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助けた亀、託す。

◇はじめに

この小説は30分程の長さです。そしてこの小説は丸武群さんに紹介して頂いた、フェルマーの最終定理という本の影響を大きく受けています。それだけではなく皆が紹介してくれた本から得たものが少なからず反映されています。読むことも書くことも1人でするものですが、1人では決して書けなかった作品であることだけは事実です。またしても僕は多くの人から大きな恩を頂いたのです。その恩をこの小説を通じて少しだけでもお返しできたら幸いです。


『助けた亀、託す。』

サンタクロースが子供達に無償でプレゼントを配る事の代償として、虫や植物達の命が奪われてしまったのだろうか。この季節はいつも命の気配がしない。覇気が無いんだ。俺と同じで。

今日も、したくもないのに、柔道の練習をさせられている。

壁には柔道の父と称される、なんとか五郎という男が愛した「自他共栄」という言葉が掲げられている。

何が自他共栄だ。

そんな言葉を掲げているなら、なぜ俺に対して、こんな酷い仕打ちをオヤジは繰り返すのか。

オヤジは柔道でオリンピックに出場し金メダルを5大会連続で獲得した柔道界のレジェンドだ。今は現役を退き、ここ富門土(とみもんど)町の島道場で師範として若手の育成に精を出している。柔道の未来に情熱を注ぐのは結構だが、その矛先を俺に押し付けないで欲しい。

小さな頃から、当然のように柔道の練習をさせられた。小学生低学年くらいまでは、オヤジもそこまで厳しくなかったから、他の子が野球やサッカーを楽しむように、俺も柔道を楽しんださ。

それが、最近ではどうだ。中学の一年を過ごすごとにオヤジのように大きく成長する身体に伴って、明らかに俺への期待、そして厳しさが増した。

そりゃ中学二年で大熊のように成長した俺に期待したい気持ちもわかる。だけど俺はそんな厳しさを望んでいないんだ。

同じクラスの俊才、亀田 豊が言うには、俺のオヤジがしていることは柔道界の伝統「しごき」だそうだ。

勝ち目もない父親の弟子の佐山という男と何本も何本も乱取りをさせられた。乱取りはお互いに技を掛け合う事で実戦に近い形で技術の向上を目指す練習方法だ。

しかし、ここでの乱取りでは俺から技を仕掛ける事は禁止されている。一方で佐山に制約は無く、それを良いことに多種多様な技で攻め立ててきた。大内刈り、払い腰、大外刈り、支え釣り込み足、内股。

しかも高校生でも1回5分の10セットをこなすので精一杯なのに、俺にはその3倍の30セットを押しつけてきた。

これだけでも最悪なのに、より俺を絶望と怒りに震え上がらせるのが、最後の2セットだけ、オヤジ直々に参戦してくることだ。

弱りきった息子を、現役時代の伝家の宝刀、大外刈りで畳に叩きつけ、憐れむような目付で見下してくるのだ。

そこに息子への愛情など一欠片も感じやしない。自他共栄など、オヤジにとってただの言葉の並びに違いない。あいつにとっては自らの強さを誇示することが何よりの生きがいなのだ。

こうやって心の中では反抗しているが、直接オヤジに文句を言うこともガンをつけたことすらない。それほどに畏怖な存在であることに違いはなかった。

俺が唯一できたことといえばオヤジが背を向けた瞬間に、ありったけの憎しみの眼差しで凝視することくらいだ。

地獄のような毎日において唯一の救いは、愛犬のタロウの存在だった。(母は優しかったが、オヤジの顔色ばかり伺う人だった)

小学生の頃、駅前に捨てられていた芝犬のタロウを拾ってきて以来、タロウは俺の唯一の相棒だ。

今日も家の近くの海辺を散歩しながら、タロウのぷりぷりの尻に向けて決意表明した。

タロウ、俺はいつかオヤジを見返してやるんだ。

散歩から帰るとつけっぱなしのTVの中で、同い年らしき少女が、大人顔負けの歌声を披露していた。


その少女の明るい歌声がどこからか聞こえて来そうな朗らかな季節が二度訪れ、俺は高校に進学した。

県内屈指の柔道強豪校だ。

オヤジを筆頭に周囲の人間は、俺は当然柔道部に入部するものだと思っていたはずだ。

しかし俺は中学二年の時から、この日を待ちわびていた。人生で初めて真正面から親父に反抗する日がきたのだ。

俺は柔道部を横切り、アメフト部に入部届を提出した。この高校にアメフトがあることを知っての行動だ。

なぜアメフトかって。

アメフトはオヤジが嫌いなスポーツだからだ。

あんな強靭な肉体を有しているのにも関わらず、米国の娯楽に興じるなど、自ら敗戦国の負け犬になりさがっているようなもんだ。

そんなことをTVに向かってつぶやいているオヤジの姿を目撃して以来、オヤジを見返すにはこれだ。と思ったのだ。というかいつの時代の考えだよ。

当然オヤジは激昂するだろう。だがその覚悟もできていた。

アメフト部への入部を報告した際、予想通り、いや想像以上のしごきで半殺しにされた。普段30セットの乱取りを50セットに増やされ、その全てをオヤジが遂行したのだ。憤怒したオヤジは人類が数百年かけて積み上げた壁をも容易く崩壊する巨人のようだった。

以前よりさらに一回り大きくなった俺を軽々と何度も何度も空中に弾き飛ばし、そのまま畳に叩きつけた。技の強度はセット数を重ねるごとに強靭になっていき、全身の骨が折れそうな程打ちのめされた。

そして取組後には、これまでで一番の侮蔑の視線で俺を刺した。一方で何一つオヤジの想いや考えは言ってくれなかった。

俺は満身創痍ではあるが内から湧き出てくる悔しさから怒りに任せて叫んだ。

「おいオヤジ!あの文字の意味わかってんのか!」自他共栄を指差して続けた。

「あれは仲間に感謝し信頼し助け合っていこうという教えだ。オヤジみたいな一匹狼には、理解できねえよな。俺がアメフトを通じて自他共栄とは何かを教えてやるよ!」

その時オヤジはやっと口を開き

「残念だ。俺はお前をそんな軟弱な奴に育てた覚えわない」と、愛情の微塵も無い言葉を残して道場から去っていった。

ちきしょう。ちきしょう。見てろよ、オヤジ。絶対に見返してやる。

改めて固く誓った。

この時の俺の表情は鬼のようだっただろうけど、愛犬のタロウだけは怯えながらも寄り添うような表情で、こちらを見つめてくれていた。


アメフト部に入部後は死物狂いで猛特訓した。練習はとてつもなくハードであったが、オヤジの特訓に比べたら大したことなかった。体格を生かして、ディフェンスのポジションに配置された俺はどんな強靭で俊足な相手のタックルも軽々と受け止め続けた。

高校生活でアメフトばかりしていたかというとそうでは無い。勉強にも力を入れた。運動しかしてこずにきた奴がどんな男になるかを誰よりも間近で見ていたからだ。

勉強は俺にとって運動よりもハードであった。アメフトの細かな作戦ならすぐ覚えられるのに、紙に羅列された数式は何かの呪文のようだ。

だから俺はいつも亀田 豊を頼った。奴は俺とは正反対で運動はできないが、頭脳明晰で全クラスでも常にトップだった。しかし見た目が奇妙すぎて俺以外の奴は近づこうとしなかった。

確かに客観的に見ると変な見た目だ。カッパみたいにひょろひょろだし、肌もガサガサ、髪の毛も高校生なのに中年みたいに禿げちらかしていた。おまけに水泳の授業はいつも見学するし、休み時間はよくわからない分厚い研究書をぶつぶつ読んでいて気味が悪い。

だが、話しかけてみると、意外にも親切で面白い奴だということを俺は中学の時から知っていた。特に数学のこととなると、皆が熱中しているゲームの話をする時と同じくらいのテンションで熱く語ってきた。

「島くん。いやここでも勘九郎って呼んでいいんだったね。数学は謎解きゲームなんだよ。一つ手がかりを見つけたら全てが解明する。こんな清々しい科目は無いんだ。それに、数学は社会でもあらゆるところに応用されててね、あの橋だって数学から導き出されて…」

「あーOKOK。お前が数学を愛してるのはじゅーぶんわかってるって。テスト終わったら、その話の続き聞くから、今はここの問題の解き方教えてくれよ」

「約束だよ。それに話を聞くだけじゃないくて、いつものあれも頼むよ」

「はいはい、わかったって。で、ここの二次方程式の問題なんだが…」

こんなやり取りをしている時、オヤジから発せられた侮蔑的視線に似たものを感じて振り向くことがあったが、決まってそこには誰もいなかった。

そうやって何かわからない所はすぐに亀田に教えてもらったから、数学の点数はみるみる向上した。亀田といることで、勉強の楽しみも知れたので、他の教科も総じて高得点を取ることができるようにもなっていた。

帰宅後観たインターネットの動画内で、あの時の歌の上手かった少女がトップアイドルの一員として歌って踊っていた。

まだ春は少し先だったが、不思議と春の温かさを感じた。


雪に変わりそうな小雨が降っている。

そんな日でも日課にしていることは継続される。海辺を愛犬のタロウとランニングすることが俺の日課だ。俺は高校2年生になっていたが、この日課をサボったことは一度も無い。

この辺りは暑い季節には、様々な形で海を楽しむ人たちで賑わうが、今の季節は寒さを避ける為に家に引きこもる人ばかりなので、閑散としている。あの凶暴な熊でさえ眠ってしまう季節なのだから仕方ないか。

そんな雰囲気の中だったので堤防に集まっている人だかりに自然と目が及んだ。こんな寒い時期に大勢で何してんだ。と思いながら、何か得体の知れない不穏な雰囲気を察知した。

そこで、タロウのリードを海辺に設置されたベンチに結び付け、警戒しながら堤防に近づいた。こういう時の嫌な予感ってのはどうも当たってしまうようだ。

集団のほとんどは海の方向を向いていたので誰が誰なのか判断できなかったが、一人だけ海を背にして堤防の先端に立っている男がいた。

亀田だ。


顔面を殴られた形跡があり、意識も朦朧としている様子だった。

おい、と発した言葉により、その集団は俺を認識し振り向いてきた。

その時、こいつらが誰なのか判明した。同じ学校の奴らだった。クラスメイトの奴も混ざっている。いつも誰かを標的にして苛めている奴らだ。苛めの対象が、この前まで新任の先生だったが、その新任の先生が表向きは家庭の事情で他校に移動したから、次は亀田を標的にしだしたってわけか。

「おー島じゃあねえか。お前こそこんな雨の中なあにやってんだよ」

奴らの中でボス的存在の鮫岡が話しかけてきた。鮫岡の一族は日本人なら誰もが知る大手企業の経営者である。生まれた時から金と権力を所有した鮫岡は、それら-金や権力-をチラつかせて人を従え、悪行を楽しんでいる野郎だ。ネチネチとした話し方が人を余計に苛立させる。

俺はあふれ出しそうな怒りを堪えながら、亀田に何してんだ。と問いただした。

鮫岡は人を小馬鹿にするような態度で話し始めた。

「なあにムキになってんだよ。俺らはさあ、今、人類の危機を救おうとしてんのよお。ほら、島も近くに来て見てみろ」

「こいつカッパみたいな見た目してるからさあ、興味が湧いてさあ、この前、体育館の倉庫に呼び出して全裸にしてみたのよお。そしたらさあ、驚いたぜ。背中に甲羅みたいなこぶがあんの。こりゃマジのカッパ野郎だってことで、今から海に落として遊んでやろうとしてたんだよ。こんな得体の知れない奴と同じ学校で過ごしてただなんて気味悪くて仕方ねぇだろ」

「ほおら、カッパ野郎。早く飛び込め。お前がカッパならこんな荒れた海でも泳ぎきって死なないだろう。その泳ぎ早く見せてくれよ」

鮫岡が亀田の肩を小突いた。

「……」

亀田は俯いたまま何も言わず震えていた。

「お前ら、人をイジメすぎてついに頭狂ったのか。亀田がカッパなわけないだろうが。そんな言いがかりつけて、人を苛めるのも大概にしろよ」

と俺が啖呵を切ると、鮫岡は両手をポケットに入れた状態で闊歩し、俺の目の前まで来た。

「島よう。正義ズラするのはいいが、言動に気をつけろ。お前が何かしようとしたら問答無用であいつを海に蹴り落としちゃうよお」

「俺はさあ、島。お前みたいな奴が大嫌いなんだよ。アメフトでチヤホヤされてるからってだけで調子に乗りやがって。おまけに弱い者の味方かあ。反吐がでるぜ」

そして鮫岡は目線を周囲に目くばせし、その瞬間仲間達が一斉に俺に向かって傘を振り下ろしてきた。

傘は俺の頭部に直撃した。

傘ごときで殴られる痛み、耐えられないわけがないが、打たれた表皮からは赤黒い液体が染まりだしていた。

「無様だねえ。耐え続けるだけの能無し。そりゃそうか。テメェは負け犬だもんな。柔道界のレジェンドか何か知らねえが、現役を退いた老ぼれにすら一度も勝てずに、アメフトに逃げた弱虫。図体だけでかくなった見せかけだけのミジンコメンタル野郎。そんな奴が誰かを助けられるわけないだろおが」

俺は頭部から流れてくるもの以上に顔を赤らめ、憤怒した。しかし一歩でも動けば亀田が海に落とされてしまう。

どうしたものか。と考えていた瞬間、背後から何かが猛進してきた。

タロウだ。

リードの結びが緩かったのだろうか。タロウは鮫岡に突進すると狼をも凌駕する程けたたましく吠え続けた。

鮫岡に一瞬の隙ができた。

と同時に俺は奴の襟元を掴みあげ、そのまま間髪入れず相手の両足を掬い上げコンクリートに叩きつけた。

オヤジの宝刀、大外刈りだ。


「ごちゃごちゃうっせえ。虫とでも犬とでもなんとでも言え。だが、次、亀田にちょっかいだしてみろ、今度は海の底まで叩き落すぞ」

そう叫びながら、倒れた鮫岡の襟元を再度掴み、今度は仲間のほうに投げ捨てた。

鮫岡は仲間に支えられながらその場を去っていった。

俺はすぐさま亀田の元に駆け寄った。

おい、亀田。大丈夫か、という俺に亀田は痛みを堪えつつ、やっと口を開いた。

「大したことない、よ。それより勘九郎、きみの方こそ大丈夫じゃなさそうだ。すぐに病院に行こう」

亀田は自分のことより俺のことを心配してくれた。

「何言ってんだ。こんな傷、ここでちょっと横になってりゃ治るって。それより無事で何よりだ」

「君は超人か。恩にきるよ」

その言葉を聞きながら、俺は濡れた堤防に横たわった。

主が死んだと思ったのかタロウが血相を変えて近づいてきて、俺の頭部を舐めまわし始めた。

「タロウ、違う、死んでない。ちょっと休憩してんだ。おい、やめろ、いたたたた」

「ははははは。タロウと勘九郎は本当に相棒のようだね。そうそう、タロウにも感謝だ。ありがとう」

濡れた堤防は冷たかったが、大切な友達を救えたことが誇らしかった。

吐く息が煙のように俺たちを包み込む。

安堵の空気が漂っていた。




あの堤防での一件から数日が経過し、俺と亀田はとある場所を訪れていた。

亀田があの件のお礼をしたいと言ってきたからだ。お礼など必要なかったが、礼をしたいと申してきたのだから俺の好物の焼肉を奢ってくれるものだと期待して亀田について来たのに。

なんだここは。

白を基調とした家具で統一された空間に、お洒落な雑貨屋で購入してきたような小物が散りばめられている。運ばれてきた紅茶とパンケーキは淡いブルーの食器に載せられていて、写真映りが良さそうだ。

「っておい、亀田。これお前が好きなパンケーキ屋じゃねえか。今日は俺へのお礼じゃないのかよ」

「そうだよ。お礼に勘九郎の知らない世界を紹介してあげようと思ってさ。それに勉強を教えてあげた恩もこれでチャラにできるしょ」

そう言われると、それ以上は言い返せなかった。

「それにしても亀田ってパンケーキ好きだよな。確かにここのパンケーキは絶品だから、亀田にとってここはパラダイスみたいなもんなのか」

「パラダイス。そうさ、ここは僕にとって陸のパラダイスさ。まあ、そんなことより早く食べよう」

それから男二人でパンケーキに食らいついた。いや、食らいついたのは俺だけで、亀田はフォークとナイフを使って上品に一口ひとくちを堪能していた。一口頬張るごとに目を閉じ、鼻で息を吸い、口の中だけではなく喉元、胃、脳みその全てをフル稼働しているようであった。亀田は本当にパンケーキが好きなのだ。

30分ほどじっくりと時間をかけて全てのパンケーキを平らげ終わった後、亀田が珍しく家に寄ってかないかと提案してきた。


亀田の家は、海辺から東にほんのわずか進んだ場所にある。隣は古民家をリノベーションした民宿、反対側には老舗のお好み焼き屋が並んでいる。俺の家からは歩いて20分くらいの場所だ。毎年、夏に開催される富門土花火大会の花火が窓越しに綺麗に見えるので、夏には毎度亀田家にお世話になっている。


それ以来の訪問なので、遊びに来たのは約半年ぶりくらいだ。亀田の部屋は、壁中にホワイトボードが設置されていて、そこに数式がびっしりと羅列してある。床からは参考書や研究雑誌が生えているかのごとく積み上げられていて、数学好きな亀田らしい部屋だ。

俺は本を隅に寄せて、久しぶりに日の目を見たであろう絨毯の上に座った。

亀田はというと勉強机の椅子に座り、こちらに背を向けたままの状態で唐突に語り始めた。

「勘九郎、この前は本当に助かったよ。君は僕の命の恩人であり、親友だ。そんな君だからこそ聞いてほしい話がある」

俺は亀田の背中に向けて、それはどんな話なんだ、と投げかけた。

亀田はしばらく沈黙した後、意を決して

「僕は、

浦島太郎と亀の子孫なんだ」

と口に出した。

冗談なのかとも疑ったが、亀田の口調から判断して嘘をついているようには思えなかった。

亀田は続けた。

「そしてカッパも僕のご先祖様なんだ。世代を重ねるごとに人間に近づいてはきたんだけど、君もあの時聞いたように、今だに僕の背中には甲羅の形跡がある。だから鮫岡が言ってたカッパ野郎ってのも間違いじゃないんだ」

そして椅子を回転させ、ようやく俺のほうを見ると、明らかな作り笑いを浮かべ

「嘘みたいな話だろ。信じてくれなくても良いんだ。だけど僕が何者かを勘九郎にだけは伝えておきたかったんだ」と言った。

亀田は小刻みに震えていた。憶測だが大切な人にこの秘密を話したせいで、疎遠になってしまったような苦い思い出があるのだろう。



「ふーん。そうなんだ」

俺はあっけらかんとした口調で返した。

亀田は目を丸くして数十秒、停止した。

「ふーん。そうなんだ。じゃないんだよ。何を僕はパンケーキだけじゃなくてマカロンも好きなんだ。ってのを打ち明けた時くらい、あっさり受け入れてくれてんの」

「だって亀田が言うことに間違いがあったことなんて、これまで無かったし。それに亀田が誰の子孫だろうと、亀田は亀田だろ」

亀田は今にも泣きそうな顔つきになった。

「あっ、でも亀を助けたことになるから、竜宮城にいって宝を沢山いただいてやってもいいんだぜ」

「馬鹿言え。竜宮城があるなら僕だって行ってみたいし、玉手箱だって開けてみたいさ」

「はは、そうだよな、行ってみたいな竜宮城。開けてみたいな玉手箱。ってかお前がマカロン好きなのは初耳なんだが」

そりゃそうさ、初めて言ったんだからと、亀田は何食わぬ顔で述べてきた。掴みどころが時たま消失する奴だ。そうか亀だから甲羅の中に隠してるんだな。なんて思いながら、ついフェルマーの最終定理の本を無意識に掴んでしまったもんだから、そこから亀田の熱弁を7時間も聞く羽目になってしまった。

「...でね、数学者という生き物は、答えが無い問題ですら、答えが無いことを証明してみせようとするんだ。そんな彼らにかかればさ、僕みたいなお伽話にしか出てこないだろう奴ですら、意図も容易く『存在している』と証明してくれそうだろ。だから僕は数学が好きなんだ」

そう語る時の亀田から発せらた笑顔の煌きは、深海の竜宮城をも輝かせただろう。


それにしても、世の中は不思議な事ばかりだ。

あの亀田が浦島と亀の子孫とは。

そんなことを考えながら、いつもの海辺をタロウと散歩していたら、前方から小柄な少女がポメラニアンを引き連れて近づいてきていた。

今どきの子らしく、動画も撮れる小型カメラで足元を映しながら歩いている。おそらくこの後、PopPick-世界中の誰かが撮った短い動画を楽しめアプリ-に投稿するのだろう。

耳元にはワイヤレス型の白いイヤホンが装着されていて、音楽に合わせて時折スキップするような仕草を見せている。

その仕草が可愛らしいなと、うつつを抜かしていたら、少女のポメラニアンと愛犬のタロウの鼻先が触れ合うくらいの距離にまで近づいていた。

その時突然、少女がタロウに向かって、あっ!あの時の柴犬ちゃんだ。と声を上げ、タロウの前にしゃがんで撫でまわし始めた。

ひとしきりタロウを撫で終わると、俺に視線を移して、質問してきた。

「可愛いワンちゃんですね。名前はなんて言うんですか」

その瞬間、俺は極度の人見知りのように目をキョロキョロさせてしまった。

なぜならその少女が俺の最推しのアイドル、ちょこっとみんとの東条春香かもしれなかったからだ。ベースボールキャップと大きめのマスクをしているが目元は東条春香と同じだった。

東条春香こと、はるるんは、ちょこっとみんとの絶対的エースだ。はるるんも、つい最近PopPickに動画を投稿していたことも、俺が少女をはるるんだと考える要因の一つだった。背丈や雰囲気も見れば見るほどはるるんそのものだ。

しかし、そんな偶然は無いよな。でも本物だったらどうしよう。握手だけでもしてもらおうかな。なんてことを長々と考えていたせいで、俺は少女の質問に対して的外れな事を口走ってしまった。

「えっと、俺の名前は島勘九郎。好きな食べ物は焼肉です!」

時を止める呪文が発動し、周囲の時間が立ち止まった気がした。

やっちまったよ。何言ってんだ俺は。十中八九、話の流れから、タロウの名前を尋ねてきたのに決まっているじゃないか。

案の定はるるん似の少女はへへへと笑いながら、そっか。じゃあこの子はなんて名前なの?と俺のミスを誤魔化しながら再度タロウの名前を聞いてきた。焼肉のことなんて完全スルーだ。

恥ずかしさという色の絵の具によって一気に顔を赤に塗られた。

「す、すいません。タロウの事でしたよね。こ、こいつはタロウって言います」

「へへっ。そっか、タロウって名前なんだね」

俺は大きく息を吸い、気を取り直して先ほどから疑問に思っていたことを尋ね返した。

「タロウのこと知ってるみたいですけど、前もどこかでお会いしたことありましたっけ?」

少女は相変わらず下から俺を見上げている。

「うん、タロウにはこの前会ったの。ベンチに結んであったリードを解いたら一目散にあなたの方に突進していったの。私も慌てて後を追ったんだけど、あの状況だったからさ、それ以上は近づけなくて。何も言わずに去ってしまってごめんなさい」

立ち上がって律儀に帽子も取り頭を下げてくれた。

「そうだったんですね。あの時タロウが来てくれたおかげで、親友を助けることができたんです。ありがとうございました」

俺も少女に負けじと深々と頭を下げた。

そこから頭下げ合戦が開始され、しばらくお互いペコリペコリと頭を下げ合い、じゃあそろそろ行くね、と言って少女は散歩に戻っていった。

俺は少女の背中にもう一度、ここまでで一番長く深いお辞儀をした。視界には舗装されたアスファルトしかないが、少女の笑顔が色濃く浮かび上がっていた。

顔を上げると実際にその少女の笑顔があった。散歩を再開しだしたはずの少女が、また俺の近くまで戻ってきていたのだ。

「私さ、毎週この時間に、この辺り散歩に来てるの。島くんが良ければ毎週話相手になってよ」

満面の笑みでお願いしてくる少女。正直言って心臓が張り裂けてしまいそうだった。

「も、もちろん、いつでも話相手になります。あっ、そうだ、あなたの名前はなんて言うんですか?」

「ミルクって言うよ。へへへ。私は佐保だよ。島くん、そしたらまた来週ね」

そう言って佐保さんは今度こそ散歩に戻っていった。

それが俺と佐保との初めての出逢いだった。

この日以来、俺が焼肉を食べたいという度に佐保は、聞いてもいないのに好き好きアピールしちゃうくらい大好物だもんね。へへっ。と無邪気にからかってくる。


それから俺と佐保は毎週、海辺で再開し、海が青から黒に変わるまで、ベンチに座って色んな話をした。タロウを繋いだあのベンチで、タロウが繋いでくれた二人で。

お互いの血液型とか趣味とか様々なことを知っていった。

特に驚いたのが、佐保はやはり、はるるんと深い関係にあったことだ。

佐保は、はるるんの年子の妹なのだ。

はるるんの妹なんて羨ましかったが、佐保は、その事も大きな悩みなんだと打ち明けてくれた。あまりにも、はるるんと似すぎているために、いつも本人と勘違いされてしまう。だから佐保自身はまだ有名なアイドルでは無いのに、芸能人のようにいつも帽子やマスクをしなければならないのがもどかしいらしい。

それに佐保自身もいつかは姉と同じようにアイドル活動をしたいと夢みているのに、アイドル関係者の間では、はるるんの妹としか取り扱ってくれないので、悔しさが募るそうだ。

だけど佐保がこんな話をするのは極稀で、大半は未来のことについて熱く語ってくれる。

私はいつか絶対、東条佐保として認知される存在になるんだ。それでね、なんだかいつも悲しそうにしている同世代の子達を笑顔にするんだ。と目を輝かせるのだ。

ジャンルこそ違えど最終目標は俺とよく似ていて、深く共感できた。

だから俺も熱くなって、俺も絶対アメフトで優勝する。そしてオヤジに俺の存在を認めさせるんだ。と毎度宣言していた。

人間とは欲深い生き物である。

こうやって佐保と毎週ベンチで語り合うだけで充分幸せなのに、俺はもう一歩、佐保と深い関係になりたいと思うようになってしまった。

そこで意を決し、亀田を利用、いや協力してもらって、パンケーキ屋に三人で行く約束をこじつけた。

事前に亀田に事情を説明すると、今は違う場所がお気に入りだからそこでもいいかな、と尋ねてきた。

亀田イチオシなら間違いないので、了承した。


すぐにパンケーキ屋に三人で訪れる日は来た。

道中にある服屋のマネキンが、タートルネックにダウンジャケットという出立ちで完璧な防寒対策を披露していた。

亀田に引き連れられてお店の前にまで来た俺は驚いた。亀田が案内したのは、どこにでもあるチェーン店だったからだ。

チェーン店をバカにしているわけではないが、亀田ほどのパンケーキ通なら、前回二人で行ったような女子が喜ぶお店を選んでくれると思っていたのに。俺は亀田は亀田だということをすっかり忘れていた。

亀田に、なんでこの店なんだと聞いたら、亀田は何食わぬ顔で、安心して、ここの期間限定のパンケーキが今一番熱いんだから。と言うのだ。

ファミレスの前で待っていると、横断歩道の向こうから、佐保が手を振ってきた。

「おーい、今行くね!」

緑のフレアスカートに白のニットと白のコートを合わせた本日の佐保はいつもより大人びていて、俺は心臓が強く動いているのを感じた。

「ごめーん、お待たせ。ミルクがなかなか離してくれなくてさ。あっ、亀田くんだよね。はじめまして。勘九郎からいつも話は聞いてます。今日は私のために素敵な場所を選んでくれてありがとね」

佐保はお勧めのパンケーキ屋がファミレスだったのにもかかわらず、誠心誠意の感謝を亀田に伝えていた。それを受け亀田も誇らしそうだった。

ファミレスの店内に入り、席に案内された俺たちはさっそく亀田イチオシ期間限定、冬のトリプルホワイトパンケーキを一人一つずつ注文した。

パンケーキを待っている間に後から入店し近くの席に座った同年代くらいの3人組が、飲み物を注文するや否や、ビクトリーだなんだと楽しそうに叫んでいた。

暫くして俺たち三人の前に現れたトリプルホワイトパンケーキは、ホワイトチョコレート、マシュマロ、生クリームがふんだんにデコレーションされており、亀田が勧めるだけあって、口の中で雪が溶ろけるような美味しさであった。

佐保もこんな美味しいパンケーキは食べたことない!亀田くん天才!と大絶賛大満足の様子だった。そんな佐保の褒め言葉に気分を良くした亀田が饒舌に語りだした。

「トリプルと言えば、三角形だけど、僕が好きな定理があってね。2人も習ったと思うけどピタゴラスの定理っての」そう言うと、亀田はアンケート用に置いてある鉛筆を取り、紙ナプキンにピタゴラスの定理の数式を書き出した。その数式の下に続けて、こう記した。


直角三角形の斜辺の二乗は、他の二辺の二乗の和に等しい。


「この言葉は、僕にとってはどんな詩よりも趣深い詩のようなもので大好きなんだ。ピタゴラスの定理は、全ての直角三角形に当てはまる絶対的真理でね。僕はね、常々この定理から人間の真理をも感じるんだ。僕も勘九郎も佐保くんも皆違う。だけど、父と母がいたからこそ、僕らは存在できた。例えそれがどんな父であっても、この真理だけは絶対なんだ。そしてこれから勘九郎と佐保くんが結婚して、子供を授かる。これは勘九郎と佐保くんがこの世にしっかり実体として存在し続けたからこそ起こる奇跡なんだ。こんなロマンチックな学問、他には無いよ」

「ちょ、ちょ、亀田、定理の話は面白かったが、俺たちまだ付き合っても無いのにけっ、結婚して子供を授かるだなんて」

どうやら亀田という絵の具も赤色らしい。亀田の言葉にまたしても顔が赤くなった。

佐保は大笑いしていた。が、ほんの一瞬だけ俺の真意を確かめるように視線を向けてきた。

俺はドギマギして、どうしようもなかったので、トイレに行くという口実でその話題を終わらせた。


勘九郎が何故か顔を赤らめてトイレに行ってしまったから、佐保くんと2人きりになった。

僕は本人の前では言いにくい事を、初対面ではあるが佐保くんに話始めた。

「佐保くん、このパンケーキの味付け良いだろ。でもそれ以上に勘九郎は良い奴なんだ」

佐保くんは僕が唐突に話始めたので、一瞬驚いた様子だったが、すぐさま相槌を打って話を聞く体勢をとってくれたので、そのまま話を続けた。

「最近もさ、僕の大きな秘密を打ち明けたんだけど、勘九郎はその秘密をすぐ様受け入れてくれたんだ。その時、自分という存在を認められた気がしてさ。それ以来、自分を認めてもらう為ではなくて、好きだからという理由だけで数学に向き合えるようになったんだ。そしたら益々数学の虜になっちゃってさ。今、数学者になろうと、より強く思えているのも勘九郎のおかげなんだ」

佐保くんは目だけではなく、体全体で相槌を打って話を聞いてくれた。

「うんうん、すーごっくよくわかるよ、亀田くん。私もね最近毎週話を聞いてもらってるんだけどね、勘九郎は何一つ否定せずに、受け止めてくれるの。だからね、私も亀田くんと似てるんだけど、誰かを超えるためじゃなくて、誰かを幸せにするために頑張らなきゃって思えるようになってきたの。自分のことを認めてくれる存在がいるって本当に心強いよね」

「そうなんだよ。勘九郎本人はさ、そのことにあまり気づいてないみたいだけど、あの男は、身体の大きさの何倍もの心の温かさを持ち合わせているんだ。僕はそんな勘九郎と出逢えて幸せだし、その勘九郎にこんな素敵な奥さんができて、より幸せなんだ」

「亀田くん、だから、私たち、まだ付き合ってもないんだってば。へへっ」

そこで勘九郎がトイレから戻ってきた。話に花が咲いている僕らを見て、なに話してたんだよ、と尋ねてきたが、佐保くんが上手く誤魔化してくれた。

「何って、亀田くん一推しのマカロンのお店について聞いてたんだよね。ねー亀田くん」

勘九郎は納得した様子で、席に座り、話題をあえて逸らすように、タロウやミルクの話をし始めた。


ファミレスを後にし、亀田とも途中で別れ、佐保と2人きりでいつもの海辺を歩いた。道端には、スノードロップの白い花びらが舞い落ちた雪のように咲いていた。

「亀田くんって面白いね。それに預言者なのかもね。私たちが結婚だなんて。どうなんだろ。私たち結婚するのかな。ね。勘九郎」

手を後ろに回してウサギみたいに飛び跳ねながら無邪気に聞いてくる。

気づけばあのベンチの前まで来ていた。

佐保にベンチに座ってもらい、俺はベンチには座らず佐保を目の前にして跪いた。

「東条佐保さん。俺はこの海辺だけじゃなくて、世界中の道をあなたと歩いていきたい。ずっと側にいたい...」

だから結婚を前提にお付き合いしてください。と言いたいのに、言葉に詰まってしまう。そんな俺の気持ちを汲み取るように佐保が話し始める。

「だけどあなたには見返したい人がいる。アメフトで日本一になるんだよね。わかってる。あなたの夢は私の夢でもあるもの。だから勘九郎が大学を卒業するまでの5年は待ってあげる。それ以上は待たない。そして私もその5年で、必ず、東条佐保として沢山の人に笑顔を与える存在になる。絶対になる。そして勘九郎、その間も私のことちゃんと支えてくれるよね?」

「それに私は今15だから花の10代を全部勘九郎に捧げるんだからね。私もアメフトも疎かにしたら許さないからね」

佐保はなんでもお見通しだ。そして春の風のように温かい。前に佐保の名前の由来を教えてもらった。佐保姫という春の女神から取ったらしい。ピッタリな由来だ。佐保といるとどんなに乱層雲が重なっていたとしても太陽の光が降り注いでいるような気分になる。それはこの上なく幸せで心地良い。

だから俺も佐保に少しでも幸せをお返ししたい。その決意を胸に秘めて口を開いた。

「もちろんだよ。佐保をこれからずっと幸せにする。そしてアメフトも必ず日本一になる。絶対になる。よし、燃えてきたぞ」

俺たちは海に向かって再度それぞれの夢を叫んだ。

海の風が、俺たちの誓いを竜宮城まで運んでくれた気がした。


あの決意の日から五年が経過した。

あの日の宣言通り、俺は高校でも大学でもアメフトの大会で優勝をもぎ取った。光栄にも社会人になっても続けられそうだ。オヤジを見返したい想いで始めたアメフトだが、いつの間にか佐保への愛のほうが大きな原動力となっていた。そのことに気づいてからは不思議とそれまでの何倍もの力が溢れてきた。

佐保は佐保で、親しみやすさと話の面白さを生かしてインターネット上で地道にライブ配信を行った成果が実り、今では姉以上にテレビに引っ張りだこの売れっ子タレントになっていた。紹介のされ方も東条佐保と紹介されるようになった。

因みに亀田も現役大学生でありながら、斬新な数論を展開して、数学の亀田、ともてはやされており、教授への道も大きく開けていた。

この五年の間、佐保と2人、時には亀田を交えて3人で励まし合ったからこそ成し遂げられた。

そして俺は佐保にプロポーズし、その想いを佐保も受け止めてくれた。




五年の間でデートも数多くした。その中でも特に印象深かったのが、誓いを立ててから2年経った頃に行った水族館デートだ。

その日の途中までは雑誌のデートプランに掲載されても不思議ではない程に楽しいデートだった。

佐保が行きたいと言っていた食パンが絶品のモーニングを食べるために朝早くから合流し、動画を撮影するために最適なカメラを求めて、カメラならなんでも揃うと評判の町の電気屋を訪れた。その後は俺の大好きな焼き肉屋で特大ハンバーグを平らげ、塩味の後には甘味だよね、と水族館に行く道中にあるカフェでホットココアをテイクアウトした。

お昼休憩でオフィスから外に出てきたらしき女性が腕を前に組み、身を縮めて小走りでコンビニに入っていった。

水族館も普段は垣間見ることもできない海の中の世界に連れてこられたかのような非日常感を堪能できた。特にここ那比水族館のアイドル、アオウミガメのナビちゃんが巨体であるにも関わらず悠々と泳ぐ様は俺たちはじめ多くの来場者の目を釘付けにした。この子も亀田の親族なのかな、と口に出してしまいそうだった。

しかし佐保はナビちゃんよりもその周囲を世話しなく泳ぐ魚たちを見て一言、美味しそう、と口走っていた。

俺は当惑した。最近観た映画で人間に変身した猫が魚を見て同じセリフを言っていたからだ。

だから思わず、俺は

「佐保って実は猫じゃないよね?」

となんの脈絡もなく尋ねてしまった。

佐保は大笑いして、そんなわけないじゃん、私はただの食いしん坊よ。と返してきた。

俺も笑って返したが、急に辺りが暗くなった。

すぐに俺の世界に照明が灯りなおしたが、どうやら俺は一瞬意識を失って倒れてしまっていたみたいだ。

佐保がこれまで見せたこともない心配そうな表情でこちらを見てくる。

「勘九郎、大丈夫。体調悪かったならデート中止にしたのに」

「ごめんな。だけど久しぶりのデートだったから中止にはしたくなかったんだ」

「馬鹿九朗。お家に帰るよ」

佐保はそう言ってデートを切り上げる提案をしてきてくれた。

俺は悔しくて情けない気持ちでいっぱいだった。

体調を崩したのが自業自得だったからだ。

実はこのデートの時に、佐保への愛情を形にしたくて、プレゼントを贈る計画を立てていた。そのためにアメフトの練習や大学での勉強時間の合間で寝る時間を大幅に削ってアルバイトをしていた。その無理が肝心な時に来てしまったのだ。自分の無謀さを嘆いた。

そんな事情を知らない佐保は帰り道も優しく俺に付き添ってくれ、1人暮らしをしているマンションの部屋の前まで見届けてくれたのだ。俺は佐保に風邪がうつるかもしれないから、帰ったらしっかり手洗いしてね、という事と、楽しみにしていたディナーに行けなくなってしまった事を詫びて玄関の扉を閉めた。

数十分後、インターフォンが鳴った。

驚いたことに、とっくに帰ったと思った佐保が両手にビニール袋を下げて、画面越しにこちらに微笑んでいたのだ。

俺は風邪がうつってしまうからと佐保を部屋にあげるのを拒んだが、佐保はお構いなく部屋に突入してきた。

栄養つけなきゃ、治るものも治らないよ。それにもしうつっても今度は勘九郎が看病してくれるでしょ。そうとだけ言って佐保はキッチンに向かった。

佐保は夜遅くまで献身的に看病してくれた。

雑炊を食べさせてくれたし、キスもしてくれた。

当時の俺と佐保が夢中になっていたゲームのキャラクターで、キスによって傷を治したり、状態異常を回復させる魔法使いがいた。そのキャラを題材にして、佐保のキスにも病気を治す力があるのよ。と冗談交じりで口づけしてくれた。

佐保の看病のおかげで翌日には熱も下がっていたが、案の定、次は佐保が体調を崩してしまったので、役割をバトンタッチして必死に看病した。

翌日佐保の熱も下がった。

ベッドから起き上がった佐保にベッド横に腰掛けてもらい、本当はあの日に渡すはずだったんだと、赤色の箱に金色のリボンで包装されたプレゼントを渡した。中にはハートのネックレスが入っている。

後々わかったのだが、どうやらハートのネックレスというのは、女性が貰って一番厄介なプレゼントの一つらしい。

それなのに佐保は、箱を開けた時も涙を流して嬉しがってくれ、一つの忠告もしてくれた。

「勘九郎、ありがとう。このネックレスを見るたびに勘九郎の愛情を感じることができるね。でもね、勘九郎はこのネックレスを見るたびに、もう体調を壊してしまう程無理はしないって思いなさい」

佐保には、やはり全てお見通しだったのだ。

佐保はそれから今に至るまで、このネックレスを肌身離さず身に着けてくれている。

生配信中、視聴者にそのネックレスは誰からもらったんですか。と聞かれても、当然のように、私の一番大切な人がくれたんだ。と言ってくれていた。

その姿を見るたびに俺は一生、この子を守りたい、と思ったのであった。


プロポーズしてから数日後、俺と佐保は実家を目指していた。結婚の報告をするためだ。

実家は富門土駅前の商業地域を10分ほど南下し、なだらかな坂道を登った閑静な住宅地の一角にある。大学に入ってから一人暮らしを始めたから、実家に帰ってくるのは1年ぶりだった。1年しか経っていないのに、実家全体が年老いたような気がするのは何故だろう。

到着して玄関を開けると愛犬のタロウが、相変わらずの猛進で俺たちを迎えてくれた。タロウの後ろには母親が立っていて、オヤジは奥の客間に陣取り、庭を眺めていた。

客間まできたタイミングで佐保はいつもの笑顔でお父さん、お母さん、お久しぶりです。これ、つまらない物ですが、どうぞ。と言い、オヤジの好きな最中を手渡した。

そう、5年前のあのベンチでお互いの夢を宣言した直後に、一度実家を訪問していたのだ。

その時には、佐保と結婚を前提として付き合っていくこと、アメフトで必ず優勝することを伝えた。佐保も皆に愛されるアイドルになります、とハキハキとした口調で伝えていた。

しかし当時のオヤジは俺にはもちろん、佐保にさえ何の反応も示さず、腕を組み、顔は無表情だった。

そんな対応をされたのに、佐保は、実家からの帰り道に

勘九郎のお父さんは愛情深い人だね、

と言ったのだが、当時はさすがに同意しかねた。

その時と全く同じ態度でオヤジは佇んでいる。最中など、もちろん受け取ろうともしなかったから、横にいた母親が申し訳なさそうに受け取った。客間には、妙な緊張感が漂っていた。

俺はこれから命綱無しで張られたロープの上を渡る覚悟で口を開けた。

「オヤジ、久しぶり。今日は佐保と結婚することを報告しにきた。彼女のご両親には先日挨拶にうかがって承諾をしてくれた。まだまだ若造だけど、一人の男として佐保のことを守っていきます」

オヤジは腕を組んだまま、言葉の一つも返してくれない。佐保も後に続いた。

「お父さん、お母さん。まだまだ未熟な私ですが、勘九郎さんと協力して、お二人のような温かい家庭を築いていきたいと思っています。どうぞこれからよろしくお願いします」

相変わらず、オヤジの腕は胸の前で結ばれたままだ。柔道を裏切った俺に苛立っているのか、小指が小刻みに動いている。

こんな時ですら、何も言ってくれないのかよ、なんでだよ、と半ば諦めかけたその時、小指の動きが止まり、おもむろにオヤジが話出した。

「五年前、お前たちがうちに来た時は、何を言ってるんだ、こいつらはって思っていた。アメフトも芸能もそんなに甘い世界じゃない。世間知らずの若造が、とくらいにしか思っていなかった。しかし二人ともあの時、口に出した事を実現した。どんな世界でもトップに君臨するのがどれだけ大変なのかは俺もよく知っている。だから勘九郎、佐保くん、ふたりとも本当によく頑張ったな。そして結婚おめでとう。心から祝福する」

そう語ってくれたオヤジの姿はこれまで俺が見たこともない笑顔のオヤジだった。

そしてオヤジは引き続きしゃべり出した。

「まあ、そんなことは実は重要では無くてだな。佐保くん、佐保くん。君はちょこっとみんとのはるるんの影武者なのか?」

俺と佐保はきょとんとし、顔を見つめ合い、大笑いした。なんでそうなるんだよ。と思いつつも、一気に場が和んだのを感じとった。

「お父さん、はるるんは私の姉です!あーもう!ここ数年で姉と同じくらい有名になれたかと思ってたのに、こんな身近に振り向いてもらわないといけない存在がいたとは。お父さんを私のファンにさせるのがこれからの目標になりました」

そう言いながらも佐保は唐突に立ち上がって、ちょこっとみんとの代表曲、恋のsweet&coolを踊りながら歌い始めた。と、同時にオヤジは俺の知らない声色で完璧な合いの手を入れていった。

いつからそんなにファンだったんだよ。

最高に上機嫌になったオヤジはあれこれ指示を出し始めた。

「お母さん、さっきもらった最中とお酒もってきなさい。そして佐保くん、用事がなければ今日は泊まっていきなさい。勘九郎、お前もぼさっとしてないで料理の一つでも持ってくるの手伝え」

佐保は少し困惑した様子だったが、それ以上に打ち解けられた喜びに満ちた表情をしていた。

トイレに立ったオヤジの隙をみて佐保が

「ね、お父さんは愛情深い人だって言ったでしょ」とウィンクしてきた。

確かにな。オヤジが俺に厳しい稽古をつけたのも、誰よりも俺に強くなって欲しいという想いからだ。そこにあるのは愛情だよな。それに子どもの頃はオヤジは圧倒的存在だったけれど、オヤジも一人の人間だもんな。そりゃ間違った行動や言動をぶつけてしまうことだってある。そんな中でも偉大な柔道家かつ父親を演じてくれていたんだよな。そう考えると、これから、もっとオヤジのことを知って、親孝行もしなけりゃなと思えた。

と同時にオヤジを見返してやりたいという気持ちは完全に消失していた。

その日の夜は長かった。

日付が変わる頃まで宴を楽しんだようだ。

お酒の弱い俺は一足先に布団に潜り込んだ。

佐保はもう少しだけオヤジとの酒に付き合ってからそっちに行くね、お父さん達もいるんだからいつもみたいにエッチなことしてきたら駄目だからね。と釘もさされた。

少し眠って目を覚ますと、襖越しにオヤジと佐保が何やら会話している。

「あいつには悪いことしたと思ってるんだ。強くて優しい男にしたかった。だけど俺は柔道しかしらないから、柔道しか教えられなかった。アメフトをやりたいって言った時は複雑な気持ちにもなったが、あいつは本当にやりきった。あいつの試合を見ていたら、チーム一丸で戦っていて自他共栄とは何かを教わった」

「佐保くん、君がいたから、あいつはあれ程にまで強くて優しい男になったんだな。まだまだ至らない息子だが、あいつのこと頼んだ」

声がでかいからオヤジの言葉は襖越しでも全て耳に届いた。いや、心にまで届いてきやがったか。

枕が涙で濡れた。

その後、佐保が隣にやってきて背中越しに寄り添ってくれた。俺は反転して、さっき言われたばかりの忠告を破り佐保を愛した。

愛が、愛が、愛が、ここに満ちている。


翌朝。腕時計は6:40という早朝を示す数字を表示していた。

佐保の仕事が昼から入っていたため、俺たちは朝早くに、実家を後にした。母親とタロウが見送ってくれた。オヤジは昨夜の深酒のせいで、まだ眠っていた。案外だらしないところもあるんだなと、微笑ましかった。

家を出て80m程歩いた所で思わず立ち止まった。俺たちが出会った海辺辺りから昇ってくる朝日が綺麗だったからだ。佐保も感動したのか、朝日の奇麗さにうっとりした表情で、太陽を眺めていた。

その時、

背後から何かが猛突進してきた。

振り向くと、それはゴミ収集車だった。

恐らくギアを入れ間違えたのに、動揺してそのままアクセルを踏み続けているのだろう。速度を落とすどころか勢いを増して向かってきた。

それは

ほんの一瞬だった。俺の身体は長年アメフトに勤しんできた習性で、向かってくる車に重心が及んだ。

と同時に横から思い切り突き飛ばされた。

佐保が俺を突き飛ばしたのだ。

佐保は倒れた俺に微笑み、生きて、と声を発した。他にも言いたいことがあったのだろうが、間に合わなかったのだろう。

ドカン!!

鈍くて生暖かい音が響いた。

佐保は速度を上げて向かってきたゴミ収集車によって数メートル宙を舞い舗装された固いアスファルトに叩きつけられた。周囲からはあの時俺の頭から流れてきた赤黒い血があふれ出している。俺はあまりにも突然のことすぎてパニックに陥った。鍛えぬいたはずの太い脚が震えている。目からは涙、皮膚からはなんの汗かもわからぬ汗が溢れてくる。この距離でも明らかだったからだ。

即死だった。

どうしてだ。どうして俺はこうなんだ。守るって決めたのに。一番大事な時に、どうして佐保を守る動作ができないんだ。なぜだ。なぜだ。

絶望に支配されつつも、必死で体を奮い立たせ佐保の側に駆け寄った。

佐保、さほ、佐保、サホ!!!

どんなに大声で叫んでも佐保が返事を返してくれることはなかった。

ゴミ収集車の運転手も事態を把握できていないのか、一向に車から降りてこない。

俺は逃げるようにしてその場を去った。佐保を置き去りにして。


細い路地裏に逃げるように這ってきた。手も服も佐保の血で血まみれだ。全身が震えて止まらない。俺は何度も何度も謝った。ごめん、ごめん、佐保ごめん。俺が君ごと抱えて横に逃げられていたなら、これからもふたりで生きていけたのに。こんな時のためにアメフトでタックルの練習していたはずなのに。ごめん、ごめん。そう言いながら、いつも欠かさず持ち歩いている鞄から箱を取り出した。腕時計は6:59という表示になっていた。

鮮やかな赤色の箱に金色の紐で固く閉ざされている、その箱を震える手で必死に開けた。

中には1本の煙草とライター。

俺は生涯吸ったこともない煙草を咥え、ライターで火をつけた。煙草を吸うと煙が体内を充填していき、気づけば世界の全てが煙に覆われた。

その中で俺はあの日の亀田との会話を思い出していた。あれは亀田の家に行った時、そう、亀田が自分は浦島太郎と亀の子孫だと打ち明けた日だ。

亀田は竜宮城の存在は知らなかったが、実は自作で玉手箱を開発していたのだ。そしてその玉手箱を俺に託した。その時亀田はこの玉手箱についてこう説明してくれた。

この玉手箱の中には煙草が入っている。その煙草を吸えば、時間を20分戻せる。でも副作用として、吸った日の終わりに吸った本人は消える。正確にはどこかのお腹の中の赤ちゃんに転生する。周囲は勘九郎の記憶は無くさないが、勘九郎だけは前世の記憶は失う。そしてこのことを誰かに話した時点で効果は無効化されてしまう。だから自分のこれまでの人生を犠牲にしてでもやり直したい局面が訪れた時にのみ使うように。できることなら勘九郎がこれを使わずに人生を謳歌できることを祈っているよ。

亀田はそう言ってくれたが、玉手箱を開けるべき時が今、まさに訪れたのだった。

煙に包まれ、勘九郎は次第に意識を失っていった。


意識が戻った時、そこには佐保と母親とタロウの姿があった。腕時計は6:40を示している。時を戻すことに成功したのだ。佐保が無事でいることに、俺は今にも泣きそうになっていた。

しかし感傷に浸っている場合ではない。俺は佐保にしばらくここにいるようにと伝え、ゴミ収集車が停まっている場所に駆けだした。

そしてゴミ収集車の運転席の扉を叩きながら、叫んだ。

「運転手さん!ちゃんとシフトがドライブになっているの確認してください!」

帽子を深々と被った運転手がこちらの存在に気づいて顔をこちらに向けた。


絶望の光景とは地獄にあるのではなく、現実に転がっている。


その男の顔を認識できた時、俺は信号機のように一度青ざめ、すぐさま怒りで赤くなった。

その運転手は鮫岡だったのだ。

目の焦点が合っていない。

俺は、こんな奴のために、佐保との未来を絶たれたのか。こんな奴のために。

怒りが腕に伝播し、骨髄反射的に車の扉を開けた。扉にはロックがかかっておらず勢いよく扉は開いた。

その瞬間、扉を開けた反対側の肩めがけて、鮫岡はナイフを突き刺してきた。激痛が走った。痛がる俺の様子を楽しむように車から降りてきた鮫岡はにやつきながらも容赦なく俺の胸部を何箇所も刺した。

「傘では死なないお前もさあ、これなら確実に死ぬよなあ。死ねえ、死ねえ、俺を差し置いて幸せそうにしてる奴は全員死ねえ」

刺された箇所が燃えるように熱い。血がとめどなく流れ出してくる。意識もなくなりそうだ。だが俺が長年かけて鍛え上げた躰はなんとか俺の命を繋いでくれている。

気力を振り絞り、大きく息を吸う。

「こんな痛みはな、オヤジとの乱取りと比べりゃ蚊みたいなもんなんだよ」

そう叫んで、俺は鮫岡の腕を名一杯掴んだ。ナイフは俺の胸に刺さったままだ。悔しいが鮫岡を投げ飛ばす力は残っていない。

だがこれでいい。

俺は知っているから。

オヤジは愛情深い人間だって。


疾風雷神。

俺の危機に野性的な本能で気づいたのだろう。熟睡していたはずのオヤジが雷の如く向かってきて、手とうで鮫岡の手とナイフを切り離した。間髪入れず、襟元を掴み、鮫岡の両足を掬い上げ、地面に体全身が砕け散る程の勢いで叩きつけた。

という幻想でも観せたのだろう。鮫岡は腰を抜かしズボンの間を湿らせた。

さすがオヤジ。気迫だけで相手に技をかけられたと錯覚させたのだ。とんでもない人だ。

鮫岡はその後、警察に連行された。

オヤジは俺に刺さったナイフを引き抜いてくれた。オヤジはなんとも形容しがたい表情で仁王立ちしていた。初めてオヤジが泣いている姿を目にしてしまった。

すぐに佐保も側に駆け寄ってきた。

「勘九郎!勘九郎!なんで、なんで勘九郎がこんな目に合うの?!この人誰なの?すぐに救急車来るからね。もうちょっとだからね。もう少しだけ耐えて」

俺は最後の力を喉元に集めた。

「……佐保…と出逢えてよかった…」

愛してると伝えたいがもうそれを音にする力は残っていなかった。

「なに死ぬ間際みたいなこと、言ってんのよ。もうちょっとなんだって。もうちょっとだけ」

そう言って佐保は俺に口づけしてきた。

「ほら、私の口づけには傷を回復する力があるんでしょ。何回でもキスするから…目を覚まして…お願い、勘九郎……1人にしないで」

最後に聞いたのはうわああんと響く悲しみと絶望まみれのうめき声。

俺は声を出す代わりに涙を垂らした。

溢れた涙は地面で蒸発し、俺諸共、煙と化してしまった。


それから15年後。


とある中学柔道大会初戦。

レジェンドの孫であり、佐保くんと勘九郎の息子である島 勘十郎に対するは僕の息子、亀田 勘九郎。

勘十郎のお株を奪う、勘九郎の大外刈りが見事に決まった。

その光景を見て、島の父親、佐保くん、そして僕は同一人物を思い出し、目を潤ませた。

かつての親友であり、今は息子である勘九郎だ。(玉手箱の転生により僕たちの元に舞い降りてきてくれた)

勘九郎はあの時、佐保くんだけではなく、託された未来をも守り抜いたのだ。

それは僕の先祖である助けられた亀が託したものと同一のもの。

未来だ。

僕らは、もがき、悲しみ、絶望し、愛し、

未来を未来に託すのだ。


終わり




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