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No.51|自助論で自分を追い込んでいては意味がない

2023年2月26日 たまちゃんの「いつか何ものかになる道」 No.51
当ブログは、30代後半の元ポンコツのサラリーマンが何ものかに変化変容を果たす過程をリアルに発信します。
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■差別化の一つとして読んでいた、あるべき論

先日読んだ本で「自助論」という本があります。

1859年に発売された自己啓発書の古典と言われる本です。
人間性を高めること、勤勉の素晴らしさを300人の偉人を通して語った本です。

私は昔、こうした本で書かれている「人としてのあるべき姿」を「自分の目指すべき正しい姿」として認識していました。

中学・高校が仏教系の比較的厳しい学校だったこともあり、「人としてどうあるべきか」について、他の学校より強く教育されました。

それもあり、昔は、他者と差別化したり、他者との違いを出す上で、こうした古典で語られる偉人の特性に答えを見出そうとしていました。

しかし、今読んでみると、読んでてしんどいんですよね。
いや、「そりゃそうやけど」というのが本音。

大学に入って以降は、自分のやりたいことや、こうなりたいなということを無視してきました。

その結果、「したい」「やりたい」といった前向きな感情に基づいた行動を取ることができなかったんですね。
悪いことはしないけど、大きなことも為せないという人間になっていました。

怠け者の自分としては、中学高校のおかげで多少マシな人間性・勤勉さ等を身に着けることができたとポジティブに解釈しています。
どうにか道を外さず、世間的には多少評価していただける現在の立ち位置にまで来ることができましたので。

■あるべき論からの脱皮

ただ、自助論を改めて読んでみた際に、これ以上こうした「あるべき論」の書物とはひとまず距離を置き、「自分が感じる感性に基づいた活動を続けていくことが必要ではないか」と感じたのです。

というのも、冒頭に書いた通り、勤勉さを重視する自助論において登場するエピソードは苦行のようなんですね。

人は失敗から学び、克己の精神で前を向いて努力し続けること、困難に打ち勝つということ、をとにかく美徳として紹介されています。

しかし、こうした偉人の方々も何らかの理由で勤勉であらねばならない事情があったり、せずにはいられないといった感情があった結果、行ったのではないかと。

すなわち、自身がありたい姿・なりたい姿というものが先にあり、それを実現しようと思った結果、必要だったのが勤勉さや克己ということなんだと思います。

なので、やりたいことがない人が最初から克己をしたとて、目的がなく、順番が異なるんやないかと思うんですよね。
楽しんでやっていたら、良いですが、嫌々やっているのであれば、単に苦しい修行をしているだけです。

■感情を大事にする

そうすると、「ありたい」「なりたい」という願望・目標・夢といったものが重要だということです。
その際、他者から押し付けられた「あるべき姿」、つまり、「must」「should」が含んだものであるならば、それは決して望む姿ではないということ。

他者から押し付けられる「あるべき姿」を一度手放し、かつ、自身の心や気持ちが奮い立つかどうかを基準にし、取捨選択を行うことが今の自分には必要だと改めて感じています。

したがって、今年も昨年に引き続き、「自分の心が震えるか否か」を正直に感じることや、他者による「正しい/正しくない」「あるべき/あるべきでない」という評価は無視し、【自分の素直な気持ちを出してよいという許しを与え続けたい】と感じています。

結果的にその方が自分が望む世界に近づきますし、自分の強みであったりやりたいことを伸ばすことにつながります。
きっと自ずと成果が出たうえで、他者との差別化にもつながると考えられます。

昨年までの自分の生活とは打って変わり、常に感じていた「しんどい」「いやだ」「苦しい」といった感情が徐々になくなりつつあります。

よりエンジンをかけ、邁進していきます。

明日もわからないからやってみる、渦を巻く、めんどくさいからやる、でいきます!

●本日のまとめ

  • 自信のあり方について厳しい規律を求める本は私の今のステージにはこれ以上は不要だといえる。

  • 今までで身に着けた厳しい規律があることから、自分の気持ちに素直になってもバランスが取れるはず。自分の素直な気持ちを出してみることが今後の大きな飛躍につながるのではないか。

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