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三人目のセシル

「今日お店に立っているのは、マリーのほう? エリーのほう?」
「姉のマリーです。いらっしゃいませ」
 名乗りながら、私ははじめて店を訪れたお客様に優雅に微笑んだ。
「娘に頼まれていた服を取りにきたの。エリーさんに話せばわかると言われたのだけど」
「シエラさんからのご依頼はエリーから聞いています。こちらですね」
 大好きな彼とのデートのために作った、とっておきのスカート。カウンターの中に取り置きしておいた紙袋を取り出し、私はそれをお客様に見せる。
 依頼主と二人でデザインを決めた、花と蝶の刺繍が鮮やかなフレアスカート。裾からのぞく繊細なレースを見て、お母様はうっとりとため息をついた。
「素敵ね……」
「ありがとうございます」
 前髪が顔にかからないよう丁寧に頭を下げ、私はスカートを紙袋に戻す。お代はすでにいただいていたので、あとはこれをお母様に渡せばよかった。
 シエラさんの豊かなブロンドは母親ゆずりのものらしい。太陽の光をとじこめたようなまばゆい金の髪と空色の瞳が、彼との交際に胸躍らせる彼女の姿をありありと思い出させた。
「実はわたしも、娘になにかアクセサリーを買ってあげたいと思っているの」
「それなら服に合わせたものがいいですよね。昨日、新作が入荷したばかりなので一緒にお選びしますよ」
 カウンターの一角に、ネックレスやブレスレットを並べた小さなスペースがある。そのデザインはどれも儚くも可憐で、照明を受けてキラキラと輝く様を見て、お母様が再びほうっと息を吐く。
「……本当に、評判どおりのいいお店ね」
「ありがとうございます」
「今日はエリーさんはいないの?」
「エリーは買い出しで街に行っています」
 この質問をされるとき、私はいつもドキドキする。背中にじっとりと汗をかき、もう一人の私を出してほしいと言われないか身構えてしまう。
「エリーにはシエラさんのこと、私から伝えておきますので」
 この嘘を、いつまでも続けることができますように。蝶の飾りのついたネックレスを握りしめながら、私は心の中でそう祈った。

     〇

 小さな町にひっそりとたたずむ洋裁店『セシル』は、双子の姉妹が営む若い女性に人気の店だった。
 姉のマリー・セシルは落ち着いた上品な服、妹のエリー・セシルは甘く可愛らしい服と、作る服のスタイルはそれぞれ異なる。同じ顔をしながら全く違う格好をする双子のことを、店を訪れる女の子たちは憧れのまなざしで見つめていた。
 その双子が、妹のエリー・セシルひとりで演じているものだということを、知る人はこの町にいない。
『セシル』に並ぶ服のほとんどが私たち姉妹の手作りだった。時には客の好みに合わせてオーダーメイドの服を作ることもあり、死んだ両親が残した大切な店を私たちは二人で守り続けていた。
 マリーが突然結婚すると言い出すまでは。
『エリーへ。元気にしてる? 新しいデザインを考えたから送ります』
 街への買い出しで偶然出会った男性と、運命的な恋をしたマリー。遠くの町へと嫁いでいった彼女は、定期的に私に手紙とデザイン画を送る。それをもとに私はマリー・セシルの新しい服を作り、店に並べていた。
『あなたまだ、私の格好をして店に出ているの? 一人でやっていくって決めたんだから、あなたの好きなようにやってみればいいのに』
 そしてマリーはいつも、同じことを手紙に書く。けれど私は、日替わりでセシル姉妹を演じることをやめなかった。
 親でさえ間違うほどそっくりな顔をしているのだから、私がマリーになりすますのは簡単なことだった。豊かな黒髪も灰色の瞳も同じに決まっている。違うのは服とヘアアレンジと、化粧の仕方と立ち居振る舞いと性格だけだ。
「エリー、アクセサリー売れてるか?」
「私はマリーよ、アレン」
 店の入り口ではなく、住居スペースの裏口から入ってきたアレンは、私の顔をまじまじと見ると小さく肩をすくめた。
「相変わらず同じ顔してるから、どっちがどっちかわかんないって」
 そっくりもなにも、一人二役を演じているのだから当たり前だ。けれどこの言葉は、私たちが幼いころからたくさんの人に言われ続けてきたことだった。
 マリーでいるときは清楚でナチュラルな化粧を。エリーでいるときは髪を巻いて桃色の口紅を塗る。朝早くから丁寧にブローした髪を指で梳きながら、私はマリーの表情を真似て唇を弓なりにまげてみせた。
「今日も納品に来てくれたの?」
 ヌードベージュの唇が上品さを与えるマリーは、話す声がすこし低くてそれが色っぽい。
「そう。ブレスレットと、イヤリングを少し」
「見せて」
 アレンは私たち双子の幼馴染みだった。宝飾店の跡取り息子であるアレンは、毎日工房にこもっては修行を重ねている。店では彼の作ったアクセサリーを委託販売のかたちにしているため、いつも売上を封筒に入れて渡していた。
「この店に置かせてもらったものが一番よく売れるんだ。いつも助かるよ」
「それはアレンが、店の雰囲気にアクセサリーを作ってくれるからよ」
 アレンの作るアクセサリーは、その中性的な外見と同じやわらかいデザインのものが多かった。それはマリーの服にもエリーの服にも合わせやすく、お客様がアクセサリーを探すときにとても重宝されていた。
「この間の蝶のネックレス、あっという間に完売したわ。売り切れって聞いて残念がってる子がいるの」
「わかった、急いで作る」
「あと、同じデザインのイヤリングがほしいっていう子もいたわ」
「じゃあ何個か作ってみるわ」
 そう意気込むアレンは、カウンターに並んでいるブレスレットを手に取り、おもむろに手首に巻きはじめる。華奢な腕に映えるブレスレットをしげしげと見つめると、ひとり、「よし」と呟いた。
「またやってる」
「いいだろ、これも修行のひとつだ」
 アレンはいつも自分の作品を身に着けて重さや肌触りを確かめている。私もマネキンがわりに自分の服を着ているけれど、彼は女性用のアクセサリーを身に着けるつけるために腕の毛を剃刀で剃っているのだった。
 指の毛はおろか、ひげまで抜いているらしい。宝飾店という美にシビアな世界を生きているためか、彼の自分に対する美意識はとても高かった。背丈もさほど高くなく、細身の身体をしているため、着る服の色を間違えると女性に間違えられることもあった。
 縫い針で指を刺す傷だらけの手をした私よりも、アレンのほうがよっぽど綺麗な手をしている。けれど見た目に反して中身はとてもさばさばとしていて、話すと深みのある声をしていた。
「そうだ。納品しに行くついでに、妹に頼まれた服を買いたいんだけど」
「服?」
 アレンには三つ下の妹がいる。彼女もまたセシルの服のお得意様であり、兄が納品とともにおつかいにくるのはよくあることだった。
「この間、マリーが店で着てたワンピースがほしいって。店の前を通った時に見て、ひとめぼれしたんだってさ」
「あれならもう売り切れちゃったのよ」
 アレンの妹が欲しいというのは、店に出すなり飛ぶように売れた花柄のワンピースのことだろう。大輪の向日葵が目に鮮やかな黄色いワンピースはマリーの自信作であり、デザインを受け取った時に私も素敵だと思っていた。
「私が店で着ていた、試作品でよければまだ残ってるけど」
「ありがとう、喜ぶよ」
 ワンピースを探しに店の奥に向かい、私は唇を噛みしめる。アレンの妹が買う服はいつもマリーがデザインしたもの。私の服は一度も買ったことがなかった。
 好みの問題だから仕方ない。そう自分に言い聞かせても、胸の痛みが癒えることはない。私が店で姉の格好をやめられないのは、マリーを贔屓にしていたお客様が離れていくのが怖かったからだ。
「最近、エリーの服少ないんじゃないか? 売れてるのか?」
「逆よ。あまり売れないから作ってないの」
 ワンピースを持ってアレンのところに戻れば、彼は店内をつぶさに観察していた。宝飾店でも商品のレイアウトにこだわるため、ほかの店を訪れると反射的にチェックしてしまうらしい。
「エリーの服、人気ないのか?」
「売れないってことはそういうことでしょ」
『エリー』がいないことをいいことに、アレンはずけずけと言ってくれる。目の前にいるのが実はマリーではなくエリー自身だと知ったら、彼はいったいどんな顔をするのだろう。
「たしかに最近、エリーの服、変わったしな」
「変わった?」
 意味がわからず、私は首をかしげる。マリーが愛用していた薔薇の香りのコロンが、髪から香って鼻腔をくすぐった。
「なんか、前はレースとかフリルいっぱいの服だったのに。最近はなんていうか、地味になった」
「地味……」
 つぶやいて、私は表情が曇りそうになるのを懸命にこらえる。マリーの悠然とした微笑みを顔にはりつけて、紙袋に入れたワンピースの生地をぎゅっと握りしめた。
 やっぱり私は、マリーにかなわない。
「お代は?」
「いいわ。一度着てるものだし、店に並べたのとは違う布地で作ってるから」
 店に立つとき、私たちは試作品を着ることが多かった。デザインを考えて試作品を作り、それをもとに生地の値段などを考慮して商品にする。だからこのオレンジ色のワンピースは世界に一つ、欲しいと言われても店に並べたことはなかった。
「じゃあ、今日は物々交換ということで」
 ワンピースの入った紙袋を受け取ると、アレンが私の手に白い小箱を乗せる。お金とは違うその軽さに訝しく思いながらも、私はその箱を開いた。
「……これ」
 中に入っていたのは指輪だった。
「いつも俺のアクセサリー置いてくれるからさ。そのお礼だよ」
 戸惑う私の手に、アレンがその指輪をはめる。左手の中指におさまったそれは、あらかじめ採寸していたかのようにぴったりだった。
 アクセサリーを作る仕事をしているのだから、深い意味はない。頭ではそうわかっていても、私は胸が高鳴るのを抑えられなかった。
「これは、エリーのぶんもあるの?」
 アレンはよく、こうやって双子にアクセサリーをプレゼントしていた。ネックレスもブレスレットもイヤリングも、双子それぞれに合わせて違うデザインにするこだわりようだ。私は間違えないよう気を付けつつ、毎日それを身に着けて店に立っていた。
 マリーの指輪はあくまでもマリーのもの。エリーに贈る指輪はどんなデザインだろうと考え、私は期待をこめて尋ねた。
「指輪はこれだけだよ」
「……え?」
 思いもよらない言葉に、私はマリーの微笑みも忘れてぽかんと口をあけた。
「ふたつないの?」
「必要ないだろ」
 ぶっきらぼうにそう言い放ち、アレンはにやりと笑った。
「じゃ、俺そろそろ帰るわ」
 いたずらっ子のようなその笑みは、自分のたくらみが見事成功したことを喜んでいた。ロマンチストな彼は、この指輪を渡すことを思い描きながらこの指輪を作っていたのだろう。
 マリーに渡すために。

     〇

 マリーが結婚を決めたのは雷が落ちるように突然のことだったので、この町で彼女が去ったことを知る人は誰もいなかった。
 そのためか、町の中でマリーを見たと話す人がいる。おそらく彼女の服を着た女の子が間違えられたのだと思うが、それほどにマリーは皆から愛される存在だった。
 どんなに同じ顔をしていても、服の好みが違うように、私たちは同じ人間にはなれない。それは町の人の反応然り、店を訪れる女の子たちからも嫌というほど感じることだった。
 なによりアレンは、私とマリーとでは態度が違った。幼いころからずっと、私のことは妹扱い。けれどマリーには、跡継ぎのプレッシャーなど心の弱いところも打ち明けていた。それは彼女に対する信頼であり、私は彼の悩みを受け止める器ではないと思われていたのだ。
 だからこそ私は、マリーをこの店に残す必要があった。
 マリーが結婚したと知ったら、アレンはアクセサリーの委託をやめてしまうかもしれない。マリーに贈るついでに、エリーにも作っていたプレゼントもなくなるかもしれない。
 この店を守り続けるために、私はマリーになりきらなければならない。
「今日はエリーしかいないのか?」
「マリーは風邪で寝てるのよ」
 さらりと嘘をついて、私は納品にきたアレンを出迎えた。
「マリーが風邪? またか?」
「夜遅くまで根つめてミシンを踏むから、疲れがたまってるのよ。何回私が言っても夜更かしするんだから……」
 一人二役をしていると、もう一人の自分を探す場面に出くわすこともある。そういうときの嘘はすこしだけ真実を混ぜるといいと、私は日々の生活から学んでいた。
「だから最近、顔色悪かったのか」
「そう。ついつい頑張りすぎちゃうのよね」
 その顔色が悪かったマリーもまた、私のことだ。今日はいつもより化粧を濃くして、目の下のクマを消していた。
「じゃあ見舞いに顔出そうかな」
「やめてよ。女性の部屋に勝手に入らないで」
「はいはい」
 仲間はずれにされたのが面白くないのか、アレンがふてくされながら指先に視線を落とす。指の毛を爪で抜こうとする姿が、あまりに女の子らしくて私はなんだか負けた気持ちになってしまう。
「エリーは何をしてるんだ?」
「刺繍よ」
「見ればわかるよ」
 お客が来ないのをいいことに、私は店の中で裁縫をしていた。刺繍くらいなら、カウンター内の狭いスペースでも十分だ。
「ブラウスに、レースじゃなくて刺繍で飾りをつけることにしたの。けっこうこれ、評判いいのよ」
「前はフリフリのレースばっかりだったのに」
「いつも同じようなものばかりじゃ芸がないじゃない」
 エリーの服が減ったのは売れ行きが悪いのもあるが、一着にかける手間が増えて時間がかかっているせいもあった。
 今までは、エリー・セシルの服にも少なからずマリーのアイデアがあった。レースの種類もふんだんにつけたフリルも、マリーに言われて量が増えていっただけ。私はレースの繊細さをもっと活かしたいと思っていた。
 刺繍を施した服は、その繊細さが大きな魅力になる。マリーがいなくなった今、私は自分の好きな服を思う存分作ることができる。
 それが評価されるかどうかはまた別の問題ではあるけれど。
「今日は、お土産はないの?」
「ないよ」
 お土産。つまりアクセサリーのプレゼントをねだってみたけれど、アレンはきっぱりと一蹴する。やはりあの指輪は、マリーのためだけに作ったものだった。
 エリーでいるときは、その指輪をつけてはいけない。トパーズを太陽に見立て、蝶や花の繊細な細工を施した指輪はひとつ作るだけでも時間がかかったことだろう。
 エリーでいるときも身に着けていたい。けれど、この指輪はマリーに贈られたもの。それが悔しくて、私はネックレスのチェーンに通して服の中に隠していた。
「この間私にスカートのオーダーをした人がね、彼にプロポーズされたんだって。そのうち、アレンのお店に結婚指輪の依頼が来るかもね」
「シエラさんのことか? それなら、婚約指輪を作ったから結婚指輪も作ることになると思うけど」
 オーダーしたフレアスカートを着た、記念日のデートで彼女は恋人から求婚されたらしい。私が丹精込めて刺繍したスカートが、思い出の一着になったと思うととても誇らしい。
 愛しい彼の前では綺麗な自分でいたいと、店を訪れるシエラさんはいつもきらきらと輝いていた。恋をする女性は綺麗になると、それを体現するかのように、蛹から蝶へと美しく変わっていく様を私は間近に見ていた。
 しかし私はどうだ、恋をして綺麗になるどころか、自分の醜いところばかり気になって仕方ない。
 この町にいないはずのマリーのことで、毎日頭を悩ませている。マリーから送られてくるデザイン画を見るたびに、自分の劣等感を刺激される。私にマリーの才能があれば、私がはじめからマリーとして生まれていたら。
 そうしたら、迷わずアレンの気持ちにこたえることができるのに。
 マリーがうらやましい。作る服はどれもあっという間に売り切れて、女の子たちはマリー目当てに店を訪れる。エリーはその華やかな世界を見ながら、マリーがデザインした服をこつこつと作るしかなかった。
「じゃあ俺、帰るわ。またリクエストあったら教えてくれ」
「わかった」
 エリーが店に立つ日は、アレンはすぐに帰ってしまう。
 その後ろ姿を見つめるうち、私はまた、縫い針を指に刺してしまうのだった。

「エリーさん、いる?」
 アレンが去ってからしばらくして、やってきたお客様はシエラさんだった。
「あたしに、ウェディングドレスを作ってほしいの!」
 フレアスカートの裾を軽やかに揺らし、彼女は踊るような足取りで店の扉をくぐる。作りかけのブラウスをカウンターの下に隠して、私は彼女を出迎えた。
「シエラさん、婚約おめでとうございます」
「ありがとう! このお店の服のおかげよ!」
 私の手を握って飛び跳ね、彼女は満面の笑みを浮かべる。太陽のように輝く金色の髪が、身体の動きに合わせてキラキラと踊っていた。
「ドレスにもね、このスカートのようにたくさん刺繍を入れてほしいの! 形はシンプルなものでいいから、色とりどりの糸で華やかにしてほしいわ!」
「わかりました。打ち合わせしましょう」
 理想のドレスを思い描き、うっとりとした表情を浮かべるシエラさん。椅子に促しても声が届かず、店中の服を手にとってはこういう生地がいいこういうラインがいいとひとりごちている。
「ドレスの形はマリーさんの服のほうがイメージに近いわ。直接話したほうが早いし、マリーさんはいる?」
「マリーはちょっと風邪をひいていて、昨日から寝込んでるの」
「あらでも、今日、マリーさんを見かけたわよ?」
「え?」
 またあの、マリーの目撃情報が寄せられる。私は今日、マリーの格好はおろか店からも出ていない。
「うちのお客さんじゃないですか? マリーの服を着たる人はたくさんいるから」
「あたしがマリーさんを見間違えるわけないじゃない」
 常連客であるシエラさんは、マリーだと確信するなにかがあったらしい。「なんで風邪なんて嘘つくの?」
 まっすぐに尋ねるシエラさんの瞳に、私はなにも言えぬまま立ち尽くした。
 いつもなら適当に誤魔化すことができた。しかし、彼女はマリーの姿を見ないと納得しないだろう。呼びに行くふりをしてマリーの服に着替えることもできるが、今度はエリーがどこに行ったと言われるに違いない。
「……えっと」
 とっさに、言葉が出ない。いままで嘘が通用していたのは、ただ運が良かっただけなのだと痛感した。
「いつも不思議に思ってたけど、どうして片方しか店にいないの? 前はいつも二人でいたじゃない」
「それは……」
 双子が一緒に必要とされることは今までなかった。油断していた気持ちも少なからずあった。うまい嘘が浮かばず、私はシエラさんの視線を受けて居心地悪く身じろぎするしかなかった。
「――あら、マリーさん」
「え?」
 彼女があげた声に、私はつられて店の奥を見た。
「……マリー?」
 店の奥へと続く廊下の先、人の姿が見える。台所に立つ後ろ姿は、ごほごほと激しい咳をしながらコップに水をそそいでいた。
 その華奢な手にコップを持ち、咳をするたびに髪が乱れて背中に広がる。マリーの服を着たその人は水を飲み干すと、ようやく咳が落ち着いたのか大きなため息をついた。
「本当に、風邪だったのね」
 その様子を見て、シエラさんがひとり納得する。慌てて私も声をかけた。
「マリー、まだ寝てないとだめよ。シエラさんとは私がちゃんと話しておくからね」
 こくりとうなずいて、マリーはそのまま寝室へと消えていく。いかにも熱があるかのようにふらついた足取りで、お気に入りのワンピースを着た後ろ姿は心なしか広い背中をしていた。


「……あなた、アレンね?」
 シエラさんとの打ち合わせを終え、私は店に『close』の看板を下げた。
「その服を着ている人はほかにいないわ」
 店の裏口が開いていると知っているのも、この店の人間とよほど親しくない限りわからないことだ。勝手に家に上がって勝手に水を飲んで、我が物顔で振舞える人は一人しかいない。
 なにより、世界に一つしかないオレンジ色のワンピースを、最後に手にしたのは彼だった。
「アレン、こっちを向いて」
「……そんなに怖い顔するなよ」
 長い髪はウィッグだったらしい。それを帽子のように外しながら、アレンは私を見た。
「助けてやっただろ。お礼くらい言えよ」
 長い髪のおかげで、広い肩幅や喉ぼとけが隠れていたらしい。丈の長いスカートは脚のラインを隠し、マリーによく似た後ろ姿を作り出していた。
「……もしかして、町の人がマリーを見たって言ってたのは、アレンのことだったの?」
「エリーが店にいるときに外でマリーが歩いてたら、双子がちゃんと町にいるってアピールできるだろ」
「なんで……」
「俺が気づいてないとでも思ってたのかよ」
 スカートの脚をがばりと広げて、アレンは床にあぐらをかく。腕を組むしぐさと、着ている服がミスマッチすぎて私はめまいがした。
「なんで二人一緒に店に立たないんだろう。なんでいつも片方が出かけたり風邪ひいたりしてるんだろう。なんでエリーの指にあった針の跡が、マリーの手の同じところにあるんだろう」
「あ……」
「俺はすぐに気付いてたよ、マリーがいなくなったこと」
 ウィッグで蒸れた頭を乱暴にかきながら、アレンが私を見上げる。
「なんで指輪してないんだよ」
「あれはマリーのために作ったものでしょう?」
「俺に打ち明けてほしくていろいろやったのに、エリーは全然気づかないんだもんな」
 おもむろに立ち上がり、アレンが私の首に手を回す。そしてネックレスを外すと、予想通りといった表情で隠し持っていた指輪を手にした。
「マリーがいなくなったって知ったら、アレンが店に来なくなると思ったから」
「なんでだよ。そういうときこそ俺のこと頼れよ」
「だって……」
 口ごもる私の頭を、アレンが撫でる。その手のひらのあたたかさに、私は張りつめていた糸がぷつりと切れたのを感じた。
「アレンは、マリーのことが好きだったんでしょう?」
 目のふちいっぱいに涙が盛り上がり、私はうつむいたままスカートの先を見つめた。
「店に残ったのがエリーだって知ったら、がっかりすると思ったの。みんながマリーの服を選ぶように、アレンもマリーには何でも相談してたじゃない」
「だからマリーの格好して、マリーがいるふりしてたのか?」
「『セシル』は二人じゃないとだめなの。マリーがいないと誰も来てくれないのよ」
「せっかく自分だけの店になったんだから、好きなようにやればよかっただろ」
「そんな自信あるわけない」
 声をあげて泣き始めた私に、アレンがあきれたようにため息をついた。
「私は地味な服しか作れない。マリーみたいな服は思いつかない」
「別にマリーの真似しなくてもいいだろ」
「アレンだって私の服のこと――」
「それはエリーが自分に自信を無くしてるから言ったんだ」
 半ば怒鳴るような声に、私は驚いて顔を上げた。
「頑張れよ、ちゃんと俺が助けてやるから」
 涙でぐしゃぐしゃになった私の顔を見ても、彼は笑わなかった。
「お前の服、俺は好きだから。頑張って細かい刺繍してるのいつも見てたから」
 傷だらけの私の指先を、彼はその綺麗な手で撫でる。絆創膏ひとつひとつをいたわるような、そのあたたかさにまた目頭が熱くなった。
「不安なら、こうやって俺が三人目のセシルになってやるから」
 言われて、私は改めてアレンの姿を見る。いくら彼が女顔だからといって、女性の服が似合うわけではない。気恥ずかしそうなその顔を見ていると、なぜだか急におかしくなって涙が止まってしまった。
「なんだよ、笑うなよ」
「ごめん。なんか、急に我に返ったっていうか」
「俺はエリーのためにこんな格好してるんだぞ」
 笑いの止まらない私に、アレンは頭突きをするように額を合わせた。
「マリーに仕事の相談をしてたのは、エリーには弱いところを見せたくなかったからだよ」
 格好つけさせてくれよと、彼は赤い顔をして言った。
「指輪はエリーのために作ったんだ。だから一つだけでいいんだよ」
 絆創膏だらけの指に、彼が作った指輪をはめながら。

            END 

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