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一筆言 - 8/xx/2022

8月に入った。
いよいよ今年も残り4ヶ月というところまで来ている。という事に段々と人々が気づき始め、特にもう何かを取り戻せやしないのだけど、どういうわけかそわそわするような頃合いだ

僕は2ヶ月に1度の頻度で散髪に行くから、あと2回髪を切ったすぐ後で年を越してしまうと考えると余計に短く感じる。

自分の好きな季節の真っ只中にいると、特にやりたい事や好きな事が溢れて未だに胸が高鳴るし、その分時間の流れも、鷲に追われる際の野兎くらいぶっ飛んで過ぎていく。

年々、悍しいほど悪化していく日本の夏だけれど、それでも僕にとって最も愛する季節に変わりはない。

この前も、転職面接を受ける日の起き抜けにカーテンを開けたら見事に爽快な青天井が広がっていて、元々電車で向かう予定だったのを急遽変更し、自宅から20kmほどの距離を自転車で向かう事に決めた。
こういう突拍子もない、直情的な動機に抗わずに従うと大抵のことは上手くいくから不思議だ。

川沿いを15kmほど走れる道を選んで風を切って進む間、もう面接とか本当にどうでもよくなってしまっていて、そのまま北上して東北まで行ってしまいたかったのだけれど、それはまあいつか晴れて世捨て人になった日の楽しみにでも取っておこうと決め、やむなく面接へ向かった。

霧吹きで水を吹き掛けられたのではないか、というくらい顔中から汗を滴らせて面接に挑んだのに何故かその場で受かってしまって、僕は職を得た。

何かが決まる時、僕の場合はいつもこんな感じだ。手の平を開けて待っていたら、そこに降ってきて収まる。
鳥の糞が積もることの方が多いけれど、たまにこうして恵まれた縁を数珠つなぎにする事で僕は延命を図ってこれたのである。

まれに見る無名社製の自販機で、これまた無名ブランドのスポーツドリンクを買い、帰り道に備えた。

実は家を出る直前、祖母の訃報を知らされており、面接に向かうために通った川沿いを北上すれば祖母が守った会社がある場所へ着く事が分かったので、真っ直ぐ帰らず、そこらでしばし沈潜しようと思った。

ところが帰り道は行きと打って変わり、向かい風が壁となって迫ってきたではないか。
クロスバイクを立ち漕ぎで進めば時速25kmほどは簡単に出せるのだが、この時はせいぜいその半分ほどのスピードしか出せなかった。
それでも10kmほど進んだが、依然として風向きが変わらない。疲れもあって、ジョギングをしている人たちをやっとこさ追い抜ける
速さにまで減じていたが、当然ペダルを漕ぐ以外の選択肢があるわけもなく、無心で脚を動かした。

目的地まで残すところ数kmというところで太腿に乳酸が溜まり切ってしまい、ペダルを漕ごうものならすぐさまつりかける状態に陥ったため、ストレッチを挟みつつ、自転車を押しながら歩いて向かう事に決めた。昨年の夏、買いたてのクロスバイクで特に練習もせず片道80kmのロングライドを成し遂げたとは思えない軟弱な足腰が情けなく笑っていた。

見慣れない景色から、段々と懐かしい景色へと移ろってゆく。
もうかなり近くまで来ているはずだが、マップを見てもそこにあるはずの物が建っていない。

ぽつりと空き地になった場所に、近隣の会社が所有するトラックが駐まっている。敷地面積でいえば、祖母の会社とほぼ同じくらいの広さのようだ。
そうか、もう解体されていたのか。

それ自体は大した問題ではなかった。目を瞑れば、何百回と訪れたその建物を細部に至るまで忠実に想像出来たし、祖母は間違いなく最後にここへ寄っただろうから、彼女が何千回と眺めたであろう景色を写真に残しておければ十分だ。

自転車をゆっくりと横に倒して、僕もその隣に腰を下ろした。
川沿いの球場では野球少年達が練習に精を出していて。
本当に、何十年も変わらない景色だ。「オーイ」とも「ヨーイ」とも聞こえる野球少年達の掛け声が、僕の意識を遠くまで引き延ばしていった。

三塁手の野球少年が変則的なショートバウンドを華麗にキャッチしたのに、焦って投球しようとしたためか、ポロりとボールを落とすのが見えた。

母が僕に祖母の訃報を告げた時、彼女がこぼすように呟いた「寂しいね」が突然降ってきて、頭の中で跳ね出したけれど、僕はもうそれを捕まえられそうになかった。


Written by 成

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