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【感想文】最後の一句/森鴎外

『アナーキー・イン・ザ・奉行所』

この物語の結末部分に奇妙なフレーズがある。

それを本文から引用すると、
<<当時の行政司法の、元始的な機関が自然に活動して、いちの願意は期せずして貫徹した>>
という箇所で、この場面は “いち” の父親の死罪が軽減されるに至った発端の一幕である。
私が奇妙に感じたのは【元始的な機関が自然に活動】という抽象的な表現に対してである。

なぜ、"いち" の最期の一句を聞いた佐佐達は、【元始的な機関が自然に活動】して大嘗会の恩赦を適用したのか?

その理由は、日本固有の「神道」に由来していると私は思う。以下、その根拠を説明する。

まず、佐佐達が行なった尋問の場面における "いち" の姿勢を引用すると、
<<憎悪を帯びた驚異の目とでも言おうか>> <<おろかな子供の影も残らず、ただ氷のように冷ややかに、刃のように鋭い>>
とあり、とても少女とは思えない覚悟と怒気に満ちており、それに対する佐佐達の反応はというと、
<<不意打ちに会ったような、驚愕の色が見えた>>
<<当時の辞書には献身という訳語もなかったので、人間の精神に、老若男女の別なく、罪人太郎兵衛の娘に現われたような作用があることを、知らなかった>>
<<その感じには物でも憑いているのではないかという迷信さえ加わった>>

という描写から、彼らは決して "いち" への同情の念から恩赦を適用したのではないことが理解できる。
むしろ、彼らは、"いち" という得体の知れないものに対し、人智の及ばぬ純粋な恐怖、または狂気を感じ、そしてそれは徳川幕府が独自に拵えた法律や権力で対処できる代物ではないと考えたのではないだろうか。

だからこそ、前述の【元始的な機関が自然に活動】とは、つまり、日本開闢以来から日本人の深層心理に根強く残る「神道」を起源とする、天皇信仰(=元始的な機関)が呼び覚まされた(=自然に活動した)のであって、彼らは最後の審判(=天皇による恩赦)を神道理念に託すしか為す術は無かったのではないかと私は思う。

といった事を考えながら、私は待ち望んでいたAKB48握手会のブースに入ったところ、そこはAKB48の握手会ではなく「鳥羽一郎&香西かおり合同ディナーショー先行予約抽選会」の行列だったことが判明した。

以上

#信州読書会 #読書感想文  #日本文学 #文豪 #森鴎外 #最後の一句 #鳥羽一郎 #香西かおり

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