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オランダで学んで人生が激変

出生~高校生まで
私は北関東のゴリゴリの公務員家庭に生まれました。幼稚園は私立の寄付金でお遊戯会の役の優劣が決まるこの辺りでは有名なお受験幼稚園。卒園後は兄が受かったからと私も国立大附属の小学校を受験し、中学まで通い、高校はクラスの半分が通うからと迷うことなく地元では名の通った公立の女子進学校に通いました。親の口癖は「普通が1番」。一緒に育った兄は当然親の希望通り警察官に。私は「国立附属に入れておきながら普通ってなんだよ」と歯向かう、万年反抗期の娘として何不自由なく育ててもらいました(笑)。この「普通が1番」という親の考え方に常に疑問をもっていたおかげか、小さいころから自分の向き不向きをきちんと自分で理解し、なりたいものになる!と心の中で決めていた子供だったと思います。親の望み通りには育ちませんでしたが、この反抗心のおかげ?で自立心を育むことができたように感じているので、その点はとても親に感謝しています。

大学時代
理系科目が大の苦手だった私は、私立文系を選択。高校3年生の夏休みに都内のデパート巡りが大好きな母に連れられて買い物がてら都心にキャンパスがある大学を見学。マスコミに興味があったのと華やかな雰囲気のキャンパスに惹かれ、その業界に強い池袋にキャンパスがある大学の経済学部に進学しました。下宿はせず実家から新幹線で通学。1.2年生でできるだけ多く単位をとってしまおうと通学時間も有効活用しながら課題を仕上げて目標通り単位をゲット。その後はラジオ局のアルバイトに精を出していました。たくさんの個性的な大人の先輩方に大変かわいがってもらい、仕事や人生について教わりました。このアルバイトの経験が私の仕事観に大きな影響を与えたと思っています。パラダイスのようなバイト先に出会い、そのまま就職出来たらと思って相談したらあっけなく東京行って修行してこいと却下。ここから私の就職活動が始まります。
とは言っても、もうマスコミ以外行く気のない私。片っ端からキー局や制作会社に応募し、縁あってドラえもんの会社のグループ会社に内定をいただき就活終了。卒業までは最後の自由と理由をつけて、ヨーロッパを中心に友人と海外旅行三昧の日々を過ごしました。

悪夢のAD時代
待ちに待った内定式。これからは都内で会社員だ!と意気揚々と地元をあとにし出陣。希望通り制作部に配属され2か月研修の日々を過ごしました。学びが中心の研修が終わってその後は各先輩ディレクター、プロデューサーに期間限定でつき、各現場のノウハウを学びます。
このころはまだ22時には帰宅し、友人と会う時間もなんとか取れており、社会人1年目の苦楽を語り合うことができていたのですが、入社して3か月目くらいからかな?いわゆるテッペンをまわるのが当たり前な生活になり、午前様も当たり前。着替えをとりに帰ってまた出社するというのも珍しくなくなりました。
仕事の内容はいわゆるADの仕事。撮影したテープの管理やカンペの作成、お弁当や楽屋の手配といったこまごまとしたものが中心です。とはいえ、日中は撮影して帰社後PC仕事をするのでどうしても終業時間内には終わらない。というか終業時間なんてあってないようなものなので、23時から打ち合わせなんて当たり前だし、編集も1時からなんてスケジュールの組み方なのでそりゃ人間らしい生活なんてほど遠い。ぽっと空いた時間に先輩たちは髪を切りに行ったり映画を観たりとある意味自由なんだけど、家に帰れるわけではないから拘束されてるのには変わりないんですよね。私はそれがすごい嫌でした。
さらにパワハラ・セクハラもすごくて精神的にもきついんですよ。
女性の場合はセクハラに頭を悩ませることが多いんですけど、私も例外なく洗礼を受けました。「女を使って出世しろ」ってある先輩に言われたんですけど、その時私は寝不足で何言ってるんだ?って思いながら流したんですが、その後数年たって「あれってそういう意味か!(笑)」と気づいた次第です。思い返せばキリがないし、ここに書くのは規制が入りそうなので、あとはご想像にお任せします。でも今ジャニーズ問題など色々表ざたになってますが、あまり驚かないというのが正直なところですね。あ、もちろん私は体を使って仕事はしていないですし、セクハラの中心は言葉という点をご理解ください。
そんなこんなでこりゃ頑張っても残るのは壊れた体だと早々に見切りをつけ転職を決意。今度は思いっきりホワイトな環境で社会人生活謳歌するぞ!と第二新卒枠で転職活動を開始しました。

スーパーホワイトな監査法人に転職
1年目の反省をもとに転職活動を続けた結果、4大監査法人の人事部に転職することが決まりました。福利厚生は手厚く残業もほぼない夢のような職場です。同年代、同じような環境で育ってきた同僚たちにも恵まれ今までの負債を取り戻すかのようにアフター5まで充実させる日々を過ごしました。もともとADをしていたのもあり体力はあるほうだったので、大きな仕事も任せてもらい公私ともに順調でまさに思い描いた生活でした。ブランディングにもとても強い職場だったのでそれが今にとても活きています。
が、人間慣れって怖いんですよね。だんだんつまらなくなってきたんですよ。課長の仕事を見ていても、会計士さんに頭を下げながら自分では決めることができない仕事ばかり。確かに時短勤務は3時半と女性が働く職場としては恵まれすぎている環境だけど、バイト先はじめマスコミ時代に出会った人のような人生を背負って働いているような人は皆無。あれ?あれれ?と環境に疑問を抱くようになりました。
同僚には学生結婚をして私と同い年ながらすでに3人の子供がいる子もいて、彼女とよく話していたのは、人として「自立」して生きて行かないといけないということ。彼女は学生結婚という親に頼れない環境で子育てしてたのですが、それだけじゃなく会社からも自律していずれは食べられるようにしていかないとだよねとランチをしながら話していました。そんな彼女は後に転職し独立。いまやスタートアップ企業のCMOになっているのですが、私もそんな素晴らしい同僚に恵まれ自分でできることを模索する日々を過ごしていました。

花に出会う
そんななか大好きで憧れの先輩から彼女が通っているフラワーアレンジメント教室のクリスマスレッスンに誘ってもらったんですよ。私の母や祖母はガーデニングが趣味なので花には私も興味があったのですが、教室をさがすのが面倒でチャンスを逃していました。そんな中、素敵女子の通う教室なら間違いないと直感が働き参加。結論から申し上げるとその場で入会し、次の週から月4回通い先生が企画する次年度のオランダ花留学に申し込むという猪突猛進の行動力を発揮しました。これがやっぱり運命だったんですね。オランダに行くとオランダの先生は権威のあるヨーロッパ花業界では知らない人はいない超重鎮。彼が生み出すアレンジは魔法のように素晴らしく、一瞬で魅了されました。その後毎年夏に有休を使い果たして1か月オランダに渡るということを繰り返し花のマスターディプロマを取得。コーチングも習得し結婚を機にフリーランスとなり独立します。なぜこんなに花とコーチングにハマったか。一言でいうとオランダがものすごく居心地がよかったんですね。コーチングを学べばわかるんですけど、オランダって教育がコーチングを基本に成り立っているんですよ。だから人がみんな前向きでのびのびと自分の人生を生きているんです。それが本当に目から鱗でこんな生き方ってあるんだ!って感動しました。オランダは世界一子供が幸せな国ランキングで何度も1位を取るくらい精神的に成熟した国でその秘密がコーチングにあったんですね。そんな学びを経て今に至ります。

キャリアに失敗はない
今までの文を読んでいただいてわかると思うんですが、私も散々遠回りをしました。でもこの遠回りがなかったら今の仕事には出会っていません。そして今までのキャリアはすべて今の仕事に役立っています。その積み重ねで私のキャリアは築かれているので今までのキャリアに関しては全く失敗だと思っていません。貴重な経験をしたな、ラッキーって感じ。
だから今キャリアに悩んでいる方がいたら声を大にして言いたい。
その経験、絶対誰かの役に立つからそんなに落ち込まないで、悩まないでと。
本当にキャリアって縁ですから。それを積み木のように積んで出来上がるんです。
これからの時代は今までの常識が通用しない世の中になっていきます。人生100年時代、終身雇用の崩壊、老後破産と日本の将来はなんだか不安な要素がいっぱいです。でもそこをチャンスととるか、現状維持でなあなあに過ごして後悔するかはあなた次第。組織が守ってくれなくなり、副業が当たり前になるということは個人の裁量でどうにでもなるということです。この変化をチャンスにしてあなたの強みで激動の時代を生き抜きませんか?大丈夫。そんなに難しい事じゃないですから。だって普通の会社員だった私でもやっていけています。今までの経験を重ねた結果です。ちなみに来年はオランダに移住します。好きな場所で仕事ができる準備が整いました。こうやって今までの常識を破って自分らしいキャリアを一緒に築きませんか?

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