくて、国民的衰退に加うるに個人の苦悩>> になりうると言及している。
また、修道院は一つの矛盾だという。それは <<その目的は至福、その方法は犠牲。修道院は実に、結果として極度の自己棄却を持つ極度の自我主義である>> という点にあるとしており、つまり、修道院自体が自家撞着の温床でしかないことを指摘しているのである。では、修道院とはどうあるべきか。ユゴーによると <<一の自治区がある所には権利がある。修道院も平等と友愛という規範から生じたもの>> であるから <<ただ自由ということで足りる>> とし、それに加えて <<無窮なるもの(※後述)>> への祈りだという。そして話題は宗教観へと移行する。

▼宗教観:
<<無窮なるもの>>について、ユゴーは「内部に無窮なるもの(=下なる自我、即ち人の魂)」、「外部に無窮なるもの(=上なる自我、即ち神)」の二つがあるとし、それぞれを接触させる行為を「祈り」と称し、それは人間の本来性に従い、未知なるものに対する思念により実現されるのだという(※「思念」とはひたむきな祈祷を指す)。また、人間の可能性として、<<信仰と愛という原動力たる二つの力なしには、人間を出発点として考えることもできず、進歩を目的として考えることもできない>> とあり、これは「二つの力」は人間足りうる精神を裏付けるもの、進歩(→理想→無窮なるもの)へと導くもの、を意味している。したがって、ユゴー自身は神を肯定し、信仰こそ人間に必要不可欠な要素だということが分かる。
以上に説明した宗教観は、作中、ジャン・ヴァルジャンに適用されているのは歴然である。一方、修道院の理想像は、プティー・ピクプュス修道院の院長に適用されており、それはフォーシュルヴァンに語った <<ルイ十六世の断頭台とイエス・キリストの十字架とをいっしょにするほど神を恐れない者もいます。ルイ十六世は一人の国王にすぎなかったのです。ただ神にのみ心を向くべきです。そうすればもはや、正しい人も不正な人もなくなります。>> という憂いめいた発言から窺うことができる。

といったことを考えながら、ぼんやりしていると『健康な精神を持った幸せな子供を育てたいなら、子供は出来るだけ教会から遠ざけな。』というFrank Zappaの声が聞こえてきた。

以上

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