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感情の階段を下りてみる

久しぶりに内観のお話。

わたしは日頃から自分の感情に注意を払って過ごしている。
特にネガティブ感情や、何か違和感を感じてすっきりしない感情を感じたときなど、その感情の出所を探っていく。すると最初に感じた感情が第一層だとすると、もう一段階下にほんとうの気持ちがあることに気づくことが多い。いわゆる本音というものだ。
例えば、ある依頼を受けてわたしの出来るだけの努力をして返す。なのに割とあっさりとハイハイ~と軽いノリで、やって当たり前みたいな反応を返されると、なんだか悲しくなる。それは感謝されることを期待していたのに、感謝の気持ちを受け取れなかったことの悲しみ、そしてわたしを対等に扱っていて欲しいのに、ぞんざいに扱われてるんじゃないかと疑い痛みを感じるから。これは決して相手がそんなつもりが無くても、もともとわたしの中にもっている「どうせわたしなんて」という痛みがあるがゆえ、そのかさぶたにさわるのだ。
これも、日によって違う。わたしがこういった痛みにより悲しみを感じる時は、たいてい頑張り過ぎていてキャパオーバーになっていたり、ほんのちょっとの「まっいいか~このくらい」という我慢が少しずつ重なっているときだ。
出来ないことを断る。我慢しない。ひとに迷惑をかけない範囲で自分の居心地の良さを追求する。これが出来てるときは、わたしが何かをして塩対応されたとしても気にならないし、悲しくなどならない。
そして、自分のキャパを知っていること。例えキャパが小さくても、いいやわたしはこのキャパの人間なんだ!と自分を許し納得していることが大事かなと思う。

一方、怒りの感情を感じた時、その一層下にある自分の痛みに気づいて向き合う作業は結構骨が折れる。素直な悲しみの下の痛みの感情よりも、怒りの下の痛みの方がより痛く感じるからだ。見たくない、向き合いたくないから怒ってるんだもの。
自分が腹を立てている真っ最中は、誰かが悪いとか、何かの状況が悪いなどと思っているため、感覚的には強い自分を体感している。
けど、意外や意外、あの人の態度が許せない!あの人が私のことを非難する。わかってくれない!というのは、あのひとにこそわかって欲しいのにわかってくれなかったことがとても哀しいというひりひりする痛みが下にある。
わたしは、もともと怒りよりも悲しみに振れるタイプの人間だが、それでも怒りの感情が湧きあがって来るのを自覚したときは、わたし一体何が痛いの?と自分の中を探索してみる。すると、たいてい力なく小さく震える自分を見つける。

怒り感情の場合は、上手くいけば冷静に対処できるが、出来ないこともある。わかっちゃいても、ひどい態度を取っちゃったとか、一言多かったということだってもちろんある。
そんな時、わたしはいっそ悪人でいいやって思うことにしている。
ひとを傷つけたかしら?と後悔も出るが、そういう経験も悪くないと自分に許している。その代わりしっかり自覚はしておく。ひとを傷つけてしまうわたしも存在するという自覚。
どうやっても自分をコントロール出来ず、または思い込みや勘違いから人を傷つけちゃったという自覚があり、そのことを忘れなければ、逆に誰かに不遜な態度を取られたとしても、そういう時もあるよ。だってわたしだってそうだもん。あるあるだよ。お互い様だよって優しくなれる。
嫌われないこと、善人であることに必要以上にこだわるのは疲れるし、ひとへの視線も厳しくなりだちだと思うのだ。
わざと傷つけるというのでなければ、愚かでいたらない自分も、間違う他人も許していきたい。

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