縁について

薄暮 -玉-

ベランダで風に当たりながら、吸い終えた煙草を捨てようと携帯灰皿を取り出したところ、僕のに混じって見慣れない煙草が一本ひしゃげて入っていた。これはあの日の、あの人の煙草だ。僕は暫しの間、シケモクの嫌な匂いも構わず灰皿を見つめてしまった。


日本三大奇景の一つに、妙義山という山がある。

その日、別の用で群馬の安中に宿を取っていた私は、岩山に木々がぽつぽつと繁ると云う不思議な景勝地、すなわち妙義山がこの温泉宿から近いことを知って、明朝から向かうことに決めた。

「私が車で送って行きましょうか?」

僕の予定を聞いて、親切にもそう切り出してくれたのが、Sさんである。

Sさんとは、先程この離れの喫煙処で出会い、夜闇に照らされた風流なる宿の外観と、久々の雪を積もらせた身も震える寒さとに背中を押され、どちらからともなく話し始めた。お互いの素性も明かさず、尋ねず、何故この土地に来たのかという話から、今までどのような土地を訪ねたのかという話をした。

齢四十を越えている彼は、留学したスコットランドの大学にはキャンパス内に湖があったとか、チェンナイの草原に並ぶ孤児院で歌と踊りで以って交流をしたとか、僕の知見範囲の常に少し外側を歩くような話ばかりを繰り出したため、宿着の隙間風で脛毛が凍るのも忘れて、我々はお互いに何度も煙草に火を点けた。

「肺を悪くしていたが、最近になってまた煙草を吸うようになった」と仰るので、動機より何より先に「再開したした時に吸った煙草は、買ってきたんですか」と訊くと、「海外で買った煙草がまだ取ってあったんですよ」と返ってきた。

「ああ、海外の煙草って、なぜ吸い切らず取っておいてしまうんですかね」

何気ない相槌に真っ当な答が返される道理もなく、ひとしきり盛り上がった我々はそれぞれの部屋に戻ることになり、一期一会の余韻と、僕はこの海外の煙草が醸す情緒の香りにしばらくは酔った。

ところがその後、また喫煙所で偶然顔を合わせてしまい、これは何かの風だと、もう吹かれてしまった方が良いという感覚になって、さらに話し込んだ。

Sさんは「そこで調べてみたんですよ」と試してガッテンみたいな理知的な口癖を持つ人で、バーベキュー検定を受けたとかコストコのトイレットペーパーは割高だとか、やがてもう宿の人が入ってきて、喫煙所を閉めると言われるまで放談は続いた。

「私が車で送って行きましょうか?」

翌朝、また喫煙所で沢木耕太郎の話で盛り上がった後、そう言われて、本当に紳士な方だと思った。何しろ電車の便が悪いので、お世話になることにした。

かつて江戸と京都を結んだ中山道のうち、現在の高崎市から軽井沢へ向かう道すがら、左手に聳えるようにして現れるのが、妙義山である。

雪化粧の妙義山には、予め写真で見ていたような岩山と繁葉のコントラストは無かったが、雪が剥がれて覗く岩肌と、葉を一つ残らず落とした木々が神経のように生える様子は、まるで別の異様さを放っていた。

水墨画に、あえて水分を絞った筆先を紙に押し擦ることで、岩山の質感を表現する技法があるが、これを発明した人は、この雪化粧の岩山を描こうとしたのではないかと邪推するほどの壮大さ、力強さである。

「気になったら車を停める、これが僕の旅の原則です」

車窓からやたらに写真を撮る僕を見かねた紳士が、気さくな様子でそう話した。コンビニの駐車場に降り、味気ない白いフェンスの向こうに妙義山を眺めながら、また煙草を吹かす。どうして旅先となると、こうも過剰に煙草を吸ってしまうのだろうと苦笑しながら、僕が持参の携帯灰皿をSさんに差し出した時、不思議なことにSさんの手からは既に煙草が消えていた。

その後、目が乾くまで妙義山を眺めた僕等は、もう堪能しきったということで、近くの眼鏡橋を見に行っては歴史的建築の遺構に見惚れ、氷の張ったダムを見に行っては初めて直に見る氷面に感動した。特にダムの方では、Sさんが雪玉をこさえて投げ始め、「野球をやっていた」と聞いたら黙っていられない僕も雪投げに勤しんだ。見知らぬ大人と本気で遊ぶ時間は楽しく、僕は興奮していた。

ダムから帰るときのことだ。

例によって煙草を吸い終わった僕は、少し勘を働かせて、Sさんが煙草を消す前に携帯灰皿を差し出した。しかし少しタイミングが遅れたようで、彼はもう既に煙草を残雪に押し当て消火しているところだった。

あ、と見つめ合う両者の間に立ち昇る気まずい空気。その空気膜を突き破るように、僕は思い切り携帯灰皿を持った手を突き出す。すると彼は突然に目を煌めかせながら、

「捨ててない」

不敵な笑みを浮かべながらそう言ったのである。

「僕は今、煙草を置いたんです」

面食らう僕から視線を離さないまま、微笑む紳士は右手で雪を掬い、それを吸い殻の上に覆い被せた。でんでんに見えた。

園子温映画の、でんでんに見えた。

そこからの車内は、並並ならぬ緊張感を常に伴った。僕はポイ捨てを注意することもできなければ、目の前で雪を掘り返して煙草を然るべき場所に仕舞うこともできなかった不甲斐なさと、信頼していた人の「煙草を置いた」という言葉を聞いてしまった衝撃とに、代わる代わる襲われた。

緊張感があるのに、朗らかに話し続けるでんでんを横に、僕は意に反して朗らかに振る舞った。だから横川駅前の有名な釜飯屋で昼食をとった。

この店の釜飯は、釜を象った陶器に盛られ、食後はその器を持って帰ることができるとでんでんが教えてくれた。釜はそこそこ重く、家に戻るまで洗えないので迷ったが、僕はそれを何となく持って帰ることにした。

車内に戻り、「さて、この後はどうしましょう? 私は空いていますが、もちろん気兼ねなく、ご遠慮なく」と尋ねられたとき、食後の血流が脳に巡るのを感じながら僕は、もう帰った方がいいと思っていた。しかし共に過ごした、たったの一日が想像以上に後ろ髪を引き、返事に迷っていたところ、でんでんが呟いた。

「高崎の、僕の家に来ますか?」

これから「冷たい熱帯魚」みたいになる可能性がある。もうそれは殆ど確定的だった。

それでも何故か僕は家にお邪魔する理由を探してしまった。Sさんは煙草を置いただけではないか、それ以外は楽しい時間を過ごしたではないか、どうせ東京に戻るのだからちょうどいいではないか。自己洗脳とも取れるポジティブ・シンキングにより、僕は家にお邪魔することを決め、Sさんがエンジンを掛けた。

煙草を携帯灰皿に捨てて欲しい。何故こんなにも卑近な、くだらない、簡単なお願いを、僕は彼に伝えることができないのだろう。急速に仲を深めた程度では、まだ触れることのできないようなデリケートゾーンだろうか。否、そんな筈は無い。せめてこの旅程が終わるまでに、一度は確りと伝えよう。そう心に決め、そもそも生きて帰れるのか不安になった。

夕焼け空の中山道を高崎方面へ、疲れもあってか旅行談義も鳴りを潜め、それでもSさんは無言で車を走らせ続けた。

高崎の閑静な住宅街に入り、いよいよ目的地の一軒家に到着した。僕はまず近隣の住宅に悲鳴が届くのか裏声を出しながら確認しつつ、玄関に通してもらい下駄箱を覗いた。可愛いチェックのスリッパが並んでいて少し安心したが、もう一度気を引き締めて部屋に上がる。

警戒を解かぬまま念入りに部屋を見渡したが、特に鎖鎌や出刃包丁が隠されている様子もなく、結果から言えば、Sさんはでんでんではなかった。

だいぶん非礼を働いたことを内心猛省しつつ、お茶をいただいて一頻り話し、それでもやはり人の家にお邪魔しているのが落ち着かず、早々に家を出て駅まで向かうことになった。

解けたばかりの緊張感は精神力であやせる程の代物ではなく、一本吸わせてくださいと頼んだ。そんな僕の気も知らずにSさんも玄関の外まで出て来て煙草に火を点ける。昨晩の出会いを思い出しながら、じりじりと灰化してゆく煙草を見つめた。

そうだ、携帯灰皿。僕は先ほどの決意を再度奮い立たせ、Sさんの奥に浮かぶでんでんに向かって訴えた。

「これ、使ってください」

そう言い終わらないうちに、「ああどうもどうも!」とSさんは頷きながら、携帯灰皿にちょんちょんと灰を落とした。そうしてその煙草を初めて僕の携帯灰皿に捨て入れるまで、彼の自宅の庭に、Sさんは自分の灰を落とすことはなかった。

彼が僕の問題意識に勘付いたのか、自宅の庭を汚したくなかっただけなのかは、分からないままだ。

Sさんも随分と楽しく思っていてはくれたようで、連絡先を交換して、その日のうちに丁寧な挨拶のメッセージが届いた。また、どこかに行きましょうとのことだった。

次会うときは、そしてまた一緒に煙草を吸うことがあれば、彼に携帯灰皿を渡そうと、そんな小さな取り決めを改めて自分に設けた。


ベランダの戸を閉め、フルになった携帯灰皿の中身をキッチンのゴミ箱に放り、食器棚にふと目をやると、釜飯屋の器が置いてある。何となくあの日持って帰ったその器を見ては、僕はこのことを何度も思い出すだろう。そして、次会う時にこの話を赤裸々に伝えようと、Sさんへの感謝と共に何度も思い直すのである。

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夜半 -成-

「縁切榎」

それは僕の地元に有る神木で、初代では樹齢数百年の大木が旧中山道を覆うように伸びていたらしい。
三代目になる現在の姿はこじんまりとはしているが、江戸時代から続くちょっとした観光名所であることに変わりはない。

皇女和宮が降嫁の際、縁起が悪いからと、この場所を迂回したという逸話が最も有名だが、古くから大衆の間では「良い縁を結び、悪い縁を断ち切れる」礼拝対象であった。

現代の地元民を代表して言うならば、「縁切」という直接的な不穏な響きから、親しみ難い印象が幼少期からずっとあるし、近い筋からその場へ好んで立ち寄ったなんて話は聞いたことがない。

それどころか子供の頃には同級生間で、この縁切榎にまつわる噂か本当かもよく分からない話が度々飛び交っていた。
夜遅くに白装束を着た女が丑の刻参りをしていたとか、設置されているお手洗いに露出狂が住み着いている、とかそんな話だ。

よくよく考えれば、この縁切榎から50mも離れていない場所に交番があるのだから、そんな不届き者達が実際に現れていたとしても、ものの10分で御用になっていたはずだ。

子供の想像力に限りはない。コラッタを飼っていると吹聴する友人に1日中騙され、あっちこっちへ連れ回された挙句、人を小馬鹿にする際に流行っていた「ピョーン!!!」という謎オノマトペで小馬鹿にされた時には顔を真っ赤にしてそいつをタコ殴りにした。あ、なんだこれ、今書いてても少しムカつくな。

はて。30年という短い生涯で、神体に乞い願うほど、切りたくても切れない縁が今まであっただろうか。

いわゆる「合わない人」には当然生きていれば避ける術などなく出会うものだ。
だが、職場なら職場という関係を担保する状況や環境が解消されれば大概は丸く収まるし、僕はあまり人を嫌いになるという事にそもそも向いていない。当然、たまには嫌いになろうとするし、愚痴も人並み程度に漏らしてきた過去すらあれど、その感情が長続きしない。また途方に暮れるだけだと分かっていても、どうにか平和的な関係を結べないかと思案する。勘違いしないで欲しい。これは僕がお人好しなのではなく、ただの独り善がりなのだ。皆んなが腰を据えて話し合えばきっと分かり合えるというある種の究極な世界線からいつまでも逃れられずにいる、ピーターパンの戯言だ。

それにしても、縁とはつくづく不思議なものだ。

人生という時間を考えれば、たった一瞬のみを共にした人間との経験が、強烈な印象を伴って記憶に残り続けることがある。

または反対に、取るに足らない出来事から繋がった関係が数年、数十年と続いてゆく事すらもあるのだから。

18歳の時、とあるインターネットサービスにどハマりした。
そこではランダムに世界中の外国人と接続され、チャットかビデオ通話を選択すればすぐにコミュニケーションが取れるサービスだ。
今でこそありふれた技術もといプロダクトだからいまいちピンとこないかもしれないが、飛行機に乗ったことすらなかった僕にとって、たったのワンクリックで国境を跨げるという経験にこれでもかというほど痺れた。

なおかつユーザー層は玉石混淆で、レイシストなんて当たり前に居たし、下腹部をさらけ出してるHENTAIも多かったが、一日中やってれば必ず日本に興味を持っている人たちにも出会った。人種の坩堝を思わぬ形で、しかも今よりも多感な時期に体験出来た事が今の自己形成に寄与している部分は大きい。
留学が出来るほどの知恵も努力も蓄えていなかった自分にとって、突如として窮余の策が降ってきたような出来事だった。
自分の人種、日本、アイデンティティを初めて外側から俯瞰した。音を立てて空気が抜ける風船のように自己という存在が縮んでいくのを感じつつ、反対に膨張していく外側の世界をそれ以降は冒険してみたくなったし、そういう歩み方をしてきたと思う。

そのランダムチャット上で出会った一人のイタリア人とは今でも友好的な関係が続いている。
18歳で出会い、僕は今30歳だから、ちょうど12年の付き合いになる。特別な関係というほどでは決してない。最後に時間を取って会話らしい会話を交わしたのは覚えていないほど前のことだ。それでも関係が途切れないのは、互いにふとしたタイミングで調子を尋ねるからだと思う。片方がSNSに写真を投稿した時、通知で誕生日だと分かった時、など。無論、全ての人に同じ振る舞いをするわけではないから、僕は彼が好きだし、彼も僕を好いているということが大前提なのだけど。

彼は持病を患っていて、以前「もしかしたらこれが最後の会話になるかもしれない」と告げられた時は全力で彼を励ますより他の良い手が浮かばなかったが、結局大手術を生き延び、彼は夢に向かって今も情熱的に生を謳歌している。

なるべく早く彼に会いに行かねばという思いと、もしかしたら会わずにこのままの方が良いのかもしれないという狭間でずっと立ち往生しているのが何とも自分らしいが、結局彼からの連絡が途絶え、後から彼の死を知るより後悔することはないだろうと思うから、世界が今より少し平穏に傾いた後で彼を尋ねてみるつもりだ。

また、全く異なる顛末から芽吹いた縁の先で出会った中国人の友達と、先日6年ぶりの再会を果たした。彼はQさんという。
大学時代のバイト先で先輩にあたるQさんと僕は、実は当初軽くいがみ合っていたが、前述した僕の独り善がりがこの時はたまたま功を成し、中国料理の話でやや盛り上がった後で和解へと至った。

それから間もなくしてQさんが手作りの馳走でもてなしてくれるというから、僕は同期入社の友人を誘い、彼の家を尋ねることになったのだ。
Qさんは僕らと同様に大学生だったというのに、ローンを組んで既に団地の一室を購入していた。
その逞しい独立心が仕事における揺るぎない責任感をも育んだのだろう。職場で彼以上に勤勉な者などいるはずもなかった。

彼の住処に着いて扉を開けた時、はるか昔に置いてきたような懐かしさが香った。団地は見た目の異質感とは裏腹に、間取りは広く、とても住みやすい設計になっている。猛暑の折、団地に住む友達の家に飛び込んでそのままキンキンに冷えた素麺をご馳走になった思い出が、先刻の懐かしさを追いかけるように通り過ぎた。

祖国に住んでいるシェフの母から受け継いだという手料理は、日本人向けに考慮などされてるはずもなく、いやむしろこちらとしてはそれを待ってたんです的な本場の味付けで言わずもがな絶品だった。コース料理に負けじ劣らずな質と量に圧倒されつつも、僕と友人は次から次へと出てくる料理に終始舌鼓を打っては唸った。中国人でも食べないという唐辛子までチューチューと吸い始めた時には、さすがのQさんも困っていた。

そんな彼から突然Instagramでフォローされ、すかさず僕の方からもメッセージを送り、あとはもう疾風迅雷のごとく再会が実現する事になったので、先に書いた元同期仲間の友人も誘った。

この会っていなかった6年で僕も色んな出来事を経たように、Qさんの生活にも変化が見えた。少し高級そうな猫を2匹飼い、同棲している彼女まで出来ていた。あの無骨の代名詞、山から20年経ってようやく街へ降りてきたような風貌を備える彼の側に、知的かつ上品、それでいてにこにこと人当たりの良い素敵な女性が立っている。

出てくる料理の味は角が取れ、心なしか優しくなっていた。
彼が彼女の腰のあたりにそっと手を置くのを見る度、気持ちが入り混じる。

もう少し暖かくなったら釣りに行こうと約束を交わし、Qさんに団地前の大通りまで見送られながら名残惜しくもその場を後にした。

家へと戻る道すがら、今までの奇妙な出会いを思い出せる限り反芻し、どうしても名前を思い出せないあいつの事をしばらく考えたりした。

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東雲 -流-

昨日、南相馬のサービスエリアで食べた浪江焼きそばが思ったより美味かった。ソースの素朴な味付けと太麺が相性が良い。

あぁ、こういうの最近食ってなかったなと思わされた。

麺はほとんどが炭水化物で、それが消化酵素によってブドウ糖に変わり、6時間もあれば完全に体内に吸収される。浪江焼きそばは、僕の一部となった。

食事に気を遣うという行為はとても本質的な行為だ。僕たちは所詮、自然の一部でしかない。そして、一番身近な自然は自分たちの身体だ。
大きな循環の中にいるのだとしたら、自分の身体を大切にすることは世界を大切に扱うことの立派な一歩といえるだろう。その最たる行為が、体内に入れるものに気を使うことだと思う。

食べたものは身体の一部になり、その栄養素によって僕たちは生き長らえ、健康を保ち、活動することができる。そして健康と生存に問題がない人の余裕は周りの人に向かって流れる。


食べたものは自分の一部になるなんて小学生だってわかる。一言で済むような当たり前を冗長に書いて恥ずかしい限りだ。だけど、実践するのはとても難しい。僕はそんな当たり前を蔑ろにしてしまっていた時期があるし、今もたまにそうだ。

人との出会いも食事と同じだと思っている。
だから、誰かに出会ってしまったらその人に出会う前の自分には二度と戻れない。
出会ってしまった後、その出会いはもう自分の一部だからだ。
出会う前と出会った後のどちらが良いかなんてことは知らない。
でも、その前と後では明らかに「違う」ということ。
その出会いによって人生が大きく変化したかや、認識できる範囲で何かが変わったかは関係がない。食べてしまった浪江焼きそばが、実感はなくても僕の一部になったのと同じように。


独りでずっと生きてない限り、ひとりの人の人生は、他人の人生の断片の寄せ集めだ。僕の人生も例外ではなく、たくさんの他人の人生の断片で彩られている。反対に僕の人生は、僕と出会った人たちの人生の断片になってきただろう。

時々、真剣に怒ってくれた小学校の担任を思い出す。土日を返上してバスケを教えてくれたコーチも、初恋の人も、旅の途中で出会った異国の人々も、腐れ縁の友人たちも思い出す。
彼らの人生の断片で自分の人生は構成されている。
一言も言葉を交わさずに重要な断片になった人だっている。

もちろんその断片たちは、いいものばかりではない。
僕の荷物を強盗した青年ふたり。パスポートとマックブックと財布が入っていた。その後の僕は背後に近づく人を基本的に疑うようになってしまった。旅先ならあって然るべき意識ではあるけれど。何はともあれ、それでも彼らが僕の人生の断片であり、一部であることに変わりはない。

そしてこの考えがひっくり返るくらいの悪に僕は幸い未だ出会っていない。
多分、この先も会うことはないだろうとも思っている。

嬉しかったのは、盗られたからといって怒りに震え、その土地を嫌いになったりせず、どんな環境や心境で彼らがそんなことをしたかをあれこれ想像する余裕が自分にあったことだ。

喜びも悲しみも気まずさも後悔も出会うから起きる。全部抱きしめて生きるしかない。事実ではあるけど、本当の悪に出会っていない人間の綺麗事だろうか。本当の悪ってあるんだろうか。

なにかと暗くなるニュースも多い。
自分の殻に閉じこもってしまって、情報をできるだけ遮断してなるべく人と関わることを避ければ楽だろう。
それでも自分を世界に対してひらくように促してくれるものがある。
それが人生を彩ってくれた他人のいい断片たちだ。
だから、八方美人になる気はないけど、できるだけ自分の人生が他人のいい断片になれるように日々を生きたいと思う。

さて、まずは今日、身体にいいものを食って帰ろう。



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