見出し画像

芽生えの森③

 騒々しい森の囁きさえも凍りつき、口の中を支配する鉄錆のような味が、虚空に放り出されたように和らいだ。
 彼女の全身を締め付けていた暴力的な握力は次第に弱まり、彼女は呼吸を取り戻していく。呼吸の次に蘇ってくるのは意識と思考。何故、どうして、何が起きているのか――
 巨人の手から魔法の力を感じる。それはその巨人のモノでは無く、手の甲から外側へと伸びているように感じた。その力の糸を辿るようにアデリーが視線を動かしていくと――

「離せ木偶の坊!」

 あの少年が、まるでロープを引いてマストを動かそうとする水夫のように、見えない魔法の糸を必死に引いていた。口の端から血が滲み、落下の際に打ったのであろう額からは、鮮血が汗のように流れている。
 鉄寄せ。
 砂と言っても極小の鉱物が集まったものだ。彼はその一粒一粒に因果を結び、それをまとめて引いているのだ。銃声が2つ聞こえて彼の顔を掠めていく。動く事のできない彼は格好の的だ。それでも彼は怯む事無く、歯を食いしばってその場に留まっている。
「逃げて」
 アデリーの口から本能とは真逆の声が零れ落ち、その微かな響きは銃声の叫びにかき消されていく。
 無理だ。ダメだ。助かりっこない。
 彼がしている事は足止めでしかない。それでは――

「隊長おおおおおッ!」

 ベレトの絶叫と同時に、アデリーの身体が宙を舞う。身体を締め付けていた巨大な手は砂のように辺りに散って、彼女の身体は地面へと自由落下していく。
 アデリーが地面へと吸い寄せられる瞬間ベレトは走り出し、落下地点へ飛び出していくが、彼の小さな身体ではアデリーを受け止めることが出来ず、殆ど衝突同然に彼女を抱きしめた。二人の身体は湿った地面の上で重なり、二人の低いうめき声が衝撃音に重なった。


 自分の身に何が起きたのか、巨人の男には分からなかっただろう。突然二の腕の感覚が途絶えて、魔法によって練り上げられていた己が腕が身体が、ただの土くれへと還っていく。
 切り取られた腕に鈍い痛みが来る。
 いいやそれは、熱だった。
 彼がその意味を悟った瞬間、火が、炎が、彼の足元から湧き上がる。その炎は腰程までしか届かなかったが、急速に熱を持っていく自分の身体が赤熱して行くのを感じて、彼は裏腹に寒気を覚えた。必死に足元を踏みつけ、腕を大きく振って燃え盛る炎をかき消そうとするが、その炎は全く衰える様子が無い。
 彼は悟った。これは木や地面が燃えているのではない。魔力がそのまま炎となっている。
 恐怖に駆られ混乱を極めていく頭を振り回し、彼はその身体の中でもがき苦しんだ。アデリーの魔法が通じなかった理由は簡単だった。彼は魔力によって作り上げた体の中で移動し、アデリーの攻撃をかわしていたに過ぎない。さすがに5本の氷に貫かれたときは肝を冷やしたようだが、その攻撃を予見し、左足の脛の辺りにいた彼には何の意味も成さなかったのだ。
 しかし今は違う。猛火によって足元から熱され、土の身体はまるで竈に投げ入れられたように、もうもうとした煙をあげて温められていく。彼はもがく。まるで自分の身体の中を泳ぐようにして上を目指す。一番熱が低い場所へ、本能的に身体が目指す。
 体中から水分を吐き出した土の身体からは、酸素さえも奪われていき、彼は全身を苛む猛火と酸欠から逃れるためにその巨体の頭頂部から顔を出した。それはまるで溺死寸前の遭難者のようにも見えたが、彼の命を奪ったのは酸欠でも炎でもない。一発の銃弾だった。
 彼はその命が尽きる瞬間、この身体を燃やし尽くした男の姿を見た。
 燃えるようなブロンドの短い髪、獲物を射竦める猛禽類のような鋭い目、決して届くはずのない距離からこちらの目を貫かんばかりに伸ばされた指には、金の指輪が光り輝いていた。


「ん?おい、誰だ今撃ったのは。美味しいとこ掻っ攫いやがって、そんな傭兵に育てた覚えはねえぞ」
「隊長」
 巨人の中から現れた男にトドメを刺すべく、指先に魔法力を込めていた傭兵隊長ウォーレスは、背後から現れた長身の部下を睨みつける。
「ポアズ、てめぇオレの獲物を横取りとはいい度胸じゃねえか、おい」
「すいません、当てられるので、つい」
 謝罪を口にしつつも、心の中ではなんとも思っていない。ポアズとはそういう男だと知っていたウォーレスは深い深いため息をついた。
「お前、減給と飯無し、どっちがいい」
「飯なしでお願いします」
 即答だった。これもやはり予想通りだった。
「冗談だ馬鹿。それよりおチビと……アイツに捕まってたヤツ、助けて来い」
 元の土へと崩れ去っていく巨人の亡骸を一瞥してから、ウォーレスは呟く。
「女だったよな?」
 ポアズは表情を変えずに応え
「ガキですよ」
 とだけ言って、銃を肩にかけ、二人の下へ向かう。


 ベレトは天を見つめていた。
 先ほどまで飛び交っていた銃声は遠くの方で散発的に響くばかりで、彼の目に映るのは能天気なほどに晴れ渡る晴天と、エメラルドの木漏れ日だけだ。
「ベレト、嬢ちゃん、元気だったか?」
 低く、落ち着いた、それでいて清涼感を感じさせる相棒の声が空より降ってくる。まるでピクニックにでも来ていたのだったかと思えるような、その呑気な声は、自分が生きているという実感をベレトに感じさせてくれる。
「元気だと思うか?」
「顎と鼻の間は元気じゃねえか」
 小さな笑いが2つ、重なった。
「嬢ちゃんは?」
 ベレトは自分の上で仰向けに寝そべる少女の体重を思い出す。少女の小さな呼吸音に続いて、「私も」という声が聞こえた。
「私も、顎と鼻の間は元気」
 流石にその声は弱弱しかったが、それでも彼女の無事を、ベレトは心から喜んだ。もちろん、声に出したりはしなかったが。
「おう、ベレト、お前やっぱり下になる方か」
 視界に現れた金髪の隊長は、にやけ顔を浮かべながら言う。「やっぱりってどういう意味っすか」と言い返すベレトの頭をつま先で小突き、彼は少女へ手を伸ばした。
「大丈夫か?立てる?ほらっ」
 少女の白い腕と、男の浅黒い肌が重なり、ベレトの上から重みが消えていく。
「ありがとう」
 少女の声は柔らかい。緊張から解かれた安堵感だろう、よろよろと立ち上がる彼女の顔にはうっすらと笑みさえ浮かんでいる。ベレトは真下からウォーレスの喉元を見上げ、喉仏が動くさまを見つめた。
「あれ?君、もしかして先週町で会わなかった?」
「……はい?」
 アデリーの気の抜けた返事と、ポアズの口から漏れたであろうため息が確かに聞こえた。
「隊長、ナンパまで早くないっすか」
「ちげえよ、マジな話だ」
「あの……私、町には行ってませんし、あなたのこと、知りません」
「ホントに?おかしいな……オレが女の顔間違えるなんてなあ」
 ウォーレスは幾度も頸を捻りながら頭を掻いている。
「双子とか」
「知りません」
 アデリーの顔からは笑みが消え、疲れ切ったような口ぶりで、ウォーレスの質問を返していく。
「ただの勘違いですよ、どうせ酔ってたんじゃないっすか?」
「確かに酒場で会ったけどな、しばらく話してたんだぞ。忘れねえよ、こんな」
 可愛い子、と、軽薄な笑みを浮かべるウォーレスに、ベレトは呆れるより先に笑い出してしまった。
「何笑ってんだ、おチビ」
 もう一度頭を小突かれて、ベレトはなんだか嬉しくなってしまった。

 生きてる。まだ、こんなにも。

 銃声はもう、止んでいた。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?