パーテーションのむこう

薄暮 -成-


先日、旧友から唐突に電話をもらった。
彼とは小学校4年生からの付き合いになるから、20年来の間柄ということだ。(以下、Rとする)

R自身は決して認めはしないが、もう長いことアルコール依存症の気がある。
加えて年々酒に弱くなっていくのと反比例するよう、酒癖の悪さが倍増している。

Rは酔っている事がはっきりと分かる様子で話し始めた。
支離滅裂なのはいつも通りで、突然に隠語を大声で叫んだり、自分のイチモツがいかに大きいかを嬉々として話す。

居酒屋で飲んでいると言うから、周りに大勢他のお客さんもいるのだろう。
どこで誰といようがお構いなしのRに、かつては理解者であった地元の連中はとうに呆れ果ててしまって、誰も彼と飲みたがらなくなってしまった。

これだけを読めば狂人なのだが、酒が入っている時だけこうなのだ。勤め先ではトップセールスを叩き出す営業マンで、少なく見積もっても僕の100倍は優しい心を持っている。

20分ほど話を聞いていたのだが、身を固めていった馴染みの連中を妬んだ調子で「俺とお前だけ、クズだけが残ってるよなー!!」と終いには巻き込み事故を食い、さすがにもう聞いていられず、「またね。ごめんね。」とだけ言って電話を切った。

それから家に帰って味噌汁を作る間、Rが僕の心に残した郷愁に浸りつつ、この侘しさを溶かすには、どうやらそれなりに時間が必要そうだと思った。

Rの苦しみは、もはや現代人の苦しみと言い換えても大袈裟ではないのかもしれない。

かつては肩を組んで喜びも悲しみも分かち合った相手とすら、社会的地位で優劣を競う。いや、慣習的に競わされている。

すると一人の人間の価値すらも、外部のモノ・コトでしか表象出来なくなってしまう。

例えば「貧困は人格の欠如によって起こるかどうか」について直感的にYES or NOで答えてみて欲しい。

恐らくYESと答えた人も多いと思うが、ここにも認知の歪みは発生している。物神崇拝によって起こる齟齬と言い換えても良い。

歴史家のルトガー・ブレグマンがTEDに登壇した時の動画を観た事がない人は、是非ともYoutubeでご覧になっていただきたい。
貧困が起こるメカニズムだけでなく、ベーシックインカムのアイデアが実は500年以上も前に発見されていた驚きの史実を引っ提げて、貧困は根絶出来るという前向きな立場からの大変著名な名演説である。

演説のタイトルは、「貧困は人格の欠乏ではなく、金銭の欠乏である」だ。先ほどの問いに対する答えでもある。

人の本質的な価値は、揺るぎようがない。例え貧乏でも。例え輝かしい功績を人生に残せなかったとしても、だ。

僕よりも若い世代に向けて言いたいが、あなたが大人だと考えている僕らは、意外と大した事などない。

僕に限って言えば、分かっていないのに分かっているフリをしてしまう事があり、やった後に必ず後悔したりもする。

大人同士の会話では、「なぜ?」という本質的な問いをおざなりにした瞬発力が求められる事も多く、テンポを乱さないために分かってるフリをしてしまう癖が付いてしまった。

と、即座に言い訳もこうしてつらつら書いたりもしている。往生際が悪い。かっこ悪い。

またはRのよう、人に付帯する物象によって人の価値を断定してしまったりもする。

僕を含めたこんな大人たちも、国作りに関わる一票を握っている。政治にもあまりあかるくない。今回の衆議院選挙も情けなさでいっぱいになった。

今の若い人たちが、「あなたたち一人一人には社会を変える力がある」と言われてもピンとこないとすれば、リード出来ていない僕らのせいだ。

とかく分かりにくいモノをそれぞれが分かったフリをしている今の悪循環を脱したい。

果たして家の中ですら誰が誰に投票をしたのか明確でないのは僕の家のマイナールールなのだろうか?

反対にどこの家でもありふれた現象なのだとすれば、日本の匿名性、「無知」を腐すマウンティング文化、はびこるネットトロールなど我々の否定的な側面が、消極的な民主主義を構築してきた可能性がある。

まずは「政治」を「幸せな社会作り」と言い替えてみる。
今後、とりあえずは信頼の置ける友人とカジュアルに話し合うことから僕は始めたい。

偉い人でなくていい。結果を出してなくてもいい。

それでも優しさを失わず、誰に対しても平等に接する事が出来る。

人の痛みを分かり、必要な時には助けを出す事が出来る。自分の好きを知っていて、世界の美しさを忘れない。

人の価値を断定せず、柔軟な心で受け入れる。分からないことを恐れず、勇しく新しいを知る。

そんな当たり前の事で、人は尊重されるべきだと思うから。

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夜半 -流-


最近、印象的だったあるシーンについて書きながら整理したい。

その人とは、一ヶ月ほど前に親しい友人を介して知り合った。三人でご飯を食べながら、経歴や仕事、興味について話した。

長年ひとつのスポーツを続けてきて、修士号も海外で取得しているという。体育会系の強さと同時に、座学にもきちんと向き合ってきたことが分かる。それでいて人間味を感じる素敵な女性である。


先日、再会してふたりだけで対話する機会があった。前回の互いの社会的な立ち位置を確認する内容とは違って、今回は互いの価値観や認識に関わる部分に触れた。

珈琲を淹れていた私に、彼女が聞く。

「これからのビジョンとか、どうしていこうっていうのはあるの?」

「あまりないね。導かれるままっていう感覚かな。」

「そう。前回は初対面だったし、あまり突っ込んだ話は避けたけど、あの時も今も、なんかこう、流くんの中にネガティブな何かをすごく感じて。それによってこの人は突き動かされてるんだろうなって、そんな感じがしてたの」

「へ〜!」

「私、そういう人を見るとすごく反応するし、そんなんちゃうで!って言いたくなるし、いつでも私おるからってなっちゃうんよね。」

「うんうん」

「そうなった理由は、聞かないし、言わんでいいけど。」

「え。全然聞いてくれて良いよ。何でも話すタイプやけん」

「いや大丈夫。どこまで深く考えられてるかは知らんけど、他の考えていない人と違って、流れくんは考えてる人って分かる。私もひとりで考え抜いて、突き抜けたから。考えてない人たちに、何を言われてももうブレへんし、流くんも早くそうなって欲しい。周りと違って特別なんやから。すごい楽やで。」

「なるほど」

「私も昔、親に愛情をもらってないと感じていたこともあるし、必要とされてないんじゃないか。特別じゃないんか。って思ったこともある。多分、流くんにも心当たりがあると思うねんけど。言わんでも、感じるねん」

「ほ〜。それで?」

「でも、今はそういう部分に向き合って乗り越えたから。逆にそういう人を見ると気になっちゃう。ほんま私、そう言う人ばっか気になっちゃうねん。元彼たちもそういう人ばっか。だけど、そう言う人と一緒になるとホンマに自分が疲れちゃうから、もうやめようと思って。やっと今の彼氏は、何も考えてない人。xxxみたいに笑。(紹介してくれた友人の名前)ほんま、楽。」


私は、居心地の悪さを感じたら、それは成長の機会かもしれないと思うことにしている。だから、自分の意見を差し込まず、ただ受け入れて話を聞いてみたが、どうにもこうにも強烈な違和感があった。同時に、人生においてあまり無いシュチュエーションだったので、興味深くもあった。


ひととおり聞き終えたあとで、いちおう親や周りの人には十分すぎるくらい愛されてきたこと、もし自分の中にネガティブが見えるのなら、個人史の中にある負の記憶ではなく、知れば知るほど見えてくるある種の絶望のことかも知れないということだけ手短に伝えた。また、誤解のないようにその絶望は自分と大衆を分けて断罪するような種類の絶望ではなく、自分を含めたこのヒト科の限界という意味での絶望だということを付け加えた。

「そう!それ!一回目も絶望って言ってて、この人は孤独なんやろうなって思ったし、ずっと気になってた。なんでそんな事言うんやろ?って。誰も信用したことがないんやろうな、できないやろうなって。そんな辛いことないやん?私がおるで。今はわからなくても5年後、10年後、必ずわかる時がくるから。孤独感を感じた時ふと思い出してくれたら嬉しいな」

「ははは。分かった。もしも頭に浮かぶようなことがあったら、連絡するよ」

「連絡はええわ。頭に浮かんだらそれで。よし、こういう会話って疲れるよな。今日は終わり!」

その対話は突然幕を閉じた。対話というよりは演説に近かったように思う。


私は、私たち一人ひとりはそんなに特別な存在ではないと思っている。代わりがいないという意味でいえば、間違いなくみんな特別な存在だと思う。しかしそこに、「他と比べて」という前置きがある場合、断固としてその考えを受け入れる訳にはいかなくなる。たとえ、そう思い込むことがその人の傷や弱さを埋めてくれる薬だとしても。

自分を特別な人間だとずっと勘違いしてきた少年を人の道に戻してくれたのは、自然災害だった。引き換えに、大きな虚無との闘いが始まった。のたうち回りながら、しかしそこに蓋をせず、目を逸らさず今もここにいるのは、個としての強さではなく、それまでの人生で託された目に見えない力あってのことだと感じている。

完全な自己投影の先に、彼女は私に何を見たのか。

人は鏡だとよく聞くけれど、私たちは対象をみているようで、それは自分自身に他ならない。

「それはお前だ。」

インドの古い諺である。

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東雲 -玉-


谷崎潤一郎の「懶惰の説」という随筆に、「東洋人はそもそも怠け者である」というようなことが書いてある。

日本人といえば勤勉そのものであり、クソのつくほど真面目であるように教え育てられた僕からすれば、到底信じられない仮説であったので、その根拠を求めて読み進めた。

どうやら按摩や鍼灸など、健康体であるための努力を他人任せで済ませようとする姿勢に、運動や医薬によって健康を目指す西洋文明との違いを見ている。加えて、用さえ済めばよいからと部屋やトイレ、路地などの清掃がほどほどである状態を見れば、西洋文明と比べて遥かにルーズだと云う。

確かに、日本でさえどこへ行っても駅前には中国式の整体、韓国やタイ式のマッサージ店をよく目にするし、少し足を伸ばしてアジア諸国を巡ってみれば、トイレをはじめとする生活空間がいかにラフであるかがよく分かる。

学生の時分インドに旅行しようと誘った友人から、有り余る糞尿をパーテーション代わりに練り固めたトイレや、人が虎に食われる直前の画像を執拗に送りつけられて断念したこともある。

しかしながら、それがラフであると感じる程度には、日本の街は東洋一清潔に思える。公衆便所や、適当な路地裏を覗いてみても、一見して思わず鼻に手の甲を当てるような光景はないはずである。

谷崎もそれを認めているが、「物臭太郎」のような物語が平気で存在している時点で、世界でも類を見ない怠け者社会であると指摘する。

確かにこの「物臭太郎」、貧乏人が出世すると云う設定は世界各地で見られるが、怠惰であることに愛嬌を持たせるような描写が多い点で、教訓めいた昔話としては珍しいように思える。

しかも、太郎が飯にありつけたのは、彼の怠惰な姿勢と物言いが地頭に大受けしたからだし、意中の娘と結ばれたのも、なぜかたまたま和歌の才能があって、その歌に向こうが惚れたからである。

ここまで読んだところで、僕は心のどこかで太郎の生き方に多少の魅力を感じていることに気づいた。正直かなり羨ましい。怠けていたくせに地味にユーキャンで獲得していたボールペンの才能を誰かに見初められて結ばれてみたい。婚姻届を出すときお得意の達筆ボールペンをお見舞いして喜ばれたい。

最近お会いしたキャリアウーマン・オブ・ジ・イヤーとでも言うべき女性も、誰もが恐れるパチンコ狂で、勝とうが負けようが球が飛んでいく様を見ながら煙草を吸っている時間が幸せだと言っていたし、宝くじ、玉の輿など、毎日ヘトヘトになるまで働く人々でさえ夢見、その勤勉さに不動の自信を持っているとは思えない。

では、この願望はどこから来るのか考えてみれば、少なくとも僕にとっては学校教育にあった。

「個性を伸ばす!」と教卓を30センチ定規でペンペン叩く担任を前に、僕らは自分が何者であるか考えざるを得なかった。本当は家でパワプロをやっている時間が一番楽しかったし、勉学に励みつつもそれに没頭し続けることへの違和感を常に抱えていたが、ペンペンはその桃源郷を切り裂いた。

僕は音楽と詩作を志してはいたものの、数々の先人に相談したところで返ってくるのは、その将来像に近い大学、専門学校、就職先。その先人たちの判断に今となっては感謝こそすれ、当時は決められたゴールに向かってどのような信念とフォームで辿り着くかの徒競走でしかなかった。

ゆとり教育最大の難点は、「ひとと自分を比べることで価値を測る」という点で詰め込み教育との違いが何もなかったことである。

これは僕もすでに飲み込まれている価値観で、自信を持とうにも視界に侵入してくる他者の喜びに凹んでしまうことも多い。必死に働きながら、「だからどうした」が常にチラつく。

みうらじゅんは、そういうとき「比較三原則」を唱えると云う。彼曰く、人が自身と較べる対象は「他人、過去の自分、親」の三つであるらしい。それはそうだ。この元も子もなさ、が僕は恋しい。

僕らはそもそも怠けたいのではないか、という疑念を財布に入れて持ち歩きたい。元も子もない世界だから、勤勉さによって自分を殺すくらいなら生半可な態度であることを平気で信仰の対象としてすがりたい。

思えば、日本国民が全員「だからどうした」と職を放棄して物臭太郎化したら、世紀の美しさを誇った公衆便所や路地裏はどうなるのだろう。おそらく日本に比べて発展途上だと見なされてきたアジア諸国と同じような風景になるのではないか。

となると、この「美しい国」を保っているのは国民としての誇りではなく、給与をもらっている清掃員の人たちである。

最近、ゴミの出し方に気を遣うようになった。コロナ禍に関するニュースで、収集車のおじさんが「あんまり汚いゴミ袋だと怖い」と言っていたからだ。かなりかわいい言い方だった。

いわゆる社会問題を他山の石として見過ごすつもりは毛頭ないが、そのことばかり考えていると怠け者の僕は息絶えてしまう。だからせめて、自分が原因となりうる小さな社会問題から取り組んでみる。

そういうことくらいなら、短い集中力で社会の役に立った気分になれる。これは僕なりの最大限の真面目な振る舞いである。


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