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発酵について考えたこと

フードスコーレのDAY2の講義で、ファーメンステーションの酒井さんから発酵を活用して、未利用資源を再生させる活動について話を伺った。

酒井さんは、有効活用されていない未利用資源を発酵させて商品を作られてる。例えば、お米からエタノールを作ったり、シールドを作る過程で余ったりんごの搾かすを発酵させて、アルコールやウェットティッシュを作ったりしている。「無駄だと思われているものをめちゃくちゃ価値のあるものに変身させたい。」とおっしゃるように、『発酵』には無駄なものを有益なものに変える、すごい力があるのではないか。

2年前くらい、フードロスに関心を持つようになってから、「発酵」の不思議さにも惹かれるようになった。初めは、発酵食=健康的なイメージから、身体のために食べていたが、だんだん、見えない生き物たちが働きかけ合って、深みのある風味が醸成される、そんな作用に興味引かれていった。

味噌を作ったことがある。原料は大豆と塩と麹菌。仕込む前は、大豆を煮て潰しただけのペースト。これだけでは食欲そそられないが、麹菌と塩を加えて半年発酵させると、色や風味が変化し、旨味が凝縮した食べ物に変わる。

金沢にはフグの卵巣の糠づけ、という食べ物がある。卵には毒素があるからそのままだと食べれないけど、塩と糠に漬けることによって魔法のように毒が消えて食べれるものになる。

旨味を増やし、食材をおいしくする「発酵」の仕組みには、一見無駄なものを、とんでもなく有益にする作用がある。発酵からは、無駄なものを有益なものに変える、無駄を無駄とみなさないでいい、という考え方をもらえるね。

そもそも発酵について、発酵デザイナーの小倉ヒラクさんは「人間にとって役立つものであれば発酵、有害なものであれば腐敗だ」という。

発酵とは、人の都合や判断で有益だとみなしたもの。発酵自体は自然に起きる作用でありながら、最終判断は人に委ねられる。

例えば、納豆は日本人にとっては発酵食品だが、納豆カルチャーに慣れない人にとっては腐った食べ物になりえる。発酵と腐敗の境目は曖昧なんだな。

食品ロスについても同じことが言えるのでは?食品ロスとは、可食部(食べられる部分)と不可食部(食べられない部分)があるうち、可食部なのに捨てられてしまうものを指す。例えば、にんじんの皮も見方によっては、食べられる部分にも、食べられない部分になる。

食べれるか食べれないかの判断は私たちに委ねられる。だから、「有益だ」と自分たちで判断する力がいるのだと思う。(もちろん安全性は保つべき)

もう一つ発酵のいいところが、複雑になることだと思っている。

複雑なものほど味わい深い(奥行きがある)のではないか?という仮説。

何度も読みたくなる本は、毎回読むたびに新しい発見があるし、何度も観たくなる映画も、見るたびにこんなシーンがあったのかと驚かされる。何度も食べたくなる食事も、何かあるんじゃないか。

”口内調味”も、おかずと白ごはんを交互に食べることで、口の中で風味を混ぜることで複雑になること?

調べると、「コク」は複雑な味わいだと言われる。(おいしさは主観的に決まって、コクは客観的に見れる、ということも面白いな…ー食べ物のコクとおいしさは違う

たぶん、複雑なものほど、きっと味わい深いのだ。

私は単純だから、こんなこと語るには100年早いと思うが、単純なものを量産するより、複雑で何度も味わうものに憧れがあり、そういうもの作りに携わる人に尊敬の念がある。人生も世の中もきっと単純じゃないし、複雑なものへの美しさ?を感じていた。

裏には、うまく言えないけど「本当にいいと思えるものが長く愛されてほしい、とか、一回で消費されないずっと残る消費がいい」っていう考えがある。

まとめ

無駄を無駄とみなさない。

効率化をすることで無駄は削ぐべきものだという風潮を感じてた。ここ最近は、情緒が大切にされる場面が増えてる気がする。発酵という概念のように、無駄に思うものにも価値があると思える世の中で合って欲しいね。腐敗するかもしれない、という不確実性もあるが、その過程も楽しめたらいい。



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