省略されるサヨナラ
人生の中で人はどれくらいサヨナラをするのだろうか。ふと、そんなことを考えた。そのサヨナラにもたくさんの種類がある、とぼくは思っている。
人の死という永遠のサヨナラ、卒業、転職によって離ればなれになることによるサヨナラ。恋人との別れによるサヨナラもあるだろう。こう、書き並べてみると一般的に「サヨナラ」は寂しいものだという認識があるのではないか?むしろ、悲しい、寂しいといったものしかないようにさえ見える。
でも、そんなことはない。日常的な別れ際に「サヨナラ、またあした」というものだってあるからだ。このサヨナラは別れではあるけれども「次がある」と別れる時点でわかっている前向きなサヨナラだ。でも、このときはサヨナラは省略されることも多いかもしれない。
『サヨナラなんかは言わせない ぼくらはまた必ず会えるから』
といった歌詞もあるくらいだから。
何が言いたいかというと「サヨナラ」を口に出すときは次がない前提なんだなと。そのあとに「また、明日」「また会おう」などと続けるときは「サヨナラ」を省略する。誰に教えてもらったわけでもないけれど、無意識のうちにそう染みついている。少なくともぼくの中では。
なんてことをヤクルトがサヨナラ勝ちを納めた直後から考えていた。この日はヤクルトが勝利する前に横浜スタジアムでDeNAがサヨナラ勝ち。
「DeNAにサヨナラができてヤクルトにできないわけがない」
そうつぶやいた直後のサヨナラだった。
DeNAのように史上初の三者連続本塁打で決めることはできなかった。詰まった当たりの不格好なサヨナラ勝ちだ。これで今シーズン8回目。
銀杏並木から青山通りを通って行く渋谷までの道のりは熱く、暑かった。ぼくらの夏が戻っていた。
8月22日:ヤクルト(5-4)阪神
こちらサポートにコメントをつけられるようになっていたのですね。サポートを頂いた暁には歌集なりエッセイを購入しレビューさせて頂きます。