あいことばは愛のささやき

【作品あらすじ】
 愛する女性が代々自分のもとを去ってしまうオルゴール職人の家に生まれ、恋愛に希望を持てない少年・慶。職人だった祖父がオルゴールの箱に彫った少女は、あいことばを言わないと蓋を開けないと告げる――『あいことばは愛のささやき』
 双子の姉妹で営んでいた洋裁店『セシル』は、若い女性に人気の店。飛ぶように売れる洋服を作る姉妹を、実はひとりのセシルが演じていることを誰も知らない――『三人目のセシル』
 様々な恋愛模様を描く短編小説。




 ひらけ、ごま。
 慶(けい)が唇を開くよりも早く、窓の外で風が鳴いた。
 礒の香りを孕んだ潮風が窓ガラスを白く染めている。暦の上では春も近いのだが、北の街では雪がまだ多く残っていた。凍てつく海原の上、鰊のかかった網を引く漁師の手はさぞ冷たかろうと思う。
 海沿いの集落は鰊漁に精を出し、市街地では商いの店が盛んに金をまわしている。小樽の風は慶の言葉をかすめ取るかのように空へと消えていった。
「どうしたの? 合い言葉を言ってよ」
 慶の手のひらの上で、鈴を転がすような愛らしい声がする。まるく大きな瞳でこちらを見上げながら、彼女は繰り返した。
「合い言葉を言って」
 彼女は木箱の蓋に彫られた装飾だった。
   やわらかな木目から生まれ出たかのように繊細に刻み込まれた姿。ドレープをふんだんにあしらったドレスが華奢な身体を包み、長く豊かな髪が波間のように漂っている。あどけなさの残る乙女であるはずだが、こちらを見上げる瞳は愁いの色を帯びていた。
 城の門を守る兵士のように、彼女は慶に向かって腕を組む。職人の手によって命を吹き込まれた少女は、木箱の中に眠るオルゴールの番人だった。
「私の歌を聴きたかったら、合い言葉を言いなさい」
 彼女は毎日、こう言っては慶のことを困らせている。
 合い言葉とやらを唱えないと、この蓋は決して開かないらしい。

     ○

 慶の祖父は小樽でも有数の指に入るオルゴール職人だった。
「おじいちゃん、調子どう?」
 けれどいまは、ぜんまいを巻く手が動かない。
「このオルゴールが聴きたいの? ちょっと待ってね」
 その皺だらけの手からオルゴールを受け取り、慶はぜんまいを巻く。木箱の底からのぞくぜんまいは、巻くごとにかちかちと軽い音で手ごたえを教えた。
 祖父がかつて作ったオルゴールだった。細かな装飾の施された木箱の中にそれが眠っている。じっと見つめる祖父は催促をしているのかそれとも丁寧さを求めているのか、慶は慎重にオルゴールに息を吹き込む。
 巻きすぎると中でぜんまいが壊れてしまう。程よい張りを感じたところで指を離した。
「綺麗な音ですね」
 流れるオルゴールの音色を聴いて、診察を終えた医師が祖父に話しかける。週に一回、近所の診療所から往診に来てもらっていた。毎回根気強く声をかけてくれるのだが、祖父は口を真一文字に引き締めたまま開かない。
 祖父の唇は言葉を紡ぐ術を失っていた。
「これ、ヴィヴァルディの『春』ね」
 付き添いの看護婦が往診鞄を片付ける。ぱんぱんに膨らんだその鞄はこの界隈にある革製品の店で作られたものだ。小樽はガラス工房ばかりではなく、様々な職人が集まっているのだった。
 北のウォール街――石造りの銀行がそびえる商業の街で、職人たちは自分の腕一本で日々の生計を立てている。群来を迎えた海では鰊の豊漁が続き、岬では贅の限りを尽くした鰊御殿が建設中と噂されている。男たちはみなこぞって海に繰り出しているが、頑固者の職人たちは潮風を浴びもせず己の技術を磨いていた。
 自転車操業のオルゴール店よりも、漁場に出たほうが祖父の治療費を稼げるだろう。しかし、凍てついた海に指先の感覚を奪われるわけにはいかない。祖父が失った手指の灯を、自分が受け継がなければならないと慶は思う。
 職人を失った店は今にも消えてしまいそうな蝋燭のようなものだ。隙間風の吹きすさぶ部屋の中で、看護婦のハミングが日向のようにあたたかかった。
 彼女が気に入ってくれるのなら、オルゴールをずっと聴かせてあげたいと思う。しかし、次の診察が待つ医師は足早に部屋を出ていった。自宅は店の二階に構えている。階段を下る足音の音階を拾いながら、慶はうっとりと聞き惚れる彼女に声をかけた。
「急がないと置いていかれますよ」
「やだ、大変!」
 診察鞄を持ち上げ、彼女は祖父に挨拶をする。部屋に流れる旋律と相まって、大輪の花がほころぶような春の笑顔を見せた。
「それじゃあ、失礼します。なにかあったらいつでも呼んでくださいね」
 無言の祖父に一礼して、彼女は部屋を出る。華奢な腕に食い込む持ち手が痛々しく、慶はたまらず手を差し伸べた。
「ありがとう」
「こちらこそ、おじいちゃんのオルゴールを褒めてくれてありがとう」
「次の休みに、お店に遊びに行くわ。ほかの曲も聴いてみたいの」
「クラシックのほかにも色んな曲があるよ。おじいちゃんの新作は、もう置けないと思うけど……」
 そう声を落とす慶に、彼女がまた春の笑顔を見せる。
「毎日すこしずつ訓練すれば大丈夫よ。手だって動かせるようになるわ」
 医師の診察を間近で見ている彼女は、慶よりも病状を把握しているに違いない。ある日突然倒れ、半身が麻痺して寝たきりになってしまった祖父。言葉もうまく話せず、赤子のような喃語で意思の疎通をはかっている。高齢の身体でどれほどの回復が望めるのか、彼女が一番わかっているはずなのにそんな慰めを言う。
「慶のお父さんはまだ帰ってこないの? 買い出しで内地に行ってるのよね?」
「一度出かけたらひと月は帰ってこないからね。今月はまだ顔も見てないよ」
 治療費の入った封筒を手渡しながら、慶は曇る表情を伏せた。
「どんなに探したところで、母さんは絶対に帰ってこないよ」
「……それぐらい、お父様はお母様のことを愛しているということよ」
 慶の家庭事情を気にかけるなど、看護婦の仕事の範疇をこえている。しかし、彼女はいつも必ず声をかけてくれた。戴帽式を終えたばかりの新米看護婦にとって、年頃の近い慶は親近感がわくのだろう。白衣の胸ポケットから、彼女は一枚の紙切れを取り出す。
「慶にお願いがあるの。この曲のオルゴールを作ってくれない?」
 その紙に書かれたタイトルを見て、慶は一瞬、息をつまらせた。
「鞠谷琴路(まりやことじ)……」
「そう。わたし、琴路の『愛の詩(うた)』が大好きなの。お願いね」
 両の手のひらを合わせ、彼女は上目づかいに見つめる。その期待をこめたまなざしに、慶は曖昧に笑うしかなかった。
「恋愛の曲は、僕には難しいな……」
「おじいさまの作るオルゴールは恋の曲が素晴らしいと聞くわ。孫の慶なら大丈夫よ、素敵な音色にしてくれると思うの」
 祖父もまた愛を失った人だと知ったら、彼女はどんな表情をするのだろう。
 いずれ自分も父や祖父のような道を歩むのだと、慶はいつも心の片隅で思っていた。


「――つまり、女難一家ってことね」
 オルゴールの少女は言った。
「まあ、一言でいえばそうかな」
 祖父の店を守るのは慶ひとりだった。一日のほとんどを店舗ですごし、時おり祖父の様子を見に階段を上る。新しいオルゴールを作れなくなったとはいえ祖父の作品は十二分に残っており、その売り上げが日々の生活を支えている。慶は時おり舞い込む修理の依頼を受けていた。
 ひとりぼっちの店に、少女は良い話し相手だった。工房の隅で埃をかぶっていた彼女を見つけてから、慶はその蓋を開けようと日々試行錯誤を繰り返している。何の変哲もない木箱であるはずなのに、蓋に手をかけてもびくともしないのが不思議だった。
「だめ。合い言葉を言わないと開けない」
 無理に開けようとすれば、彼女の鋭い声が響く。かたくなな態度に嘆息して、慶は掃除用の羽箒を手にした。
「そんな冷たいこと言わないでよ、幸(さち)」
「幸なんてありふれた名前つけないで」
「別にありふれた名前じゃないと思うけど」
 羽箒で蓋のほこりを払うと、くすぐったそうに笑う声が店内にきらきらと響いた。
 彼女の名前を、慶は知らない。
 一年前、祖父が倒れてから工房は火の気が消えたようだった。看病の合間に掃除をしていた慶は、机の引き出しからこの木箱を見つけた。装飾の細かさに祖父の作だとわかった。
「くすぐってもだめだってば。合い言葉を言わないと、私、歌わないわよ」
 手のひらにすっぽりとおさまる年代物のオルゴールは内部にストッパーがあり、蓋を開けると音が鳴る仕組みになっている。鍵穴のたぐいは一切見当たらないが、蓋はにかわで貼りつけたかのようにぴったりと閉ざされていた。
「どうしておじいちゃんは、こんなオルゴール作ったんだろう」
「私の歌をひとりじめしたい人がいたからよ」
 門番のような少女といい、合い言葉という鍵といい、祖父はどんな仕掛けでこのオルゴールを作ったのか。くまなく調べてみても、謎はまったく解けなかった。
 このオルゴールを祖父に依頼した人物は、なぜ、完成しても引き取りに来なかったのだろう。引き出しの奥底に押し込まれていた幸は、いったいなにを思いながら依頼主が来るのを待ち続けていたのだろうか。
 すべては、この蓋が開けばわかるはずだ。
 慶はこの店にあるオルゴールの音色をすべて知っている。祖父の作った音を耳に刻み込むためだ。いつか祖父を超えるオルゴールを作るのだと、幼いころからずっと修行を重ねていた。
 この少女はどんな歌声をしているのだろう。毎日根気強く話しかけているが、幸が蓋を開く気配はない。
「女難一家っていったって、たまたま慶のおじいちゃんとお父さんが奥さんに逃げられたっていうだけでしょ?」
「男二代続いたことを、たまたまで済ませる幸はすごいね」
 もともとこの店は、祖父と両親の三人で営んでいた。オルゴールを作るのは祖父。材料の仕入れや依頼の窓口をするのが父。店に並べた商品を売るのは母の役割だった。祖父はいつも店の地下にある工房にこもり、慶は見よう見まねで作り方を覚えたのだ。
「母さんは店に来る客とできてたみたいでさ。父さんが仕入れで家を空けた時に荷物をまとめて出ていったんだ。僕がおじいちゃんの工房で遊んでいるのをいいことに、置手紙も残さなかったよ」
 母が出ていったのは、慶がひとりでオルゴールを作れるようになったころだった。完成した曲を聴かせようと店の階段を登ったあの日、オルゴールの音が消えた不気味な静けさを今もよく覚えている。
「あれからもう何年もたつのに、父さんはずっと探してるんだ。母さんと暮らしていたときのことを思い出すから、この家にいるのも嫌なんだと思う」
 祖母はどんな人だったのか。写真一枚残されておらず、慶は顔も知らなかった。
   祖父のオルゴールが認められるようになったのは晩年のことであり、昔は爪の先に火を灯すような貧しい生活を送っていたらしい。幼子を抱え、祖母が日銭を稼いで生活を工面していたのは想像に難くない。
  祖母のことを訊いても、祖父はおろか父ですら口を開こうとせず、夫と子供を置いて出て行ったという事実しか残されていなかった。
 いまはむさくるしい男所帯。幸の愛らしい声が耳に染み渡る。店を訪れる客と往診に来る看護婦以外、女性と話す機会もない。
 自分が母によく似た顔立ちに生まれたのは知っている。しかし、かつて持っていた少女のような声も、時が経つにつれすっかり大人の男へと変わってしまった。母の優しい声ももう思い出すことができない。
「……だから、僕は、女の人のことがよくわからない」
 父を捨て、息子を捨て、自分のためだけに生きた母。彼女はこの家を出たとき、いったいどんな表情をしていたのだろう。
「おじいちゃんの奥さんは、貧乏な生活に耐えきれなくなって逃げちゃったんだって。僕の家系は女の人に恵まれないんだよ」
 慶の話を、幸は膝を抱えながら聞いていた。まるで一枚の絵画のように、しなやかな躰を長い髪が覆っていた。
 羽箒で商品棚のほこりを落としていると、ふと、ハンドル式のオルゴールに目が留まった。いつものぜんまい式とは違い、手動でまわし続けないと音が鳴らない。おもちゃのように小さなハンドルをまわすと、寡黙な祖父が作ったとは思えないほど軽やかな音色が流れだした。
「昔はおじいちゃん、恋の曲が得意だったんだって。でもいまはもう作らない。父さんもオルゴールのことなんて気にもしてない」
 祖父は愛を捨てた人だった。
 父は愛にしがみついている人だった。
「――慶、おじゃましてもいい?」
 店の扉が開いて、慶は手を止めた。
「忙しかった?」
「ううん、全然」
 そこに立っていたのは、いつも往診に同行する看護婦の彼女だった。
「今日は休みだから、オルゴールを見に来たの。おじいちゃんの様子はどう?」
「最近は調子がいいみたいで、ご飯もよく食べてるよ」
 彼女からは砂糖のような甘い香りがする。「差し入れ」と渡された紙袋の中には、餡子のみっちりと詰まったぱんじゅうが入っていた。近所の商店街で買ったものらしく、まだあたたかい。
「聴きたいオルゴールがあったら好きに触っていいよ。ぜんまいは巻きすぎないように気をつけてね」
「わかったわ」
 言うわりに、彼女はオルゴールを見るだけで手に取ろうとしない。店に並ぶオルゴールにはすべてタイトルを添えている。文字を追って、目当てのものがないか探しているようだった。
「……やっぱりないね」
「琴路の曲?」
 鞠谷琴路。それは慶もよく知る往年の歌姫の名前だった。
「昨年、急に亡くなっちゃったでしょ。わたし琴路の歌が大好きで、レコードも全部持ってるの。このお店はいろんなオルゴールがあるって聞いて、琴路のもあるかなって思ったんだけど、やっぱり作ってないのね」
 まるで意中の彼を思うかのように、彼女は頬を染めて琴路の曲を口ずさんでみせる。
「今日は琴路のレコードを持ってきたの」
「ありがとう」
 鞄から取り出したレコードは、グランドピアノの前で歌う琴路の姿が描かれてる。赤いカクテルドレスと豊かな黒髪は、見ているだけで彼女の歌声が聞こえてきそうだった。
「急がないから、慶の思うように作って。ちゃんとお金は払うから、できたら教えてね」
 言うだけ言って、彼女は店を去って行った。
 呆然と立ち尽くす慶に、幸が木箱の中でくすくすと笑う。
「愛を拒む慶に、その曲は無理よ」

 かつて祖父がそうしていたように、慶はひとり作業台の前に座った。
 オルゴールを作るために必要なもの。それはすべてこの工房にそろっている。
 オルゴールの仕組みはいたってシンプルだが、手先の器用さが何よりも必要とされた。筒状のシリンダーに、針金のように細いピンを植え付ける作業は神経を使う。職人のさじ加減一つで音が決まるのだ。
 シリンダーが回転し、櫛歯をはじく一瞬の音が重なって、ひとつの旋律が出来上がる。
   筒状のシリンダーに曲に合わせてピンを植え付け、それが回転する際に櫛歯をはじいて音を鳴らす。そのひとつひとつの音が旋律となり、それが曲を形作るのだった。
 問題は、要であるメロディだ。
 祖父は店にある曲すべての楽譜と図面を保管していた。それがあれば慶でもオルゴールを作ることができる。けれど、楽譜も何もないレコードから作るのは初めてのことだった。
「慶には無理よ」
「やってみなきゃわからないじゃないか」
 幸と工房にこもり、慶はレコードを蓄音機に乗せる。祖父は長い修行の末に暗譜を身につけたというが、幼いころから音楽に親しんでいた慶は自然と音階が拾えるようになっていた。
 主要なメロディラインを拾っても、それにどうアレンジを加えるかでオルゴールの曲調ががらりと変わる。それもまた職人の腕にかかっているのだった。
 祖父に聞けばなにか助言をくれるかもしれない。曲と楽譜を照らし合わせ、間違いがあれば厳しく教えてくれるに違いない。
 けれど祖父は、この曲を聴くのを嫌がるだろう。
「できない仕事は断ればいいのに」
「おじいちゃんがああなってしまった以上、これからは僕がオルゴールを作っていかなきゃいけないんだ。あれもできないこれもできないじゃ、お客さんがどんどん離れてしまうよ」
 祖父がオルゴール職人としてこの店を立ち上げるまで、途方もない苦労があったに違いない。祖父の腕が世間に認められ、注文が来るようになり、ようやく一日三度のまともな食事をとれるようになったのだという。
 そんな大事な店を、自分の代でつぶしたくなかった。
「幸いこの曲は、音楽自体は簡単なんだ。ただ、それにどう他の音を添えていくかが問題なんだよ」
「……まぁ、やるだけやってみれば?」
 木箱の中の幸は、オルゴールのことになると子供のように拗ねてしまう。曲がりなりにも彼女だってオルゴールなのだが、ためになりそうなことは何一つ教えてくれなかった。
「一番上手に歌うのは私なのに」
「じゃあ幸の曲を聴かせてよ」
「いやよ。合い言葉を知らない人には歌わないわ」
 ならば作業の邪魔をしないでほしい、とは言えない。慶は何度も何度もレコードを繰り返し聞いては、その曲を楽譜に起こしていった。
 鞠谷琴路の『愛の詩』は、さびれた酒場の歌うたいだった彼女が歌姫となるきっかけをつくったデビュー曲だ。彼女は晩年まで様々な歌を残したが、『愛の詩』が一番の名曲だと慶は思う。
「……やっぱり、この曲は難しいね」
「だから言ったじゃない」
 幸がつくため息を、慶はおとなしく受け取った。
 音を拾うのは簡単だ。ゆったりとしたバラードで、特に音階が多いわけでもない。基本の音楽ならすぐに音を植えることができる。
 問題はどう編曲するかだった。
「『あなたを永遠に愛し続けます』なんて歌、どうやって作ったらいいかわかんないや」
 ひとりの男性を想い続ける一途な歌だ。陳腐だと言われればそれまでだが、彼女の歌声はそれを甘く切なく歌い上げている。看護婦の彼女があこがれるような『永遠の愛』を琴路は歌っていた。
「永遠の愛なんてあるわけないのに」
 つぶやきが、誰もいない工房に響く。祖父は眠っているのだろう、上の階から響く物音もない。自嘲の笑みは冷たい壁に消えた。
 握った鉛筆がふるえる。このまま楽譜を塗りつぶしてしまいたい。
 ありもしない愛など作りたくない。
「幸は愛って知ってる?」
「なによ突然」
「だって、僕にはどういうものなのかさっぱりわからないんだ」
 曲の終わった蓄音機の針を、はじめの場所に戻す。繰り返し繰り返し、琴路の声が流れる。それを聞きながら、慶は淡々と音を拾った。
「おじいちゃんはとうの昔に愛を捨ててしまった人だし。父さんはいまだに、自分が愛だと思っていたものを追いかけ続けているし。そんな二人を見てたら、この歌もただのおとぎ話にしか聞こえないんだ」
 たしかに素敵な歌だと思う。曲と歌詞と声とが一つに混じりあい、まるでオルゴールのように音が共鳴している。いままでもこれからも、ずっと人々に大切にされていく歌なのだろうと思った。
 この曲をオルゴールに仕上げれば需要も多いに違いない。慶が依頼を引き受けたのはそういう打算的な心があったからだ。
「慶は恋をしたことはないの?」
「ない……と思う。好きになりそうだと思っても、父さんの荒れた姿を間近に見えると冷めていってしまうんだ」
 両親の姿を見て、男女の愛はいつか崩れると知った。自分を置いて家を出た母に、親子の愛も脆いものなのだと知った。
「幸みたいに、ずっと想い続けていられる人がいるってうらやましいよ」
 彼女は合い言葉がなければ歌わない。
 合い言葉を知る人のためだけに、彼女は歌う。合い言葉を知る人を、彼女はずっと待ち続けているのだった。
 小さなオルゴールの蓋に彫られた、ひとりのはかなげな少女の姿。彼女はいったい何者なのか、祖父がどういう依頼を受けて作ったのか、なぜ完成しても依頼主のもとに渡らなかったのか、その事情を誰よりも彼女自身が知りたがっているに違いない。
「私はそのひとのために歌うの。そのために作られたの。だからずっと、迎えに来てくれるのを待っているのよ」
 幸の物憂げな瞳が、じっと慶を見上げる。年頃に似つかわしくない憂いを帯びたまなざしに、慶は譜面に綴る文字が歪んだ。
「ねぇ、慶。あなたはあの人が迎えに来てくれると思う?」
「それは……」
 何も言えず、慶はうつむく。幸のオルゴールの依頼主は誰なのか、いつ作られたものなのか、情報は一切残されていなかった。
 気休めなんて言いたくなかった。彼女に変な期待を持たせたくなかった。
「私ね、もう迎えなんて来ないってわかってるの。だって私、あの人にとてもひどいことしたんだもの、ゆるしてくれるはずがないんだわ」
「幸?」
「しかたなかったのよ。私には、ああするしかなかったの……」
 うつむき、幸はその肩をふるわせる。箱の中の少女にはハンカチを渡すこともできない。慶が鉛筆で汚れた指先を伸ばすと、つるつるとした木目がほのかにあたたかく感じた。
 彼女はきっと、愛を求める人なのだろう。
 愛とはどうしてこんなにも、人を惑わせてしまうのだろう。
 はがゆい思いをかみしめ、慶はそっと、口を開いた。
「……愛の詩を、私はずっと、歌い続けます」
 それは、蓄音機から流れている言葉だった。
「貴方のことを、ずっと、愛し続けます。いつか、貴方にこの歌がとどきますように」
「……慶、その歌、知ってるの?」
「母さんも、鞠谷琴路が大好きだったんだ」
 なにも見なくても、歌詞をそらんじることができる自分が恥ずかしい。慶は赤くなった頬を両手で押さえた。
「この曲は誰よりも幸にふさわしいと思ったから」
 下手な慰めなどいらない。彼女がただ一人のためだけに歌うように、せめて自分がかわりにこの言葉を贈ろうと思った。
「アイ、ラブ、ユー。幸」
「慶……」
 涙声の幸が、顔をあげる。お世辞にも上手と言えない慶の歌に、目じりに残る涙を拭って笑った。
「ありがとう、慶。さすが、あの人の孫ね」

     ○

「それじゃあ、今日の診察はこれで終わりです。なにかあったらすぐに呼んでくださいね」
 いつもの往診の日。診察のタイミングを見計らい、慶は声をかけた。
「先生、おじいちゃんはもう話せないんですか?」
「訓練を頑張れば大丈夫だよ。すこしずつ、簡単な言葉なら話せるようになるから」
「話せるようになるのはいつですか?」
「……慶、それは私が前にも言ったけど」
 いつになく焦る慶の様子に、医師が面食らう。なだめるように口を開いた看護婦は、慶が手に持った木箱に気づいて言葉を切った。
「おじいちゃんじゃないと、もう、このオルゴールの蓋は開かないんだ」
 慶は幸のオルゴールを持っていた。
 他の人の前では、彼女は決して動かない。オルゴールの蓋に彫られた可憐な少女の姿のまま、慶の手の中にすっぽりとおさまっていた。
「おじいちゃんが話せないと……」
 依頼主のほかに、ただひとり、合い言葉を知る人がいる。それはこのオルゴールを作った職人――つまり祖父だった。
「おじいちゃん、合い言葉を教えて」
 麻痺が残るその手に、慶は幸を乗せた。
「僕、このオルゴールを聴いてみたいんだ」
 一度だけでいい。彼女に歌ってほしかった。この小さな箱の中に閉じ込めた歌声が蘇れば、いつか依頼主のもとに届くのではないだろうかと思った。
「おじいちゃん、思い出して」
 齢を刻んだ手のひらごと、慶は両手で包み込む。かつて自分を彫り上げたその手のぬくもりを感じ、幸がかすかに微笑んだような気がした。
「慶、おじいちゃんは……」
 申し訳なさそうに、看護婦が口を開く。けれど慶は首を振って制した。
「大丈夫。おじいちゃんは、話せる」
 その手に自分の手を重ね、慶は祖父を見上げる。祈るように、じっと、自分と同じ血の通う瞳を見つめた。
「……あ」
 かすかに、祖父の唇から声が漏れた。
 口を閉ざしていた祖父が、声を発する。彼の声をすこしでも聞き取ろうと、部屋の中が静寂に包まれた。
「……アイ、ラブ、ユー」
 たしかに、祖父はそう言った。
「アイ、ラブ、ユー……琴路」
「……琴路?」
 慶がつぶやいた時。オルゴールの蓋が、かちりと鳴った。
 ――ありがとう、慶。
 慶にしか届かない、小さな声が聞こえた。はっと気づいて手を離すと、祖父はオルゴールをしっかりと握りしめていた。
 蓋が、開いていた。
「琴路……?」
 たしかに、祖父がその名前を呼んだ。その名前が示す人はひとりしかいない。
「……この曲」
 流れ始めたのは、慶が工房で繰り返し聴いていたあの曲だった。
 鞠谷琴路の『愛の詩』は、祖父が決して聴こうとしなかった愛の歌であったはずなのに。
「愛してるよ、琴路……」
 祖父が震える手で、オルゴールを持ち上げる。慶が手を添えると、彼はそっと、オルゴールの蓋に口づけをした。
 その姿を見て、慶はようやく気が付いた。
 これは祖父のオルゴールなのだと。
 祖父が愛した人を想い作ったものなのだと。
「琴路……」
 そしてこの少女は、かつての鞠谷琴路なのだと。
 貧しい一家を支えようと、酒場で働き歌っていた鞠谷琴路。オルゴール職人を目指す夫を支えるために、幼子を抱え日銭を稼いでいた妻と歌姫とを、どうしていままで結びつけることができなかったのだろう。
 祖父の口づけに、彼女は穏やかな表情で微笑んでいる。きっとこの少女の姿は、祖父のみが知る若かりし頃の鞠谷琴路なのだろう。
 祖父はすべて受け入れていた。自分たちのもとを離れていった琴路のことを、こうして彼女の曲とともに大切に胸にしまっていた。
 合い言葉を言わないと歌わないように。
 自分のためにだけ歌うように。
「おじいちゃん……」
 いま自分は、長い歳月を経た愛を見ている。
 熱くなる目頭を感じて、慶は瞼を閉じた。
 愛を捨てたはずの祖父は、こうして、愛を大切に守り続けていたのだった。
 今はふたりきりにさせてあげよう。慶はベッドから離れる。医師も看護婦もそれを察して、一緒に部屋から出た。
 愛の歌の響く部屋のドアを、慶はそっと閉める。はたして事情を察したのか、それともオルゴールの音色に感動したのか、医師も看護婦もそれぞれ涙を浮かべていた。
 それは慶も同じだった。
「素敵な音楽を、ありがとう」
「……僕がお礼を言われることじゃないです」
 看護婦からハンカチを手渡され、慶は素直にそれを受け取る。そしてふと、彼女と交わした約束を思い出した。
「オルゴールのことなんだけど、あの曲と同じものならすぐに作れると思うんだ」
「ううん、わたしは慶が作ってくれたオルゴールがいいな」
 そう言って、彼女は春の笑顔を浮かべる。目じりに残る涙が、窓からさしこむ陽ざしを浴びてきらりと光った。
「……じゃあ、さ。曲の長さとか、いろいろ打ち合わせしたいから、今度時間作れるかな」
 祖父が守り続けた愛を見て、慶は胸のつかえがとれていくのを感じる。
 自分にも、祖父のような愛を抱けるような気がした。
「食事でも一緒にどうかな、幸」
 看護婦の彼女――幸のために、愛の歌を作ろう。

       了

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