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わたしの理想は、わたしが決める

先日、家族で朝ごはんを食べながらふと思った。
「あぁわたし、いま理想の暮らしのなかにいる」と。

蒸篭で蒸したパンと目玉焼き、野菜たっぷりのスープ、ヨーグルトと手作りのグラノーラ、フルーツ。パンにはバターと作ったばかりのいちごジャム。挽きたてのコーヒー。

こんな朝ごはんを家族で囲むことは、わたしの理想のひとつだった。でも、何年も前からこんなふうに過ごしていた気もする。なのに、いまさらどうして。

目玉焼きの黄身はカチカチだし、盛り付けもひどいものだ。コーヒーを淹れるのはあいかわらず10年選手の古い電気ポットで、コーヒー豆も産地や店の名前を特筆するようなものではない。子どものマグカップはポケモンである。写真に撮れるような整ったテーブルには程遠い。

それでも、コーヒーはそのつど挽いて、ゆっくり淹れるだけでとてもおいしいし、子どもが焼いてくれた目玉焼きは、ピカピカに輝いている。

ずっと、ローラたち(大草原の小さな家)の食卓に憧れてきた。とはいえ、銅鍋やアンティークのうつわを揃えたいとか、子どもにふんわりしたワンピースを着せて三つ編みにしたいとか、そういう話ではないし、エドワーズさんのヘビのスープを再現したいわけでもない。

家族みんなで、さまざまな喜びや悩みも共有しながら同じ食卓を囲む。自分たちがおいしいと思うものを、必要なぶんだけ、ときには自分たちの手でこしらえながら、感謝して味わう。

言い尽くされた言葉だけれど、結局のところ、物質的なしあわせではなく、本質的な豊かさ、ということだろう。

頭では十二分にわかっていたつもりでいながらも、作家名やコーヒー器具の銘柄といった輪郭に、どこかとらわれすぎていたのかもしれない。心の片隅で、ハッシュタグやメンションが重なる暮らしに憧れていたのかもしれない。

理想の食卓は、もうとっくに手にしていたのだ。

ライターという自分の仕事にも、ここ数ヶ月、同じような気持ちを抱いている。

いま、いただいている仕事はどれも楽しい。やりがいもある。仕事内容も、人間関係も、なにひとつ不満などなく、ほんとうにありがたい。
それなのに、自分はライターとしてどこか欠けているところがあるのではという漠然とした不安が、いつも胸の隅っこにあった。

新しいことに疎く、週のほとんどは下町の自宅にこもってパソコンに向き合っている。すてきなショップや人との出会い、映画や美術館、街を歩くこと、どれももちろん大好きだけれど、たくさんよりは、わたしはゆっくりのんびり楽しむのが向いている。

けれどあちこちを飛び回り、アクティブに活躍する人こそがライターの正解なのではないか。

そんな自分を打破したいと、ときどき思い出したようにエンジンをかけるけれど、無理する自分はそう長く続かない。そのたびに、「等身大」という言葉がよぎるのだった。

でも、そんなわたしだから見えるものある。大きく、新しく、斬新なものは見つけられないかもしれない。けれど読者と近い視点に立ち、わかりやすく、親しみをもって伝えることならできる。ライターは翻訳者である、とはよく言ったものだ。

新しくセンスあるものをいち早く見つけるライターがいる一方で、足元にある小さなものに光を当て「ほら、ここにもいいものあるよ」と伝えるライターだって、世の中には必要だろう。

暮らしも仕事も、理想のかたちはとっくにわかっていると思い込んでいた。けれど、頭と心、それぞれの理解にはちょっとタイムラグがあったみたいだ。

「自分のものさしで」という、誰かに向けて、何度となく原稿に書いてきた言葉を、もう一度噛み締めている。

(追記)
これには続きがある。
あるとき、深夜2時にハッと目が覚めて「誰かと比べるのはもう終わり、わたしはわたし。理想の自分は自分で作れる!」みたいなことで頭がいっぱいになった夜があった。いま振り返っても、あれはなんだったんだろうと思うのだけれど、翌朝からつきものが落ちたように、景色が変わって見えた。その日から今日まで、朝の10分体操と日記(9年目にして書いたトータルは1年分くらいしかない5年日記)が珍しく続いている。

その日は深夜1時58分に獅子座の満月を迎えていたと知り、不思議な気持ちになった(しし座の満月のパワーについては、いろいろな考えや表現があるので気になる方は調べてみてください)。

そこまで深く月の満ち欠けを気にしてこなかったわたしが、その夜だけは、なぜか心に残っている。実際のところは、月でも星でもまぐれでもなんでもいい。ポジティブに心が動いたのはいいことだし、この気流に乗って歩いていきたい。

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