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日常ブログ #39カラス




あれは高二か高三の夏のことだった。

ちょうど今くらいの時期の、夏休みに入りたてのよく晴れた日。
その日私は、趣味のサイクリングに出かけた。
暑いから止めておけと母親に言われたが、15分くらいで帰ってくるからと言って、そのまま出かけた。
実は、数日前に買った新しい帽子を少しでも早く被って出かけてみたかったのだった。
おろしたてのかわいい帽子を身につけて感じる田舎道自転車爆走風はとても心地いいだろうな、なんて呑気なことを考えながら、家を出発した。

いつも通り、お気に入りのサイクリングコースをルート通りに通過した。
車道なんだか歩道なんだかわからない道を渡り、私道なんだか公道なんだかわからない細道を抜けて、大通りの裏の裏通りに出た。
大昔、お宝マーケットという中古のおもちゃ屋があった場所に面した、車通りも人通りも少ない裏道である。

その旧お宝マーケット通りに差し掛かった時、私はある異変を感じた。
カラスだ。
けたたましいカラスの鳴き声が、かなり近いところから聞こえてきた。
どうやら複数匹いるようだ。
サイクリングの時はこの通りを頻繁に通っているが、こんなにカラスの騒がしい鳴き声が聞こえてきたのは、その時が初めてだった。
これは穏やかじゃないぞ、と思って、私はペダルを漕ぐ足を速くした。

意外と長い旧お宝マーケット通り。
スピードアップしたのも束の間、私はいきなり背後から何者かに殴られた。
後頭部に鈍い衝撃を感じ、思わず自転車を止めた。
後ろを振り返ったが、そこには誰もいなかった。
人の気配のない通り。
道の脇すぐには住宅があって、身を隠せるようなところもない。
前にも後ろにも私しかいない。
ただ、頭上でカラスがやかましく鳴いている。
私は、あまりの暑さに頭がおかしくなってしまったのだと思った。
それか新しい帽子のベルトをきつくしすぎて脳が爆発したのだ。
きっとそうだ、そうに違いない。
とりあえず怖いからお家に帰ろう。
そうして自転車を漕ぎだそうとしたその瞬間、またしても後頭部を殴られた。
一体何が起こっているのか。
私は呪われてしまったのか。
このまま死ぬまで見えない何かに頭を殴られ続けるのか。
混乱でフリーズしかけていたその耳元で、バサリという羽音が聞こえた。

その時になってようやく気がついたのだ。
私がさっきからうるさいなと思っていたカラスの鳴き声は、頭の上の、すぐそこ、ここ、ほんの数十センチのところから発せられていたのである。
そして、そのカラスに、たった今頭を蹴られたのだ。
それも2回。

私はびっくりして自転車から転げ落ちた。
受け身を取れなかったので、アスファルトに背中を打ちつけた。
私が必死に起き上がり、倒れた自転車を起こしている間も、カラスは私の真上を旋回し、凄まじい鳴き声を上げていた。
このカラスたちは確実に私を狙っている。
次同じように蹴られたら、今度は殺されるかもしれない、確実に死んでしまうと、本気でそう思った。
命の危険を感じた。
究極に慌てていたので、自転車に乗ることもままならなかった。
それに奴らは私の頭を重点的に狙っているので、常に頭を下げてガードしていなければならなかった。
いっそのこと走った方が早いと、私は自転車に乗らずに走ってその場から逃げた。
本当に慌てていたので、自転車を置いていくとか、自転車を押して走るとかいうことにまで頭が回らず、自転車を持ち上げて抱えて全力で走ったのだ。
最終的に、どう考えても一番遅い方法を選択してしまっているのだが、その時はとにかく余裕がなかった。
必死だったのだ。
その必死さが、私に自転車を抱えて走らせた。
感覚としては永遠の時間、距離にして数十メートル、カラスは私のあとを追ってきた。
私はカラスの鳴き声が聞こえている間、一心不乱に走り続けた。
旧お宝通りから少しでも離れることしか考えていなかった。

カラスの鳴き声がしなくなったと気づいた時、私は自転車を降ろしてその場に座り込んでしまった。
死ぬほど疲れた。
そりゃ炎天下に自転車を抱えて数十メートル猛ダッシュしたら死んでもおかしくないのだが、その時は暑さなんて吹っ飛んでしまうくらい気が動転していた。
座りながらだんだん冷静になってきて、泣きそうな気持ちなった時、自分が帽子を被っていないことに気がついた。
恐らくあの時、カラスの襲撃に驚いて自転車から落ちた時に脱げて落としてしまったのだろう。
流石にもう一度カラス集団に挑む気にはなれなかった。
しかし、買ったばかりのかわいい、お気に入りの、かわいすぎる、おろしたての帽子。
とてもじゃないがカラスにくれてやるには惜しい。
何としても取り戻したい。
ひとまず家に戻って親に相談しなくては。
自転車に乗る元気がなかったので、押して歩きながらとぼとぼ帰宅した。

家に帰った時、私が半べそをかきながら玄関先でことの経緯を話した時、母親はお腹を抱えて笑い死にそうになっていた。
父親に車を出してもらって帽子を救出する作戦が立てられたが、父親がお昼寝から起きるまで待たなければならなかった。
出発するまで、帽子が気がかりで仕方なかった。
少しして、車で旧お宝マーケット通りに向かった。
家からほんの数分のところである。
家からこんな数分のところで、ウキウキで出かけて、なんならちょっと鼻歌まで歌っちゃって、一気に恐怖のどん底へ、天から地へ、自転車からアスファルトへ叩き落とされたのだ。
情けないやら悲しいやらで、また気が動転して後部座席でひっくり返りそうだった。
例の場所に到着して、帽子がまだそこに落ちているのを確認した。
奴らは電線の上に居座り、車に向かって鳴き声を上げていた。
地面に落ちた帽子をそのままにしているところから見て、私の帽子に嫉妬して強奪するのが目的ではないようだ。
旧お宝マーケット通りに入るもの全てを敵と見做し、頭を狙って潰すことでこの通りを守護しているのだろうか。
十数年この街で暮らしていたがこの通りがそんな物騒で厳かな場所だったなんて初耳だ。
私はお宝マーケットで遊戯王のスターターデッキを売却して、そのお金で駄菓子を買ったこともあるんだぞ。
少なくとも、地の利は私にあるはずだ。
こんなぽっと出の何処の馬の骨ともしれないカラスに帽子を取られて、地元民として黙っているわけにはいかない。
さっきは突然の出来事だったから対処ができなかっただけだ。
今度は大丈夫。
絶対に勝てる。
私は後部座席から飛び出した。
カラスたちはすぐさま電線から飛び立ち、いっそう激しく鳴く。
しかし、今度の私は一味違う。
家から秘密兵器・ヘルメットを持ち出して装着してきたのだ。
これで頭を蹴られようがつつかれようが痛くも痒くも無い。
一瞬で帽子を拾い、一瞬で車に戻り、一瞬で父親が車を発射させる。
一片の無駄もない、なんと鮮やかな救出劇。
これぞまさに完全勝利である。
私は取り戻した帽子を抱きしめながら、遠のいていくカラスたちの鳴き声を聞いて、ようやく心の平穏が戻ってきたことを実感したのだった。

この事件以来、変わったことが二つある。
一つは、サイクリングよりドライブのほうが好きになったことである。
自転車より車のほうが圧倒的に防御力も機動力も優れていると身をもって知ったからだ。
もう一つの変化は、カラスを含む鳥全般が苦手になったことである。
近くに鳥がいるだけでびくびくしてしまって、歩いている時に足もとからいきなり飛び立ったろすると、あからさまにびっくりしてしまう。
その私の驚き様に、近くにいた人がびっくりする、という誰も幸せにならない負の連鎖が生まれつつある。
このトラウマを克服するために積極的に鶏肉を食べるようにしているが、唐揚げが好物になっただけで改善は見られなかった。
今後もリハビリのために鶏料理を食べたいと思う。



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