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芽生えの森②

「立てるか」
「立てるよ」
「さっきのガキは?」
「ガキ?」
 ポアズの問いにベレトは間の抜けた返事をしてしまう。それが先ほどベレトを助けた女のことを指していると気づいたベレトは慌てて周囲を見回すが、先ほどの人物はおろか、敵の姿も消えている。
「舞い上がった土の数からして10人はいた。どこに行ったんだ?」
 ベレトは首を横に振り、再度辺りを見回した。すると木々の向こうから何か大きなものが、かなりの速度でこちらへ飛んでくるのが見えた。それは二人の頭上を掠め、近くにあった大木の幹にドスンと音を立てて突き刺さる。地上3メートルほどの高さに突き刺さったそれは、丸太と見紛うほどの大きさの氷塊と、それに腹を貫かれた大柄の男であった。まるで巨大な“はやにえ”のような姿でぶら下がる男にはもはや生気は無く、流れ落ちる真っ赤な血が、氷の透明度を強調している。
「向こうだな、行くぞ」
 そう言うとポアズはいつの間にか装填していた銃を構え、そろりと動き出す。ベレトも動きに合わせ、次の銃弾を精製しつつ前進を開始した。前をいく相棒の大きな背中越しに前を見据えつつ、その他の神経を使って周囲を警戒する。
 銃声が一つ響き、続けざまに2つの音が音が轟いた。ひとつは地面を揺るがす鈍い音、そしてもう1つはガラスが弾けるような硬質で軽い音だった。そこにいる。そう確信した二人は、歩調を速めつつ、緩やかな丘を上りきると、目の前の光景に愕然とした。
 春の柔らかな日差しの中、うっかりすれば居眠りでもしそうなほど優しい森の真ん中に氷の世界が現れたのだ。周囲の木々は凍てつく氷を身に纏い、乱杭歯のように屹立する鋭い氷の棘が、まるで木々の代わりをするように地面から飛び出している。前を歩くポアズの足が氷の世界を踏みしだくと、急激に冷やされたのであろう下草がぱりぱりと音を立てて崩れ、二人はその冷たさを触れること無く実感した。
 二人が各地を転戦する傭兵ではなく、この地で生まれ育った人間であったのなら、この光景をおとぎ話か幻覚だと思っただろう。一年を通して温暖なこの地に雪が降ることは無く、霜のひとつでも降りようものなら天変地異として地域史に刻まれるはずだ。つまり目の前の光景は、通常ならば絶対にありえない風景なのだ。
 ポアズが手信号で停止を指示する。ベレトも背を低くしてぐっと身構えるが、人影はどこにも見えない。どこかに潜んでいるのか。
「動くな!」
 ポアズの太い声が響く。低く威圧するような声を正面へ放ち、ざらついた人差し指がトリガーを掴んだ。ベレトはゆっくりと、ポアズの背中越しに前を窺う。
 そこには栗色の長髪を垂らした一人の女が立っていた。いや、少女であろう。虚脱にも似た冷たい無表情を湛えた顔は年齢を計りにくく、ベレトと同い年程度にも5歳以上年上にも見える。視線だけをこちらに向け、その手に宿った青白い妖光が小さくだが揺らめいていた。彼女の肌の白さもあってか、それは著しく非現実のモノに見える。
「お前、何者だ」
 少女は答えない。
「俺の相棒を救ってくれた事は感謝する。けどな、お前を信用した訳じゃあないぞ」
 氷のように張り詰めた空気が空間を支配する。森は突然訪れたありえない真冬に困惑し、同じように沈黙を守っているようだ。人の息遣いだけがやけに大きく聞こえる。堪らなくなったベレトは手にした短銃を構えたまま、ポアズの背後から顔を出す。その動きに合わせ少女は僅かに視線を動かし、目の前に現れた少年の視線と交わらせた。みるみるうちに輝きを取り戻す彼女の蒼い瞳にベレトはやや戸惑う。
「良かった。元気だね」
 少女が微笑む。瞳に慈母の安らぎを、口元には少女の無邪気さを滲ませる彼女の表情にベレトの困惑は更に強くなった。
「答えてもらおうか」
 ポアズの一言に少女の顔がキッと引き締まる。
「何よ、偉そうに。こんな子供まで戦場に引きずり出して」
 彼女の声は頑なで、何者も寄せ付けないような凄みを含んでいた。その声に同調するように頬を強張らせたポアズは、手にした小銃の引き金を引き絞る。
「ちょっと待て。助けてもらっといて悪いけど、オレは子供じゃない」
 ベレトは短銃を下ろしながらそう主張するが、その行いそのものが子供っぽいとは思いつかず、自分が癪に障る発言を考えなしに諌めてしまう。
「ふふっ、いいよ、無理しなくて」
「無理じゃない!」
 ムキになる少年と微笑む少女。その精神的な差は明らかだった。
「だいたいアンタいくつなんだよ。見た感じオレと大差なさそうじゃん」
「失礼ね。わたしもう16なんだけど」
「ひとつしか変わらねえじゃねえか!」
 少女はベレトの発言に一瞬面食らったようにきょとんとしてから、怪訝な顔をしてみせる。そのやり取りに毒気を抜かれたポアズは、構えていた小銃を下ろして大きなため息をついた。
「あぁ……もう、いいや、とりあえずお前が敵じゃないって事は分かったよ……疑って悪かった」
 呆れたように呟くポアズを見て、少女も満足そうにため息をつく。
「ありがと。アナタの弟さん?」
「同僚だよ。傭兵の」
「傭兵?」
 彼女は眉間に皺を寄せて、二人の顔を見比べた。その意図を感じたベレトは不愉快そうに「なんだよ」と吐き捨てながら、手にした銃を腰のホルスターにしまう。
「んー……別に、何でもないよ」
 何でも無いとは思えない口ぶりで少女は言う。ベレトの不快感は更に増したが、ポアズは何事も無かったかのように銃を肩にかけ、少女に握手を求める。
「俺はポアズだ。ポアズ・オム・ルクルト・038」
 彼の変わりように少女も困惑したが、彼の手をとって微笑み直す。
「わたしはアデリー。その……ただのアデリー」
 フルネームを名乗らないその口ぶりに二人は違和感を覚えたが、詮索するほどの事も無いと思い追求しなかった。
「キミは、ベレトくんだっけ?」
「ベレト・べテル・ダオラ・358!子供扱いするな!」
「でもキミ年下でしょ」
「1歳だけだろ!」
 ベレトは目の前の少女が自分より背が高い事に気がついて、コンプレックスに火がついてしまった。これは彼の家が保守的で父権的な家で育ったせいでもある。彼は女という生き物を見下しているつもりは無かったが、女性はか弱いと思うあまり、自分より強い女、大きな女を認められずにいるのだ。だがそれも、目の前の少女には無意味なようだった。
「じゃあベレトね。わたしのこともアデリーって呼んでいいから」
 未だ余裕の態度を見せるアデリーにベレトは憤ったが、それを口にするより先に彼女が口を開く。
「それで、さっきの奴らは何?何で地面から出てきたの?」
「それは俺たちも知りたいところだ」
 ポアズが辺りを見回す。
「お前……キミを追いかけてきた奴らは?」
 アデリーは少しだけ目を伏せながら「死んじゃった」とだけ呟く。
「みたいだな……だいたいこんな魔法力持った女見たことないぞ。もしかしてカラージの魔法部隊所属か?」
「まさか」
 ベレトはそう言うアデリーの顔に侮蔑のような影を見た。
「生まれつき強いのよ、わたしの魔法力は」
 そのまま一瞬の沈黙が訪れ、三人は揃って辺りを見回し始める。
「どうする?ポアズ」
「どうもこうも、一旦戻って隊長に報告するしかねえだろ。なあ、アンタもついて来てもらうぞ」
「わたし?なんで?どうして?」
「森の中で敵と遭遇して、通りすがりの女の子に助けてもらいました。なんて言っても信じてもらえねえだろ。それにこんだけデカイ魔法ぶっ放したんだ。使った本人がいなきゃ俺たちが魔法力を使った事にされちまう」
 アデリーは不服そうに鼻を膨らませ、無言の抗議を試みる。しかしポアズはそれを全く意に介さず、まるで女学生を叱る教師のような面持ちになっていた。
「断ったら?」
「ぶん殴ってでも連れていく」
「できると思う?」
 アデリーの両手に薄い光がぼうと宿る。
「ねぇ、ポアズ。ポアズさ」
 その空気を察してかベレトがポアズの肘の辺りをこつんと小突いた。
「あいつら、何だったと思う?」
「何だって何だよ」
「オレらと同じ斥候にしては数が多いし、別働隊にしては少ないじゃん。そもそも何で地面から出てきたんだろ?」
「そりゃお前、伏兵…………にしても少ないか」
 話の腰を折られて不満顔だったポアズの目に光が宿る。
「でしょ?伏兵だったら俺たちを絶対逃がさないようにもっと出てくるか、わざと見逃してここに誘いこむはずじゃん」
「アデリーちゃんの腕っ節にビビッたかな」
 ポアズの目の前でアデリーがふんと鼻を鳴らす。子供扱いされたのが癪に障ったらしい。
「確かに、ソイツの魔法は凄かったけど、それにしても違和感あるんだ」
「あの」
 棘のある声でアデリーが言う。
「さっきから人を子供扱いしたり、ソイツとか言ったりなんなの?」
 ポアズはやれやれと言いたげな顔だが、ベレトはずいと前に出る。
「今大事な話してるんだから黙っててくれ」
「そう、じゃあ、わたしはこれで」
 そういって踵を返そうとするアデリーの腕をベレトが強く引く。その思ったよりも華奢な感触に一瞬罪悪感を覚えるベレトだったが、彼女と目を合わせた瞬間それは吹き飛んだ。アデリーの目は強い苛立ちと不満で鋭く磨かれ、滑るような栗色の長髪の向こうから矢を射掛けんばかりの形相である。
「離して」
 いやだ。ベレトにはそう言うのが精一杯だった。その後方からポアズが声をかける。
「まぁ待てよ、あんだけの魔法使ったんだ、遅かれ早かれ俺らの仲間かカラージの連中がここに来る。もし先に来るのがカラージの連中だった場合、アンタひとりで100人規模の兵隊の相手が出来るか?俺らといた方が、ずっと生き残る可能性があると思うけど」
 アデリーは未だ憮然とした表情だったが、いくら彼女と言えど100人の敵を相手にする自信は無いらしい。
「わかった。でも、責任なんてとらないからね。お金だって無いし」
 そんなの期待しちゃいないよ、とでも言いたげなポアズの横顔を見上げつつ、ベレトの頭には別の考えが浮かんでいた。
「なあ、ポアズ。1つ、試したい事あるんだけど」
「ん?そんな事より、さっさと陣地に撤退すべきだろ」
「いいから聞けよ。オレのもう一個の特技、やってみようと思うんだ」
 ベレトは手首を返して糸を引くような仕草をしてみせる。それを見てポアズは少しだけ思案するが、答えを聞くより先にベレトは近くで事切れている兵隊へと駆け寄り、ポーチの中を物色し始めた。
「ちょっと、何してるの?」
 諌めるような声色のアデリーを無視して、ベレトはその男のポーチから弾丸を1つ拝借する。それを左手に握ったベレトは小さく息を吸うと、そのまま動かなくなってしまった。
「ねぇ、アレ、何してるの?」
「いいから黙ってな」
 窘められたアデリーは不満顔だが、ポアズの真剣な口ぶりににそれ以上の追及を断念した。
 俯いたまま黙っていたベレトは、何かを思い出したかのように胸ポケットから弾薬を記録するための帳面を取り出して、何事かを書き記す。
「ゴメン、やっぱダメだわ。早くみんなと合流しようぜ!」
 そう言ってベレトから差し出された帳面にはこう記されていた。

【囲まれてる。たぶん、2、30人】

 ええっ、と大きな声を上げるアデリーの口をポアズの大きな手が塞ぐ。
「そうか、じゃあ、戻るぞ」
「あ、でもちょっと待って、靴紐直すから」
 二人は少々大げさな声でやりとりを繰り返しているが、ベレトの手は素早く動き続ける。
【魔法はまだ使えるな?】
 口を塞がれたままアデリーは首肯し、それを確認したベレトは続きを書き上げる。
【地面から弾が飛び出して来たら、そこ目がけてさっきの氷を突き刺して。地面深く刺さるように】
「おい、ベレト、早くしねえと置いてくぞ」
「待ってよポアズ」
【ポアズはソイツの護衛】
 ポアズが頷く。アデリーは未だ納得できていなかったが、それでも今が窮地という事は理解できた。彼女は自身の両手に力を込めると、青白い光がぼうと灯る。

「さて、行くぞ……!」

 ベレトは目の前に差し出した掌をぎゅっと握り、まるで見えない糸を手繰り寄せるように強く引いた。三人の目の前10メートルほど先の地面から、バスッという音を立てて小さな塊が飛び出してくる。アデリーは一瞬驚いて目を丸くしたが、すぐに大きな氷塊を生み出した。
「氷槍……そこ!」
 アデリーは手の中で2メートル超の氷の槍を作り出して、それを土煙の舞う場所目がけて投擲する。ごう、という音を立てて空中を滑空した氷の槍が地面深く突き刺さる。
「右!」
 手ごたえを感じる間もなくベレトの声が響く。アデリーが視線を右へ向けると、また小さな土煙がバスンッと音を立てて上がった。
「もう……!」
 悪態を吐く間もなく、アデリーは次の槍を投擲する。
「後ろ!」
 ベレトは片手を地面に当てたまま、次々と手をかざしては引いていく。次々と上がる小さな土煙目がけてアデリーの槍が突き刺さっていく。そのうちに1つ2つと大きな土煙が上がると、ポアズがそれ目がけて引き金を引いていった。バァンと1つ大きな音と、くぐもったようなうめき声がする。
 ポアズは初めから敵が銃を使えないと踏んでいた。土に潜っている以上長い小銃を持っていることは考えにくく、持っていたとしても土煙の中から飛び出してくるならば、瞬時に照準をつけることは難しい。それに比べてコチラはその土煙の中心目がけて引き金を引けばいい。怖いのは―
「ベレト、お前の銃よこせ!」
「はいよ!」
 ベレトは肩から襷がけにしていた小銃をポアズ目がけて投げると、それを受け取ったポアズは迷い無く、土煙のほう目がけてそれを投げ込んだ。先込め式の銃は装填に時間がかかり過ぎる。それならいっそ、銃剣で突き殺した方が俄然早いと判断したのだ。
「おい!オレの銃!」
「お前の銃が軽くてちょうどいいのが悪い!」
 事実、ベレトの銃は身長に合わせてやや銃身が短かった。
「ちょっと!まだいるの!?」
 アデリーは長い髪を振り乱しながら次々と槍を放っていくが、四方から現れる敵の猛攻に怖気つき始めていた。実際のところベレトもそれは同じだった。自分の見立てが甘かったのか、敵の勢いは衰える様子が無い。
「ポアズ!」
「走るぞ!」
 言葉を交すまでもなく、ベレトとポアズは同じ事を考えていた。バンという音がして三人の間を銃弾が過ぎていく。アデリーはきゃっと短い悲鳴を上げて小さく屈んでしまった。ベレトは既に痺れ始めていた右手で短銃を抜き、その銃声の来た方へ一発引き金を引いた。
「走れ!……アデリー!」
 ベレトは少女の名前を呼ぶことに一瞬躊躇ったが、名前を呼ばれたアデリーは転げるように走り出した。
「ベレト!嬢ちゃんを!」
「分かってる!」
 ポアズは銃を一発撃ってからアデリーとは別の方向へ走り出した。ベレトはアデリーの背中を追い始めると、あっという間に追いついた。
「どこに逃げるの!?」
「あっち!オレ達の陣地がある!」
 二人の背中目がけて銃弾が飛び交う。一発は木に、もう一発は地面で炸裂し、小さな土煙が舞う。
「なあ!一発、デカイの出せるか!?」
「デカイのって!?」
「馬鹿!魔法に決まってんだろ!」
 気の強いアデリーもこの状態では言い返す気にはなれなかった。彼女は力を両手に込めると「いける!」とだけ答えた。
「どこでもいい!後ろ目がけて放り込め!」
「氷塊!10!」
 そう言ってアデリーは周囲に発生させた氷の塊を狙いも定めず後方へ撃ち放った。続いて数度轟音が響く。
「アデリーこっちだ!」
 ベレトは少女の腕を再度引き、近くの大岩の影に飛び込んだ。銃撃が一時止んで、周囲は先ほどの喧騒を忘れたように静かになった。二人の耳にはお互いの息遣いだけが聞こえている。
「はぁはぁはぁ……」
「はぁ……はぁ……怪我は……?」
「…………してない……でも……」
 そういってアデリーはぶっきらぼうに左手を差し出した。それは先ほどベレトが掴んだ方の腕だった。
「痣になった……」 
 恨めしそうに言う彼女の横顔に、汗の雫がきらりと光る。幾筋かの水滴が顎から零れ、湿った地面をぱちんと叩いた。
「二回も同じとこ掴む事無いじゃない……」
 ベレトは苛立ちと同時に安堵もした。あの死地を潜り抜けてまず真っ先に厭味が言えるのは余裕がある証拠だ。これでもし狂乱でもされていたら、最悪彼女を囮に逃げる算段もしなければいけないところだった。
「……両手に一個ずつ痣ができるよりいいだろ」
 だからベレトは精一杯の皮肉を言った。そしてアデリーも「最悪」と毒づきながらも皮肉っぽい笑みを浮かべてみせる。そのやり取りは相棒との無駄話を想起させて、ベレトの気持ちはざわつく。相棒は、ポアズは無事であろうか。
「さっきのアレ、なに?」
 アデリーは先ほどベレトがやったように手首をくいくいとやって見せた。
「あれは……鉄寄せっていうんだ。じいちゃんが教えてくれた」
「鉄寄せ?」
 ベレトは手中に弾丸を精製しながら語りだす。
「うちは代々“土”の家系でさ、特にオレは鉄と相性がいいみたいなんだ。だからこうして地面に含まれる金属からこうやって弾丸作ったり」
 右の掌に乗った弾丸を見せてから握り直すと、左手に同じような弾丸がもう1つ出来ていた。
「こうやって複製したりできるんだ。で、さっきの鉄寄せは、因果のある金属同士を引き寄せる魔法なんだよ。同じ場所で作られたり、同じ人が作ったもの同士を引き寄せる事が出来るわけ。まあ、有効範囲はさほど広く無いし使い道なんて探し物か」
 盗みしか無いからな。と言おうとして止めた。あまり思い出したくない。
「おま……アデリーもそうだろ?」
「え?」
「魔法。こんな暖かい土地に氷属性持ちなんて珍しいし、どっかから越して来たのか?」
 そう聞かれた少女は遠くを眺めてから、声色を落として呟く。
「わかんない」
 まるで木から果実が木から腐り落ちるような、そんな投げやりな言い草だった。
「どこで生まれたかも分かんないし、親の顔なんて見たことない」
 ベレトも傭兵である。傭兵であるからには後ろ暗いような連中や、出自を語りたがらない人間も多くいたため、そういった話は珍しく無かった。しかし、相手は自分と歳の変わらぬ少女である。言葉が見つからないのも仕方の無いことだった。
 ダーンッ、という音が低い残響を残して響く。二人は一瞬で身構えると、その音が遠い事を確信した。ポアズだ。確証は無いがベレトは確信した。
「よし、走るぞ!」
 その音を合図に二人は走り出した。案の定、先ほどの銃声で一瞬気がそれたのか、後方からの銃撃はワンテンポ遅かった。
 突然正面に敵が現れる。ベレトは迷い無くその体に突進し、腰に挿してあったナイフを体ごと突き刺した。男の振るう銃剣はベレトの頭を掠めて空を切る。ベレトは男ごとその場に倒れたが、即座に体勢を変えてナイフを引き抜く。追われている以上追撃は無用。ベレトは再び走りだす。後ろを着いて来ていたはずのアデリーはベレトを追い越し、今は背中を見せている。走るたびに揺れる長髪が、緑の世界で浮かぶように際立って見えた。
「まだ着かないの!?」
 アデリーは叫んだ。叫ぶと同時に拳大の氷塊を精製し、物陰から出てきた男に向かって投げつける。氷塊は外れ、男が隠れていた木の幹で砕け散るが、男が放った弾丸もまた大きく軌道を逸らした。ベレトは短銃の銃床で男の顎を強打し昏倒させると、前方ではアデリーが何か汚い言葉を叫びながら疾走していく。先ほどから浴びせられる銃弾の数が増えている。恐らくポアズ一人よりも、二人いるコチラを優先したであろう事はベレトにも分かった。そしてそれは、強力な魔法を放つアデリーを仕留めようとしているからだという事も。
「ベレト!」
 アデリーの声がして、ベレトはそちらに視線を移そうとした。しかし彼はそれが出来なかった。
 彼の視界は反転して回転し、中空を舞っていたからだ。
 短い滞空の後、続いて訪れる強い衝撃に息が詰る。幸い首や頭からは落ちなかったものの、背中を強打してしまったベレトは思考を取り戻すのさえ困難だった。
 ズンという音が森の中に響いて、湿り気を帯びた重たい砂煙がもうと舞い上がる。首を持ち上げる事さえままならなくなったベレトの代わりに、アデリーはその威容の男を見上げていた。
 男の体は土だった。森を支える黒土を身に纏い、身の丈を3メートルから4メートルにも巨大化させたその男は、素焼きの陶器のようなザラついた顔を歪ませながら、嘲るように笑っている。
「氷柱!5本!」
 アデリーが叫ぶように氷を呼んで、その切っ先を眼前の巨人へ突き刺した。ベレトを守るように地面から飛び出した氷の柱は、巨人の胸や大腿部、人であるなら眼窩の辺りを貫通する。その狙いは、彼女の無意識に魔法が反応した結果だ。巨人を止めようとする彼女の意思が、無意識のうちに人の急所と同じ部位を目がけて氷を走らせたのだ。
 しかし、巨人はその氷柱を水のようにすり抜けて前進する。足元に横たわるベレトを蹴り飛ばし、鈍い落下音と低木の枝が折れる火花のような音がした。
 アデリーは立ち尽くす。脚が振るえ、呼吸は乱れる。逃げ出すことも考えたが、一歩が人の10倍もありそうなこの巨人から逃げられるだろうか。ベレトを助けようとも考えた。だが、それでは足手まといが増えるだけだ。では、ではどうしたらいいのだろう。命乞いをする気にはなれなかった。戦場であれだけ人を殺傷して赦される道理は無い。せいぜい男達に嬲られている間ぶんは生きながらえる、というだけである。そう考えたアデリーは両手に力を込め、魔法が出せるかどうか、手ごたえを確かめた。出せる。もう一度くらいなら、周囲を氷漬けにする広域魔法「氷異界」が出せる。
 しかし――
 巨人は腕を振りかぶって拳骨を打ち下ろす。アデリーは横に飛び退けるが、巻き上がる砂埃の向こうから現れた巨大な掌がアデリーの全身を強く打ち据えた。悲鳴を上げる事も出来ず、アデリーの細い身体は黒い地面を転げまわった。高所から落下したような衝撃に、内臓が内側から弾けるように痛む。

 痛い。痛い、イタイイタイ。

 経験した事のない激痛に、思考の中まで真っ赤に染色される。掌に込めて力がまるで蛍のように散っていくのを感じて、アデリーは内心焦りを感じるが、全身を引き裂かんばかりの激痛が集中する事を許してくれない。口の中に血の味が広がる。体内で暴れまわる心臓が内側からひび割れた肋骨を叩き、深呼吸さえすることが出来ない。
 ずん、ずん、という足音が聞こえ、顔を照らす木漏れ日が土くれの巨体によって遮られた。
「………氷……槍……!」
 アデリーの掌から現れた鋭利な氷が巨人のみぞおちを貫通するが、それさえも巨人には効かず、彼女の顔に絶望が色濃く滲んでいく。
 人じゃない。土を身に纏うのではなく、土くれの巨人を生み出す魔法など聞いた事が無かったが、これまでに貫いた箇所を考えてみる限り中に人がいるとは思えない。ばこっという音とともに氷の槍が折れて、ずるずると抜け落ちていく。アデリーの眼前に落下したそれは、魔法による結合力を失って、ガラスのような音を立て砕け散る。アデリーの胴体ほどもある巨大な手が彼女の身体をむんずと掴む。まるでトロフィーでも掲げるように高々と持ち上げられた彼女の身体は、完全にその手中に埋もれてしまう。体中が聞いたことも無いような悲鳴を上げ、朦朧としていく意識の中で、彼女は助けを、誰かの助けを求めた。
 あの嫌味な“ノッポ”はどこへ行ったか分からない。一緒に走ってきた生意気な“少年”は今はもう気配すら感じない。だから誰に求めたら良いか分からない助けを、腹の底から搾り出した。

 たすけて。

 そう呟いたつもりだったが、その声は音も無く森のざわめきに吸い込まれていく。

 たすけて。

 もう一度、結果は変わらない。それでも彼女にはそれを祈る以外に出来ることが無かった。だからもう一度、彼女は――


 巨人の動きが止まる。

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