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【感想文】チャタレイ夫人の恋人/D.H.ロレンス

『ししきがんこうがかいれいにゅうきゅう』

創作物が猥褻か芸術かの論争は未だに尽きない。

それは各個人が有する性の自己認識、指向、そして世相を反映したGenderの規範、様式、役割が多様化し、性的表現とそれをめぐる表現の自由において論点は複雑を極めているからである。よって、法に定めた猥褻の境界を問題視する者が後を絶たないのは当然といえる。

しかし、上記背景を全て度外視して、猥褻/芸術を判別することが実は可能である。
その説明に際しまずは、私が執筆した幻の未発表小説『色ボケ母ちゃん細腕忍法帖』の一幕を以下、ご覧頂きたい。

義母はするすると帯紐をほどき『ししきがんこうがかいれいにゅうきゅう。』と囁いた。定吉、襦袢から露わになった義母の細腕を見やり今度は腰紐を手伝いながらこの女の事を考えた。女、齢65を過ぎて色気も水切れを起こすかというのに未だに涸れておらず、紅潮した頬、恥ずかしそうに布団をかぶろうとうする所作なんぞは、はじめてを与えんとするかの様子。処女の幻影に定吉は戸惑いたれど、ここでくじけては故郷の名折れと土俵入り覚悟せざるを能わず。下腹の叢かき分け感触を確かめようとしたが早いか、女、定吉の腰ひっ掴みて両脚の中に引き入れたり。果たして、男のモンキーバナナは女のアナクシマンドロスにパイルダーオンしてマジンゴーと相成りぬ。男の一進一退が激しくなるにつれ義母はおよそ獣の様な叫び声をあげた。その音量を測定すればゴリラ50頭分に相当したであろう。而して男が果つると同時に女、絶頂の嬉し汁を噴射、息も絶え絶えに『これぞ忍法、水遁の術...』と残してその場にくずおれたり。

上記の文章は、芸術ではなく猥褻である。
まず、「紫色雁高我開令入給(ししきがんこうがかいれいにゅうきゅう)」とは人形浄瑠璃で用いられる台詞だが、読者にしてみれば意味が分からず、作者の知識を誇示したいだけの恣意に過ぎない(※言葉の意味はあえて伏せる)。そして、バナナだのゴリラだの、幼稚な形容は情緒も無ければ感興も催さない。文語体の表記も鼻につく。つまり、この文章は馬鹿なサラリーマンがスナックで繰り広げる駄弁と同様かそれ以下であり、もし街で作者を見かけた際は問答無用で殴ったらいいと思う。してみれば、この作品に構想50年執筆20年を費やした私の人生とは一体何だったのか、それはまた今度考えることにして、いずれにせよ、芸術と猥褻が完全に分離された好例である。

次に示すのは、本書『チャタレイ夫人の恋人』の一幕である。

彼女は扉を開けて、激しい雨足をながめた。雨は鋼鉄の幕のようだった。ふいに彼女は雨の中に飛び出して、駆け回りたくなった。-中略- 彼女が走り始めると、見えるのは、濡れてまるくなった頭と、前傾した濡れた背中と、光る尻のまるみだけになった。それは身体を縮めて飛翔するすばらしい女性の裸像だった。-中略- 彼は彼女の愛らしい重い尻に両手をかけ、雨の中で身震いしながら自分の身体に引き寄せた。それから突然彼女を仰向けに抱き、雨音のほか何も聞こえない小径のうえに横たえ、激しく短く自分のものにした。[新潮文庫,P.407~P.408]

上記の文章は、哀しみに満ちている。
鋼鉄の雨で閉ざされた孤独な世界で必死にもがき苦しむ姿、人間の本来性を確かめるべく一瞬間の「性」を求める姿は儚い。本場面のみならず作中の性的描写はどれも激しい、がしかしどこか儚いのは、著者ロレンスの生命主義思想が凝縮されたこのシーンに如実であり、ここに芸術性がある。その為に性的描写は必要不可欠なのである。

以上の二作品を比較すると、芸術か猥褻かを判断する術は作品の思想性の有無に依拠するしかないと私は思う。

といったことを考えながら、この内容を両親に見せた結果、父は私に勘当を言い渡し母は静かに泣いていた。

以上

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