余白
まだ家具も家電も届いていない引越し先で、独りで夜を過ごしてはいけない。奴が来る。奴が現れた所に暗闇は無い。窓も床も血痕も全て白に染まっている。奴の前では全て無駄。どれだけ悲鳴を上げようが、包丁で幾度突き刺そうが、奴には届かない。誰にも響かない。逃げ場は無い。できることは一つ。奴と対峙したならば、自らの死を覚悟する。それだけは可能。それ以外は不可能。これだけ私が注意喚起しているのに、ほら、またあそこ。カーテンも付けずに眠りに堕ちようとしている若い娘がいるぞ。そこには、必ず、奴が現れる。ほら、来たぞ。
◇
今から300年前の2022年9月。
とある技術が世間を賑わせた。
スマートフォンの機能の一つとして、画像から対象物のみを切り抜ける機能が搭載されたのだ。
人間だけじゃなく、犬などの動物であっても、ぬいぐるみであっても、対象物が認識できれば、それらを切り抜きできるようになった。
この機能を用いる事で、気軽に画像の編集を楽しめるようになった。
黒田も、この機能が搭載された初日から写真を切り取って遊んだ。
「真子、凄いぞこの機能、今まで専門家にしかできなかったような作業がタップするだけでできるようになった。なんて便利な世の中なんだ」
と黒田が活気よく話しかけても、真子はいつも通り優しく微笑み返すだけだった。
黒田と真子がいつも一緒にいる事は雪野高校の七不思議の一つであった。
いつも所謂不良と言われる奴等とつるんでいる黒田。
同世代が近づくことを躊躇してしまう程に透き通った容姿を兼ね備えている真子。
そんな二人がいつも一緒にいる理由は説明すれば単純だ。
物心ついた頃から常に二人で過ごしていたからだ。
何がきっかけで仲良くなったのかすら覚えていない。
気づいた時には友達だった。
そして気づいた時には恋人だった。
それだけだ。
黒田がどんなに暴れても真子は優しく寄り添ってくれた。
黒田が弱い者を助けるために暴れている事を真子は知っているからだ。
小さな頃から二人で過ごしてきたからスマホには二人の写真が大量にある。
黒田は早速写真から二人を切り抜き、加工してSNSに投稿しようとした。
でも何故か上手くいかなかった。
黒田の部分は切り抜けるのに、真子は切り抜けないのだ。
新しい機能だから、故障しているのだと思った。
だが、愛犬は切り抜ける。
野球のバットだって切り抜ける。
真子の横に写ったフランス人形も切り抜ける。
真子だけが切り抜けない。
黒田の脳裏に一つの解が浮かんだ。
幽霊だから切り抜けないのではないか。
こんな話、よくホラー漫画で読んだ。
いや有り得ない。
だって真子には触れられるのだから。
手を繋いだし、唇も重なった。
身体はまだ重ねたことはないが、きっと身体も触れ合える。
真子は実在している。
だから絶対にこの機能が可笑しいんだ。
そう思いながら真子を見た。
そこにはいつも通りの優しくて美しい真子が存在してくれていた。
その夜、黒田が眠りに落ちる寸前、真子は何かを呟いた。
翌朝、真子の姿は無かった。昨夜からの猛吹雪により、世界は白に染まっていた。
それから黒田は真子に会えていない。真子がいなくなってから黒田に異変が起きた。全てが窮屈になったのだ。何かが黒田を圧迫し続ける。常に時間に終われ、満員電車の中に押し込められているような感覚に襲われ続けた。窮屈で仕方が無かった。この窮屈さから解放されたくて思い切り腕を振り回した。「どいてくれ、どけよ、邪魔なんだよ!」
辺り一面血だらけだった。床には両親と妹達の死体が転がっている。それでも窮屈さは襲ってきた。「何故だ、誰だ、もう嫌だ、俺を殺せ」返事は無い。そうか自分で無にするしかないのか。黒田は悟り、床に仰向けになり自らの腹を刺した。
これで解放されると思ったのに違った。黒田はあの世とこの世を彷徨う存在になっていた。そして気づいた。真子が、この得体の知れない外圧から俺を守ってくれていたんだと。真子を探し出さなければ。
どこだ、どこなんだ、真子。俺にまた余白をくれよ。心の余白を。じゃないと、苦しい、苦しいんだ。余白がないのはこんなにも苦しいんだ。ああっ、あそこには沢山の余白がある。その中央にいる若い娘は真子だ、きっとそうだろ。
今回こそ、きっと…
◇
奴は突如現れる。貴女の前に棒立で。見下ろしてくる。奴はいつも泣いている。泣きながら両手に持った刃物で貴女を挽肉になるまで刻み続ける。奴の白い涙は大量で、窓も床も血も全て白に染める。奴は常に呟いている、苦しい、苦しい、苦しい、と。奴と対峙したならば、自らの死を覚悟する。それだけは可能。それ以外は不可能。
終
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