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【小説】よしゆき村

 そう遠くない昔、三陸のとある山麓に、よしゆき村と呼ばれる村があった。
 正式な村名は他にあるのだが、その名で呼ぶ者は殆どおらず、葉書に『よしゆき村』と書けばその村に届くほどに、広く知られた別称であった。

 なぜその名で呼ばれることになったのか。村の権力者の名であるかと問われれば、それも正しいのだが、それだけではない。村に暮らす男性は、全員よしゆきという名前なのだ。
 それは、男児が生まれたらよしゆきと名付けるという風習が理由であった。その風習がいつから始まったのかを知る者はいなかったが、その風習が始まるきっかけとなったとされている言い伝えは皆知っている。

 とある年の冬、村に面した山で熊に襲われる被害が続出した。被害に遭ったのは山仕事に出ていた男性ばかりで、ある者は腕を食い千切られ、ある者は上半身を全て食べられたりと散々な被害で、村人達は山麓にも降りてくるのではと恐怖に苛まれた。
 そんな中、ある噂が村に伝播した。熊を目撃しても被害を受けることのなかった男性も幾人かおり、その男性達の共通点が「よしゆき」と言う名前だったのだという。
 よしゆきという名が加護をもたらしたという噂を聞きつけた者の中には、自らの名をよしゆきと改める者もいたようだ。更には自らの子供の息災を祈り、産まれてきた男児によしゆきと名付ける者も少なくなかった。

 春になる頃には熊の目撃情報も少なくなり被害もおさまったのだが、それでも産まれてくる子供によしゆきと名付ける親は多く、村にはよしゆきという名の男児で溢れかえった。
 それからその村では目立った災害も起きなかったため、よしゆきという名前に利運を得たと信じて疑わぬ者が子息にもよしゆきと名づけ、いつの間にか村の男性の名は皆よしゆきとなったのだという。
 これが風習として残り続け、よしゆき村と呼ばれるまでになったのだ。

 村人の名が皆同じだということで、不便は少なくない。
 村でバッタリ見つけた友人に「よしゆき」と声をかければ辺りの男性が全員振り向き、双子の生まれた家庭では見た目も名前も同じ子供の区別に苦しんだ。
 しかし、得られた利点もある。
 名前で区別することが出来ないため相手の内面や外面をよく観察する上に、同じ名前ということで生まれた一体感から、その村は活気に溢れていた。

 そんなよしゆき村に、ある年、「蓮」という名前の男児が産まれた。
 なぜ村で唯一のよしゆきでない名の男児が産まれたのか——それは、その男児の父親が幼い頃に親を亡くし台風により家を失くし、息子が産まれたと同時に妻を亡くした事より、よしゆきと云う名前が幸運をもたらすと信じておらず、むしろよしゆきという名が悲運をもたらしたとさえ考えていた事が、理由とされている。
 しかし、蓮と名づけた2日後に自宅で首を括ったため詳しいことは誰も知ることはなかった。

 蓮は、母方の祖父母の元で健やかに育ったが、小学校に通う頃には名前が一人だけ違うことと人見知りな性格が相まって、いじめの対象とされてしまっていた。

 ある日蓮が小学校に登校すると、下駄箱に仕舞われているはずの上履きがどこにもない。だが、持ち物が隠されることは日常茶飯事であったため、気にせずに教室に入ると、同級生達が皆、窓の外を見て狼狽を顔に漂わせていた。
 蓮も皆の視線の先を覗くと、花壇に咲いていたはずの薄紫色のチューリップが根から抜かれ花壇の外に乱雑に捨てられた、悍ましい光景が目に入る。
 他の同級生と同じく狼狽した蓮だったが、花壇に置かれた、土がこべりつき茶色くなった上履きが目に入ると、心臓が激しく脈打った。遠くから見てもわかるほど大きな文字で、『蓮』と書かれた上履きであったからだ。

 蓮が危惧した通り、同級生達から花壇を荒らした犯人だと糾弾され、更には教師にも殆ど話を聞いてもらえず、犯人であると断定された。
 その日の午後には学校に祖父母が呼び出され、白髪が混じった頭を何度も下げて、「すいません」「すいません」と謝る姿を見て、蓮は暗澹たる思いに沈んだ。
 そして、その日をきっかけに蓮は18歳になるまで、自分の部屋から殆ど出る事がなくなった。

 学校にも行かず、食事も以前の半分ほどしか摂らない蓮に憂心を抱く両祖母だったが、やはりこれは蓮という名前が元凶であると諒解した。
 そして、何度も「よしゆき」という名に改めるべきだと蓮に忠言したが、蓮はその都度突き返した。自分に対して嫌がらせをしてきた者達と同じ名を名乗ることは、想像をするだけで屈辱感で身震いがしてしまうほどの恥辱だった。

 この村にいる限り自分は平穏な生活すらも送れないなと悟り、18になった頃、蓮はよしゆき村を抜け出すことを決意する。
 祖父母が箪笥の中に隠していた貯蓄を全て持ち出し、村の者達が眠り耽った丑二つ時に家を飛び出した。
 祖母と一度だけ行った事がある隣町に向けて歩き続け、朝日が昇る頃には、よしゆき村とは比べ物にならないほどに栄えた町にたどり着く。
 家から殆ど出ることの無かった体で夜通し歩き続けた疲労が襲ってきたため、宿を探し、そこで体を休めた。祖父母の貯蓄から宿代を支払う時には一縷の罪悪感を抱いていたが、部屋に着き布団に包まる頃には、達成感に上書かれ恍惚の表情で眠りについた。

 蓮が次に目が覚めたのは夕方ごろで、食事をしようと町に出ると、町に掲げられた選挙ポスターに驚愕する。選挙ポスターそのものも始めて見たのだが、そんなことよりも、立候補者の名前に驚いた。
 『光雄』『晴義』——と、皆の名がよしゆきではなかったのだ。
 村を出る事が殆どなかった蓮は、男性の名前はよしゆきである事が当たり前だと思っていたので、よしゆき以外の名前が並んでいるそのポスターから目が離せなかった。
 そこで、蓮は悟った。村ではいつも仲間はずれにされていた蓮だったが、それはあの狭い村の中だけの事だと。村の外に出てしまえば、自分は珍しい存在ではないのだと。

 それから10年が経ち、蓮は町工場に勤めながら、よしゆき村では考えることの出来なかったほど健全で平穏な日々を過ごした。
 そんなある日、その頃普及して間もない白黒テレビを自宅で見ていると、見慣れた——正確に言うと、かつては見慣れていた——街並みが映り、思わずわっと声が出てしまう。
 『よしゆきだらけの秘村・通称よしゆき村』という文字と共に、笑いものにしたいという魂胆を隠しもしない映像が流れる。
 見慣れた村人達にインタビューをしながら、『村人達は、この奇妙な風習に疑問んを持つことがないようだ』といったナレーションが流れるその映像を見ながら、蓮は村人たちに哀憐の情を浮かべながらも、生まれて初めて『蓮』と名付けた親に感謝した。
 かつてはよしゆきでない名を名づけたばかりに煙たがられてしまったと恨んでばかりいたが、その名のおかげで、井の中の蛙にならず大海を知る事ができたのだ。


 それから程なくして、『昭和の大合併』とも呼ばれる地方分権一括法による合併特例法の改正により、よしゆき村は近隣の3つの村と合併し、それと同時に数百年に渡り続いた風習も無くなったのだった。