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【感想文】伊豆の踊子/川端康成

『スーパービュー薫』

「伊豆の踊子」には呼称の問題がある。

本書の語り手である「私」は、踊子のことを本名の「薫」と呼称せず(他の人物に対しては人名表記にも関わらず)、作中において一貫して「踊子」としているからである。

では、どうして著者は「薫」ではなく「踊子」と表記し続けたのか?

その理由について以下、説明する。

まず、「薫」と「踊子」の違いは人格の有無である。
「薫」は人名なので当然、そこにはパーソナリティが宿るのだが、その表記を「踊子」とした場合、それは踊りを踊る人であったり、踊りを職業とする人であったりとどこか無機質で記号的な印象を持つ。
かといって、作中での踊子は全くそういった様子は無く、<<共同湯から裸身で無邪気に手を振る>>、<<花のように笑う>>といった描写からも分かる通り、純粋無垢な少女であることからして、著者の「踊子」という表記に悪意は感じられない。
この理解を前提として次に進めていく。

その一方、語り手の「私」およびその他登場人物の性質について読み解くとすれば、「私」がこの旅に出る発端となった描写を引用して、
<<二十歳の私は自分の性質が孤児根性で歪んでゐると厳しい反省を重ね、その息苦しい憂鬱に堪へきれないで伊豆の旅に出て来てゐるのだつた>>
とあることから、孤児根性というワードからして彼は自身を孤独な偏屈者とみなしている。

次に、その他登場人物の性質が分かる描写としては、
「流産と早産で心痛にある千代子と栄吉「生娘の薫を執拗に男性から守るおふくろ「『あんな者』と旅芸人を侮蔑する茶屋の婆さん」「水死人のやうに全身蒼ぶくれの爺さん「物ごい旅芸人村に入るべからず。という立札を書いた村人」
という人物像から、踊子を除く登場人物は俗臭の漂う醜い人間味に満ちている。

以上の登場人物と薫を取り巻く状況を対比すると、薫だけが明らかに浮いている事に気づく。
そうした薫に対して、語り手の「私」が抱いた印象は、世間のしがらみ(=俗臭の漂う人間味)から切り離された存在であり、その憧憬でもあり、また「私」への孤児根性への清めでもあった。

つまり、「私」にとっての踊子とは、不純な物が取り除かれた純粋で尊い、“人間以外の何か” であり続けてほしいという願いを込めて著者は、あえて「薫」という人名を用いず、記号的な象徴として「踊子」という表記を最後まで貫いたのである。
また、「私」は作中ラストの船中において涙を流しているが、その涙の理由は、踊子の今後の人生において「踊子」としての彼女の純粋性が俗臭により失われ、やがて「薫」となり果ててしまうことを予感したからではないかと自分は思う。

といったことを考えながら、私は先日放映された「家、ついて行ってイイですか?」というTV番組に感動し、試しに渋谷駅前にいた女子高生数名に対し、家ついて行っていいか聞きまわったところ、最終的に留置場へついて行くことになった。

以上

#信州読書会 #読書感想文  #日本文学 #踊り子号 #伊豆の踊子 #川端康成

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