『鈍行列車、思い出を乗せて。』【第一章】
第1章「鈍行列車、女優を乗せて。」
美崎享は、休憩時間にスマホでニュースを見漁っていた。政治経済などの小難しいニュースから芸能人の不倫や失言などしょうもない下世話なニュースまで。特にニュースを見てこいつはけしからんとか、日本が滅びてしまうとか大層な感想を抱いたり不満を吐いたりするわけでもない。ただ、美崎はニュースを見て「想像」するのだ。
「お、美崎先輩だ。またニュース見て妄想してんすか?」
「岩下。妄想じゃない。想像だ。何回も言ってるだろ。」
「同じようなもんでしょ。タバコ吸っていいすか。」
そう言って岩下望はこちらの返事も待たずにタバコに火をつけた。美崎はタバコを吸わないが、隣で喫煙されることに特に嫌悪感はなかった。岩下は美崎の想像癖を知っている数少ない知人である。たまたま休憩の時間が被ることが多いだけだが、気心の知れた仲だ。
「今日は面白いニュースありました?」
「面白くはないけど、どうしてもこのニュースは目に付くな。」
美崎はそのニュースの画面を見せた。
「『期待の新人女優小川夏子、沼川駅にて投身自殺。セクハラが原因か』。これって、」
「俺らが運転する路線で起きたやつだ。」
美崎と岩下が勤めるのは鉄道会社で、美崎は運転士、岩下は駅員として働いている。
「そりゃ覚えてますよ。ついこの間会社から説明もあったし。これ、運転してたの俺らの知ってる人だったんすかね。」
「知らん。」
岩下は美崎のスマホを手に取り、ニュースを読み進める。
「『テレビ関係者のセクハラが原因か』って、これ結構時代錯誤の話ですね。このご時世でセクハラがまだあるとか。」
「俺らにはわからない世界だな。」
岩下はニヤニヤして、美崎に言う。
「そのわからない世界を妄想するのが、美崎先輩の趣味なんでしょ?」
「…妄想じゃなくて想像だ。」
そういうと美崎は岩下の手からスマホを取り返して再度ニュースに目をとおす。
***
小川夏子は中学生の時の将来の夢を語る授業で既に「女優になりたい」と語っていた。そしてそれに反対するものは少なかった。というのも彼女は容姿端麗で人を惹きつける魅力は生まれつき持ち合わせていた。彼女の家族も誰も反対しなかった。両親の稼ぎのおかげで比較的裕福に暮らしていて、経済的余裕があったからかも知れない。
高校生になった夏子は、演劇部に入部する。発声や演技は中学生の頃から独学で練習していたため、彼女が舞台に立って演技をするのに長い時間は必要なかった。一年生でオーディションを通過し、地区大会の主役を勝ち取る。二年生になっても順調に役を勝ち取った。順調な道を歩んできた。だがそれが良くなかった。オーディションで役を勝ち取るというのは誰かを蹴落とし役を奪うということでもある。夏子が役を勝ち取り、順調に演技することでオーディションに落ちた部員の妬み嫉みも順調に膨張する。嫉妬によって何が生まれたか。「いじめ」だった。もとより容姿端麗であったがために、彼女に嫉妬心を隠し持っていた人は少なくなかった。漫画やドラマのような派手ないじめはなかった。ただ陰口を言われ無視され続ける。苦痛だった。彼女は純粋に努力していただけだったのに。
いじめが原因で夏子は学校に行かなくなった。初めは家から出ることもなかった。寝て起きて食事をして排泄をして寝る。それはもはやただ生きるだけの人の形をした肉の塊だった。彼女自身そんな生活はしたくなかった。女優になるという夢も忘れかけたその時に夏子の部屋にノックが響き渡る。夏子の母だった。
「夏子ちゃん、私と一緒に舞台を見に行かない?」
どうやら母の友人が地域で活動している小劇団に所属していたらしい。聞いたこともない小さな劇団だった。演目も有名作品ではなく、創作短編らしい。夏子は正直、気が乗らなかった。それでも母の誘いを断るのは気が引けた。ちょうど夏子自身も変化を望んでいた。夏子は母と共に小さな劇場へ向かった。
劇の出来は決して良いと言えるものではなかった。キャスト全員棒読みで、動きも固く、滑舌も悪い。お客さんに見せるという意識もなってない。脚本も数秒でオチが予測できる作品だった。それなのに夏子は涙を流した。
「私は女優にならなきゃいけない。私を馬鹿にしたあいつらを見返したい。あの日の私の夢を叶えてあげたい。」
そう言って夏子はその小劇団『まわる』に所属し、女優として活動を始めた。
『まわる』での活動は順調ではなかった。演劇部に所属していた時とは違い、観客は一般の他人がほとんどだ。それに、『まわる』の平均年齢は四〇くらいと比較的高く、登場人物ももちろんそれくらいの年齢になる。夏子は十八歳で適役が回ってくることはなかった。それに加えて、夏子は演技経験者で上手に演技することができたが、周りの人は趣味程度で演技しているから同じ舞台に立つと夏子の演技が浮いてしまうのだ。劇団長に練習で何度も指摘された。
「夏子ちゃん、もうちょっと力抜いて演技してもいいんだよ。」
夏子には、それができなかった。自分のレベルを下げて周りに合わせることは気に食わなかった。それでも劇の見栄えをよくするためにはレベルを下げないといけない。次の練習はどうやって演技しようか。葛藤した。ひとり、部屋で何度も脚本を読み返し、練習の動画を見返し、演技のプランを考えた。夏子は、この悩んでいる時間でさえも楽しいと思った。人間として生きていると思った。夏子の母も娘の生き生きとした姿を見て泣いて喜んだという。
ある日、『まわる』の練習に向かうと、稽古場には既に他のキャストが練習していた。集合時間のまだ三〇分前だった。今までにこんなことはなかった。夏子以外のキャストはいつも集合時間の二分後くらいに来ていた。
「皆さん、どうしたんですか?」
夏子が尋ねると、一番汗だくの中年の女性が答える。彼女は酒井洋子。夏子の母の友人だ。
「いやね、私たち話したの。団長は夏子ちゃんに手抜いてって言ったじゃない?でもそれだと夏子ちゃんが可哀想だなって。夏子ちゃんが気持ちよく演技できるように夏子ちゃんが手を抜くんじゃなくて、私たちが上手になればいいんだって。ねえ?」
酒井の呼びかけに他のキャストも同調する。
「うん。でも私たち、まだ全然だから夏子ちゃんに色々教わりたいの。いいかしら?」
夏子は涙で視界が滲んだ。演技が上手でもこの場所では認められる。演劇部では絶対になかった。
「もちろんです。酒井さんありがとうございます。皆さんも。」
この日から、『まわる』は明らかに変わった。夏子のエネルギッシュな演技に呼応して周囲のキャストの演技も輝く。初めは公民館の多目的スペースで数人に向けた劇も、公演を重ね、最終的には市民会館の大ホールで劇をするまでに成長した。夏子は『まわる』での活動を通して、女優として腕を磨き、演劇界で薄く名の知れた人間に成長した。
転機はある日急に訪れるものだ。夏子が二十一歳になった時の『まわる』の定期公演。この日の舞台も市民会館の大ホールで行った。本番は問題なく成功。舞台終わりの楽屋でキャストの仲間と共に反省会を行なっていた時のことだった。
「あのー、小川夏子さんいますか?」
そう言って楽屋には言いてきたのは、メガネをかけた小太りの中年。どこか貫禄はあるが、あまり近づきたくないような見た目をしていた。
「はい、私です。」
「おー、よかった!ちょっとこちらでお話しできますか。」
言われるがまま楽屋を出て、誰もいない階段の踊り場まで誘導する。
「いやあ、すみませんね。こんなところで。何しろ誰にも聞かれたくない内容でして」
「はあ。」
「申し遅れました。私、こういうものです。」
そう言ってその男は名刺を手渡してきた。夏子は名刺を持ち合わせていなかったため軽く謝罪し、その名刺に目を落とす。名は原口堅太。職業は地方テレビ局のプロデューサーとある。
「テレビ…」
「ええ。いや、最近だとSNSなんかで連絡を取れるらしいですが、どうもそういうのには疎くて。それに小川さんは個人で活動してらっしゃるとのことで直接伺った方が早いかと思いまして」
「はあ」
「それで、本題なのです。我々の夕方の帯番組『ぐるっと!』なんですが」
「ああ、見たことあります。」
この地域に住んでいる人間ならば一度は見たことがある番組だった。そう伝えると原口は破顔し、続ける。
「おお、それは話しが早い。その番組を今度リニューアルすることが決まっていて、新しいコーナーのリポーターとして小川さんに出演していただきたいんです。」
「私がですか?」
「ええ、地方局として地域に根ざして活動する小川さんが適任ではないかと。」
テレビのオファーなんて受けたことがなかった。雑誌のインタビューは何度かあったが、見開き一ページと写真二枚程度の活躍だった。今までの手応えと今聞いている話の重みが乖離していて現実の話とは思わなかった。当然、嫌ではなかった。ただ、話の大きさに夏子は面食らっていた。口を半開きにし、原口の名刺をぼんやり眺める。
「テレビ…」
「もちろん、今答えを聞きたいとは言いません。まだ十分に悩まれてください。それでは、私はこれで」
そういうと原口は、額に滲んだ汗をハンカチで拭い、階段を降りていく。夏子の視界から消える手前で一度振り返り、言葉を残していく。
「こちらとしては小川さんのこれからの活動もサポートしたいと思っております。もし、心が決まりましたら連絡してください。」
原口が去った後も夏子はその場に立ち尽くしたまま、名刺を眺める。テレビの仕事もしたいと思っていた。女優に憧れたのも小さい頃に見たドラマを見たからだった。それに出演する番組もある程度知名度のあるものだった。夏子としてはマイナスになることは決してなかった。それでもなぜこんなに躊躇ってしまうのか。
楽屋に戻ろうと足を動かすと廊下では酒井さんを含めた劇団のメンバーがいた。
「あ、夏子ちゃん。ごめんね、盗み聞きするつもりじゃなかったの。」
酒井さんたちの反応を見る限り、原口との会話を聞いていたみたいだ。夏子としては隠すつもりではないので聞かれたところで困ることはない。酒井さんが興奮気味に言葉を続ける。
「夏子ちゃんテレビ出るのね!それに『ぐるっと!』なんて!私毎日見てるのよ。」
酒井さんの興奮は止まることなく、他の劇団員も口々に祝いの言葉を放つ。この平和な景色を見て、夏子は自分の中の疑問に答えを出すことができた。
「皆さん、ありがとうございます。でも、テレビの出演は断ろうと思います。」
夏子の言葉に、劇団員は驚き静かになった。
「夏子ちゃん、どうして?」
酒井さんは驚きながらも、その声には柔らかい優しさが混じっていた。酒井さんを前に隠し事はできないと感じる。この優しさに触れるとなんでも話したくなってしまう。酒井さんに限らず、劇団員のみんなの優しい視線を浴びた夏子は理由を語った。
「今二十一歳で、まだこれから先でもチャンスあるかなって。それに『まわる』での活動が楽しくて、劇団としてもこれからもっと成長できる時期だと思うんです。なのでテレビの仕事はまだ早いかなって思って。」
夏子が笑顔でそう語ると、劇団員の集まった廊下はしんと静まり返る。ほとんどの人がなんと言っていいか分からずに必死に言葉を探していた。気まずい空気に耐えかね夏子が別の話題を振ろうとしたその時に沈黙は破られる。
「夏子ちゃん。」
酒井さんだった。さっきまでの優しさはまだ残っているが、今度の言葉には厳しさがあった。
「まだチャンスあるかもなんて言わないで。私の知ってる夏子ちゃんは目の前のことにがむしゃらに戦う子だったわ。目の前にチャンスがあるのに挑戦しないなんて夏子ちゃんらしくないじゃない。」
その場にいる団員は酒井さんの言葉に耳を傾ける。時折頷く人もいた。
「まだ若いから、なんて言っちゃダメよ。歳取るの意外と早いんだからね。私なんてついこないだまで二〇歳のつもりだったのに気付いたら膝と腰が痛くなってるんだから」
酒井さんは笑って見せた。団員も笑った。夏子も笑った。少し涙が滲んだ気がした。
「ありがとうございます。でも」
「『まわる』のことが心配なんでしょ。大丈夫。この場所は私たちが守っておくから。いつでも戻ってきていいんだからね。」
酒井さんがそう言うと、周りの劇団員も同調する。そのとき、廊下はオレンジ色に染まって暖かくなった。夕日がさして夏子の顔を赤く染めた。
「皆さん、本当にありがとうございます!私、頑張ります!」
拍手が起こる。その音一つ一つに背中を押されるような感触だった。酒井さんが場を制し、言う。
「さあ、今日の公演の成功と夏子ちゃんのこれからを応援するために打ち上げしましょう!」
その日の夜は、お祭り騒ぎだった。とは言うものの大学生くらいの劇団員は片手で数えられる程度なので、それほどの大騒ぎではなかった。しかし、『まわる』の打ち上げ史上、最も盛り上がったのは間違いなかった。
夏子のテレビ初出演は、九月の第一月曜日だった。リニューアルされた地方局の夕方の帯番組『ぐるっと!』のお天気コーナーで自己紹介をした。
「みなさん初めまして。今日から『ぐるっと!』ファミリーになりました。小川夏子です。普段は地元の劇団『まわる』で役者として活動しています。『ぐるっと!』ファミリーの皆さん、スタッフの皆さんと一緒に、テレビの前の皆さんに元気を届けたいと思います。これからよろしくお願いします。」
初日の出演を終えた後は、出演者とスタッフが集って夏子の歓迎会を開いた。歓迎会に参加した人は口々に夏子について評価をする。メインMCの高野晃大アナウンサーからは厳しくも優しいアドバイスを夏子に伝えた。
「初めてだから仕方ないけど、硬かったね。表情も硬いし、声も上擦ってるし。綺麗な顔してるんだからもっとリラックスして臨もう。そうすればすぐ人気出ると思うよ。」
夏子は真剣に高野のアドバイスを聞いていた。『まわる』のみんなに送り出された以上、成果を残さなければならない。少しでも吸収できることがあれば貪欲に吸収しようとしていた。
「まあまあ。今日は夏子ちゃんの歓迎会なんですから。そういう説教じみたのはまた今度にして今日は楽しみましょう。ね?」
原口が夏子と高野の間に入り、高野の空いたグラスにビールを注ぐ。高野は若干不服そうだったが、継がれたビールを飲み干し、
「それもそうだな。」
と納得する。夏子にアドバイスをしていた時の緊張感はすでになくなって威厳あるアナウンサーから一般中年男性のそれに戻った。夏子としてはアドバイスを聞きたかったが、原口の言うことも一理あるので、
「ではまた別の機会にアドバイスなどいただけたら、」
と諦める。
歓迎会はこれといった盛り上がりもなく午後十一時くらいで解散になった。顔を真っ赤に染めた中年男性スタッフたちは各々千鳥足で帰路につく。数人は二次会に行くという。夏子も誘われたが、テレビ初出演の緊張から疲れていたので帰宅することにした。解散する前に、原口に呼び止められ手を握られた。
「今日はお疲れ様。初めてで緊張したかもしれないけど、とても良かったよ。これからもよろしくね。」
なるほど、その握手か。驚きはしたが、夏子にとって原口はテレビの世界へ導いてくれた恩人だ。その手を強く握り返し答える。
「こちらこそ、よろしくお願いします。」
自然と力が入ってしまう。せっかく『まわる』のみんなが送り出してくれたのだ。チャンスを無碍にするわけにはいかない。原口は満足そうに笑い、じゃあねと手を振る。原口に敬意を送り夏子も帰路につく。足取りは軽かった。これはきっと未来のせいだ。これからの未来が楽しみで仕方ないのだ。
「ただいま。」
家についたが誰からの返事もない。それもそのはず、夏子はテレビの仕事を機にテレビ局にある市内のアパートで一人暮らしを始めたのだ。寂しさを拭うようにスマホを確認するとたくさんのメッセージが届いていた。LINEには母と父、『まわる』の仲間たちから激励のメッセージが届いていた。
「夏子ちゃん、お疲れさま!今日の『ぐるっと!』見ました。見逃したくなかったから録画もしちゃいました(笑)。テレビ初出演おめでとう!とても素敵でした!疲れた時はいつでも帰ってきてね。」
酒井さんからのメッセージには感動した。酒井さんは間違いなく私の恩人だと夏子は痛感する。目頭が熱くなる。深呼吸して心を落ち着ける。
「ここがスタート。がんばるぞ夏子。」
自己暗示をかけて明日の準備をする。夏子のテレビ出演初日は彼女の意思を固める大切な日となった。
その後も夏子の活動に大きな変化はなかった。初めは緊張でぎこちなかった共演者とのやりとりも円滑になり、メインMCの高野アナからのイジりに臆することなくツッコむなど自分のキャラクターを存分に発揮し、視聴者からの評判も良くなってきた。共演者とプライベートでも仲良くなり、休日は一緒に旅行に行くなど人間関係も良好だった。間違いなく充実していた。二か月に一度くらいは『まわる』に戻り、劇団のメンバーに歓迎されながら、ワークショップを楽しみ、劇の手伝いもした。
そんな生活を一年続けていた。小川夏子は『ぐるっと!』の看板女優となった。初めは屋外でお天気コーナーのサポートという立ち位置だったが、今ではスタジオのパネラー席に座っている。順調だった。ただ、それ以上でもなかった。また一年が経った。
小川夏子は変わらずに、スタジオの一番端の席で微笑んでいた。視聴者には人気があった。肩の力が抜けた夏子のスタジオでの立ち振る舞いは、評判が良かった。そのことは夏子も知っていた。『ぐるっと!』の出演に慣れ始めてからエゴサーチをするようになった。『まわる』にいる時はエゴサーチなんてしたことがなかった。そもそもTwitterとかはやっていなかった。エゴサーチで目にする夏子への評価は好印象なものが多かった。『小川夏子』で検索すると、
「ぐるっとに出てる小川夏子可愛いな。推し変するかもしれん。」
「小川夏子さん、トークも面白いし何より美人!応援してます!」
「小川夏子は俺の嫁」
「一瞬で稼げる方法教えます!詳細はフォローしてDMへ! クレカ決済 スプラ募集 小川夏子」
など様々なツイートが出てくる。エゴサーチが日課になっていた。というのも家族や地元の友人、劇団のメンバーからの放送後の連絡が来なくなったのだ。母は週に一度、仕送りの話だったりお互いの近況の話だったりしているが、『ぐるっと!』の話は無くなった。『まわる』にもあまり戻れなくなった。時間がなくなったのだ。酒井さんとも一年くらい連絡をとっていない。『ぐるっと!』にいる小川夏子を肯定してくれるのはエゴサーチで見つかるツイートたちなのだ。それが今の彼女の心の支えだ。そう思えるくらいに夏子の心は疲弊していた。
これは焦りか。夏子は自分が二年もの間足踏みをしているように思えて仕方がなかった。タレントというのは結果がわかりやすいと思っていた分、自身の停滞ぶりに嫌気がさす。もっと認めてもらわないといけない。いつか両親に、『まわる』に恩返しするためにこんなところで足踏みをしているわけにはいかない。この現状を変えるために、夏子は自分で動くことを決めた。
十二月。完全に冷え切った空気とは裏腹に街はクリスマスに浮かれている。そんな日の収録終わり。夏子は、急ぎ足でスタッフの方へ向かう。
「原口さん、ちょっと相談があるんですけど」
原口は、いつも通り額に汗を滲ませている。容姿はアレだが、仕事の相談をするには都合のいい人であった。原口はこちらを見て手短に返答する。
「どうした?」
忙しいから手短に話してくれというオーラが額の汗から漂っていたので、答えるように手短に話す。
「仕事のことで相談があって、今度お時間いただけないでしょうか。」
原口はポケットからスマホを取り出し、画面を睨みつけてから夏子に応える。
「じゃあ、今日の夜とかどう。」
夏子もスマホを取り出し予定を確認する、フリをする。今日相談しようとしていたので予定が空いているのは確認済みだった。
「大丈夫です。」
「うん。じゃあ、八時に駅前で。せっかくだから飲みに行こう。」
「はい。お願いします。」
そう言うと原口は満足そうな表情を浮かべ、忙しなくスタジオを去る。
原口との約束までは空き時間になる。その間に自分の気持ちを整理しようと駅ビル内のカフェに向かう。アイスコーヒーを一つ注文し、窓際の席でタブレットを開く。ここのカフェは駅ビルの一階にあるので窓際だと駅前の大通りを歩く雑踏を眺めることができる。この席が夏子はなんとなく気に入っていた。雑踏の誰もこちらを気にしない。どこか日常から切り離された心地よさがあった。イヤホンをして少し暗めの曲を流す。タブレットのメモアプリに話したいことをまとめていく。
今後、自分はどのようにしたら活躍できるのか。元々女優志望だった。だからせっかくテレビに出られるのならば、ドラマに出演したい。そんな願望もあった。何よりドラマに出演となれば、女優としての小川夏子の活躍を家族や劇団の人たちに知ってもらえると思った。やれることはなんでもやるつもりだ。女優として売れてお世話になった人に恩返しがしたい。その気持ちがとても大きかった。これが焦りだったのかもしれない。
もし売れたら、バラエティ番組に出て『まわる』出身の女優であるということを大々的に伝えたい。それでいろんなドラマに出演して、お金を稼いで、まずは家族のために使って、次に『まわる』のみんなのために使う。それで喜ぶみんなの顔が見たい。母はどんな反応をするだろう。酒井さんはどんな顔をするだろうか。謙遜して「貯金しなさい。」とか言うかもしれない。それでも私はあなたたちに救われたんだよ。あなたたちのおかげで頑張れているんだよ。
誰かに肩を叩かれる。すると視界が次第に明るくなった。水滴が垂れ、コップの下は小さな水たまりになっている。喉が渇いている。どうやら寝ていたようだ。少し伸びをして、叩かれた肩の方を振り返ると原口が立っているのが目に入る。
「お疲れ様。待たせてごめんね。」
「あ、いえ、大丈夫です。」
開いていたタブレットで時間を確認する。八時だった。
氷が溶け切ってぬるく薄くなったコーヒーを飲み干し、原口と共にカフェを後にする。
「いやあ、びっくりしたよ。駅前行ったらカフェですごい寝てたんだもん。疲れてたんだね。」
「まあ、はい。」
二人は、カフェから五分くらい歩いたところにある居酒屋に入る。原口によるとここは半個室の様な座席になっているから仕事の愚痴や相談にはうってつけなのだと言う。席について一通り注文をし終えると原口は問いかける。
「それで相談っていうのは何?」
「はい」
少し空気が重くなったように感じる。緊張からだろうか。夏子はカフェでまとめた内容を話した。色々な言葉でまとめたが、結局のところ「どうやったらもっと売れるか」ということだった。原口は腕を組んで少し唸った。
「それは、なかなか難しい問題だよね。どんなに才能あるタレントでも全国区で売れるのは運だってうちらの業界でも言われてるし。」
「はい。」
「それでも挑戦したいと?」
「はい。原口さんたち『ぐるっと!』の方々にはたくさんお世話になりました。今まで身につけた力で挑戦したいです。」
原口さんは少し困ったように少し笑う。
「その気持ちもわかるけど、うん、そうだね。」
そして淀む。
「できることだったらなんでもします。なんでも教えてください。」
「そうだね。まずは東京のテレビスタッフに話してみるよ。」
「ありがとうございます。」
原口は少し申し訳なさそうに声を落とす。
「うん。話が通るまではもう少し『ぐるっと!』で一緒に頑張ろうね。」
「もちろんです。今まで通り全力でやらせてもらいます。」
そう言って夏子の相談は終わり、普通の上司部下の飲みに変わった。なんともない愚痴や身の上話。世間話も交わしながら飲んでいた。
すると原口はふと思い出したように言う。
「夏子ちゃん。さっきできることだったらなんでもするって言ったよね。」
心に氷が当てられたみたいにヒヤリとする。
「はい。もっとテレビで活躍できるならなんでもするつもりです。」
「そうか。それならいいけど」
原口は一度手に持ったビールが一口残ったジョッキを口元に運ぶ。
「プライドは捨てちゃダメだからな。」
そう言って原口は残ったビールを飲み干した。自分の言葉の中にある罪悪感も飲み込むように。
その日から、また数ヶ月いつも通りに過ごした。『ぐるっと!』の出演と劇団への定期的な訪問。いつも通りがあまりに続いて原口を疑い、ほんの少し人間不信が加速した。そんなある日の夜に一件の通知が携帯に届く。いつも通りの日常を壊してくれるものかと少し心を躍らせながら髪を乾かす手を止めてスマホを開く。LINEに一件の通知が増えていた。母親だった。母親は週に一度連絡をくれるのだった。結局いつも通りのままでため息が出る。そしてため息が出た自分に対して嫌気がさす。母親からの連絡にため息をつくなんて。
「最近どう?」
なんの変哲もない連絡だった。いつもと変わらない。
「いつも通りだよ。一人暮らしももう慣れたし、特に何にも困ってない。」
少し意地を張ったような文章になったことに少し恥ずかしさを覚える。
「それならいいけど。無理はしないでね。」
「大丈夫」
大丈夫。文字を打つのと一緒に口の中でその言葉を咀嚼する。
大丈夫。
「大丈夫。きっといつかどうにかなる。」
わざとらしく発声する。丹田に力を入れて、腹式呼吸で、意味もなく。
バカらしくなった。部屋の電気を消してベッドに身を埋める。髪は半乾きのままだった。
数日後、生放送終わりに原口から呼び出され、夏子は駅ビル一階にあるカフェにいる。前回はうたた寝したが、この日は微塵も眠気が無かった。机の上で汗をかいたアイスコーヒーを一口飲む。夏子の首筋にも汗が浮かぶ。数分待った後、原口が店にやってくる。そして原口だけでなくもう一人、見たことのない男性がいた。
「ごめんね、夏子ちゃん。時間取ってもらって」
そう言って原口は席につき、アイスコーヒーをふたつ注文する。夏子は、原口の隣に座っている見知らぬ男性を見る。髪は白髪混じりではあるが、きれいに整えられている。着ているシャツにも目立ったシワがなく、シックな腕時計が彼の清潔感を強調するようだった。俗に彼を紹介するなら、これがイケオジってやつなのだろう。初めて目にするイケオジに夏子はジロジロと彼を見つめる。視線に気がついた原口は口をひらく。
「それでこちらの方が」
そう言って隣に座る男性に紹介を促す。それを受け取った男性はわざとらしく一つ咳払いをする。
「私、東京の方でプロデューサーをやっています。高木と申します。」
慣れた手つきで名刺を差し出してきたので、辿々しく受け取る。彼の名刺に目を通し、口の中で呟く。
「東京第一放送、」
夏子の呟きに対し、反応をしたのは原口だった。
「そう。知っていると思うけど僕らの系列の局だ。言わば大元だね。」
「うん。原口くんから紹介したいタレントが一人いるって話を聞いてね。何日か番組での様子を見せてもらったよ。」
「あ、ありがとうございます。」
夏子は途端に焦りを覚える。今までの自分の行動に失礼はなかったか、最近の出演でミスとかあったか。考え出すと思考が深い溝に吸い込まれるようだった。高木は続ける。
「それでね、小川夏子さん。あなたにぜひ出てもらいたい番組があるんだ。」
体を巡っていた緊張が溶けていなくなる。
「ほん、とですか?」
素っ頓狂な声だったのか、原口が少しにやける。
「もちろん。こんなところで嘘ついても面白くならないし。」
「はは、ですよね。」
うまく愛想笑いもできなかった。あまりの緊張で劇団で培った演技も思い出すことができなかった。
「小川さんには、うちの局でやっているネット番組のドラマに出てほしいんだ。」
「ドラマですか。」
食い気味な夏子に高木は少し目を大きくして驚くが、期待通りだと言わんばかりに微笑む。
「うん。小川さんみたいな若手の俳優たちを集めてチャンスを与えたいって趣旨で始まった企画なんだけど、その時に原口くんから紹介してもらってね。趣旨にあっているからぜひ出演してほしいと思ってね。どうかな。」
「ぜひ出させてください。」
先ほどまでの緊張は無くなって、今は希望が体を駆け巡っている。体温が上がるのを感じる。原口は黙って頷く。
「うん。期待通りの返事だ。それじゃあ、早速なんだけど来週の金曜日の十五時に顔合わせを兼ねて打ち合わせがあるけど来れるよね。」
「えっと」
その時間は『ぐるっと!』の出演があるが、言い出しにくかった。この機会を逃したらせっかく掴んだ夢の尻尾がトカゲみたいに切り捨てられて逃げられてしまうと思った。原口に目配せする。
「大丈夫」
と暖かい目線を返す。背中を押されたような気がした。
「わかりました。」
返事を受け取った高木は満足そうに笑い、詳細な日時と場所を夏子に伝え、この場は解散となった。
高木から指定された日時、場所に三十分前に着いた。緊張と高揚感から早く着きすぎてしまったようだ。集合場所はコワーキングスペースと呼ばれる場所で何やら意識の高い雰囲気が漂っていた。先に入って待つことができるかわからないので少し歩いて喫茶店に入ることにした。顔合わせということで少しだけ自己紹介の練習をする。誰にも聞こえないような小さな飲み込める声で暗唱する。セリフが舌に染み付いてきたころ、指定された集合時間の五分前になった。
先ほど下見したコワーキングスペースへ行くと、高木が待っていた。
「おはよう。じゃあ入ろうか。」
夏子を待っていたようだ。最後に着いたのかと赤面しながら施設内に入るが、そこにはまだ誰もいなかった。
「あの、他の方は」
「ん?」
高木は素っ頓狂な声を出す。しかし、表情にはどこか余裕がある様子だった。
「顔合わせと伺っていたので、他の出演者さんとかスタッフさんとかいると思ったんですけど」
夏子の発言に対して、高木の反応はわざとらしいものだった。
「ああ、今日はみんな忙しいみたいで都合が合わなかったんだ。でもせっかく小川さんが東京まできてくれるみたいだから個人面談みたいなことしたくてね。」
「なるほど」
とは言ったものの心の底では納得できていなかった。しかし、ドラマの仕事が貰えるならそれでいいと無理に納得することにした。それに夏子はこれが普通かもしれないと思えるほど東京の仕事を知らなかった。
「まあ、これから一緒に仕事する上でお互いのことをもっと知った方がいいと思うし。気楽にしてね。」
「はい。」
そして夏子は、今までのことを話した。演劇を始めた理由、地元の劇団の仲間たち、テレビ出演を始めてからの期待と焦りと不安。その全てを話した。それで時間は十分に過ぎた。高木は丁寧に話を聴きながら、時折アドバイスを混ぜ込んだ。夏子はメモをとり、高木に真面目すぎると笑われた。
「そろそろ時間だし出ようか。」
「はい」
予想していた形とは違ったが有意義な時間が過ごせたと夏子は感じていた。外はすでに暗くなっていた。いつもより日が短いように感じた。
「夏子ちゃん、このあともうちょっと時間あるかな。」
今日でかなり距離が縮まったようで、高木からの呼称が馴れ馴れしくなった。
「このまま、帰るつもりでしたけど、何かありました?」
「せっかくだからご飯行こう。奢ってあげるよ。」
せっかくだから、高木の厚意に甘えることにした。
高木に連れられた場所は、都内の高級焼肉店だった。今まで普通の生活をしていた夏子にはあまりにも不釣り合いで呼吸をして良いかもわからなくなった。高級店に緊張で固まった夏子を高木は笑って緊張するなと肩を叩く。どうやらこの店は高木の御用達らしく店のスタッフと親しげに会話したのち、夏子を個室まで案内する。高木と二人の個室。緊張に耐えかねた夏子は、店のメニューに目を通す。細々とした字で書かれたメニューはどれも聞いたことのない高価なもので余計緊張が増しただけだった。
「そんな緊張しないで大丈夫だよ。俺が払うから遠慮しないで。とりあえずお酒飲もうか。」
高木の気遣いか、夏子はハイボールを飲むことにした。ここで夏子は選択を間違えたのだ。高い料理と異質な雰囲気に飲まれて緊張は酒に溶けることなく、酔えば酔うほど緊張は濃くなった。肉は美味かった。酒も美味かった。高木も上機嫌に飲めや食えやと勧める。
正面にいたはずの高木はいつの間にか隣に座って、夏子の腰に手を回していた。気がする。気のせいかもしれない。きっとドラマの見過ぎだ。こんな状況はドラマかアダルトビデオでしかみたことない。これは夢だ。そう思えるほど夏子の頭はアルコールに飲まれていた。
「そろそろ行こうか」
高木の声が聞こえる。高木の顔面が異様に耳元に近い。荒い鼻息が首筋を撫で悪寒がする。席を立つとやたらと高木が触れてくる。
「ひとりで歩けます。大丈夫です。」
とはいうが、説得力に欠ける。夏子の足取りはふらついて立つのがやっとだった。薄目を開けたその隙間から外の雰囲気を感じるので精一杯だった。やたらと密着する高木の体の温かさは気持ちが悪いが夏子はこれを信頼する他なかった。喧騒は大きくなる。ネオンの光を感じる。高木の体温が上がる。高木は夏子の体を支え、やたら彩度の高い施設に入る。
「ちょっとここで休憩しようか」
ああ、これはきっと夢だ。夢の中だ。夢の中で、夏子は高木に犯された。乳房を揉まれ、吸われた。高木の勃起した陰茎を咥えさせられた。ゴム皮を纏った陰茎は夏子の性器へとねじ込まれる。これは夢だ。これは夢のはずだ。涙を流す。痛みだ。どこが痛いのかはもうわからなかった。
ことを終えて、夏子は呆然とベッドに転がっていた。高木は夏子の頭を撫でながら夏子の耳元で囁く。
「東京での面倒は見てあげるよ。これからよろしく。」
夏子は夢にまで見た女優の仕事を手に入れた。
それから、月日が経った。初めてのドラマ出演は大成功そのものだった。高校生の恋愛をテーマにしたネットドラマはSNS上で中高生を中心に話題になった。夏子の演じたキャラクターがどうやら「エモくてかわいい」らしい。高校生の頃は恋愛に全く興味がなく、経験もなかったのでなかなか視聴者のリアクションを解像度高く受け入れることができなかった。そこからは脇役や一話だけの出演で全国区のドラマの出演が増えた。その度に中高生の視聴者が「夏子ちゃんだ!」と投稿したり、出演シーンを切り取られ短い縦動画にされたり。要はバズってファンがついた。少し話題になったことでバラエティ番組にも呼ばれることも増えた。MCの芸人は今注目の女優として夏子を紹介する。
「高校生の恋愛を描いたドラマの出演で話題になっていますが、小川さんは高校生の頃恋愛とかしました?」
「それが全くなかったんです。自分のことで精一杯で」
周りの共演者は、「嘘だー」「こんなに綺麗だからモテてたでしょー」とガヤる。「いやいや」と照れくさそうに笑って流れに身を任せて番組を乗り切る。その間に考える。今更まともな恋愛なんてできるか。
順調だ。順調なのだ。夢みたいに。メディアへの露出も増えて、家族や地元の劇団の仲間たちからも度々連絡を受け取った。
「昨日のバラエティ番組見ました。やっぱり芸人さんは面白いね。楽しかった?」
母からのLINEが届く。
「うん。楽しかったよ。カメラが回ってないところでも笑わせてくれたりして全然緊張しなかった。」
「よかったね。スタッフさんにもお世話になってるなら仲良くしとくのよ。」
スタンプで返す。
順調だ。でも順調に仕事が増えているのは理由があった。高木との体の関係だった。初めて犯されたあの日から、高木から定期的に呼び出されては犯された。ドラマの撮影中でも休日があれば呼び出され、『ぐるっと!』の出演後に東京へ戻っている時に呼び出され、自分のアパートではなくラブホテルへ帰る日もあった。
それでも夏子は、この関係に縋っていた。体を売れるのは若いうち。今我慢すればそのうち犯されることはなくなる。今は我慢だ。きっとうまくいくと毎日自分に言い聞かせていた。幸いにも、女優「小川夏子」の名は全国的に知れ渡った。連ドラの主演も遠くはないと、ホテルで高木が言ったのを覚えている。地元を出て東京に住むことになった。
あの日から、四年が経ちそうだ。初めて犯されたあの日から。『ぐるっと!』へのレギュラー出演は無くなったが、原口やテレビ局、事務所の厚意で隔週出演は叶った。東京での仕事は、夢のようだった。憧れていた女優にも会えた。一番面白いと思っている芸人にも会えた。イケメン俳優とキスをする演技もした。旅行のロケで日本各地、海外にだって行けた。
「もうテレビで見ない日はないね。大活躍だ。」
酒井さんからのメッセージで心が温まった。
「無理しないでね。応援してます。
」
母からのLINEには目頭が熱くなった。つい言葉が漏れる。
「夢が叶ったよ。みんなのおかげだよ。ありがとう。」
ラブホテルの一室でローブを纏ったまま返信をした。高木は裸でベッドに横たわる。起きているのか寝ているのかわからない。夏子は着替え部屋を出る。
そうだ。夢が叶ったのだ。夢にまで見た女優だ。誰もが知っている女優になれたのだ。
帰路につく。時刻は早朝五時。いつもは高木がタクシーを手配してくれていたが、今日はひとりでホテルを出たため足がない。たまには電車を使おうか。時間も早いし、人も少ないだろう。
ホームで電車を待つ。ふと聴き馴染みのある地名がアナウンスされる。実家のある、故郷だった。東京から電車一本出行けるのかと夏子は驚いて、自然とその電車に乗り込んだ。急に里帰りすることになるとは思ってもなかった。鈍行列車に揺られて二時間程度。終点の沼川駅に着いた。
実家に戻ると両親は驚いて、それでも喜んだ様子で「帰ってくるなら連絡してよ」と愚痴をこぼした。実家の食卓で両親と朝食を食べ、東京での生活を話す。それでも高木のことは話せなかった。
「元気そうでよかったよ。テレビのお仕事も楽しんでそうだし。あ、でも次から帰ってくる時は連絡してよ。」
母の優しさに言葉が出なかった。泣いているところを見せると不安にさせてしまうから、昼前には実家を出ることにした。
「いつでも帰ってきてね」
と手を振る両親の姿を目に焼き付け、駅へ向かう。駅ビルにあるカフェで酒井さんと会う約束をした。
「夏子ちゃん久しぶり!」
久しぶりに見る酒井さんは少しシワが増えたようだ。東京で住んでからしばらくして『まわる』が解散したことを聞いた。
「私たちがこの場所を守るとかカッコつけてたけど、ごめんね。一応ただの演劇同好会だし、人も減ってくわね。」
夏子は落ち込んだ。そして自分の力不足を悔いた。
「全然夏子ちゃんのせいじゃないのよ。それに劇団のみんなは今でも仲良しでね。こないだなんか夏子ちゃんが出てるドラマを私の家に集まって一緒に見たりなんかして。あ、それでね、」
酒井さんは劇団のメンバーとの仲良しエピソードを続ける。少し落ち込んでいた夏子の顔に、笑顔が戻った。
「とにかく、私たちは今でも夏子ちゃんのこと、応援してるから。また帰ってきたら一緒にお話ししようね。」
カフェから出て、手を振る酒井さんを見送る。夢のような時間だった。携帯のバイブレーションでメッセージが届く。高木からだった。携帯を開いて中身を確認することはなかった。どうせいつもの話だ。東京に戻ろう。
沼川駅のホームにて電車を待つ。どの電車に乗れば帰れるかわからない。ホームにアナウンスが流れる。とりあえずこの電車に乗ってみようか。
夢のような時間だった。これは夢だ。あの日から始まった夢だ。夏子は、駅のホームの端に立っていた。
「もう、目を覚ます時間かな。」
夏子は、身を投げた。
***
美崎は、小川夏子の物語の一部始終を岩下に話す。
「でもそれだったら、高木のことを誰かに告発したらよかったじゃないですか。なんで小川夏子はそうしなかったんですか。」
岩下は少し感情的になって声が大きくなる。美崎は、少しため息をついて答える。
「知らんよ」
「え?」
「これは俺の想像だって言っただろ。」
「あ、ああそうか。そうでしたね。」
岩下は落ち着いた。現実を見たようだ。
「でも、それなら小川夏子はどうして自殺したんでしょう。人気絶頂の女優だったのに。」
岩下は、先ほどまでとは打って変わって冷静に考察を始める。そんな岩下を見て、美崎は諭すように言う。
「そんなの俺らにわかるわけがない。俺らが知っているのはテレビとかネットに転がった空白だらけのニュースだけだ。その空白に何があろうと俺らはその真実に辿り着けるわけがない。ましてやそのニュース自体も真実かわからない。セクハラがあったかどうかもわからんしな。」
「でも、それじゃあ、救いがなさすぎませんか。」
少し寂しそうな顔をする。こいつは優しいやつだな、と美崎は思う。
「なら想像すればいい。救いがあるようにな。目に見えないなら真実はないんだ。想像して自分の好きなように解釈すればいい。」
岩下は黙り込んだ。引いてしまっただろうか。確かに趣味の悪い癖かもしれない。美崎が弁明しようと言葉を吐く前に、岩下が口をひらく。
「それなら美崎先輩、話考えるの上手っすね。国語とか得意でした?」
予想外に明るい岩下に一瞬面食らう。
「いや、国語は苦手だったな。」
「そうなんすか?」
「主人公の心情を読み取れとか、この時の誰々の気持ちを答えなさいとか、行間を読むのが苦手だったんだよ。答えのある数学の方が好きだった。」
「へえ、意外だな。小説家とか向いてるんじゃないっすか?」
「適当なこと言うな。じゃ、休憩終わりだから。」
数日後、美崎の運転する列車にサラリーマンが飛び込んだ。美崎の目の前で人間が弾け飛び、赤が広がった。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?