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短編小説「枕の母 〜 当直医が見た膝枕 第2話 〜」

この作品は、Clubhouseで多くの読み手によって読み継がれている、脚本家・今井雅子先生の小説「膝枕」を基にした派生作品であり、拙作「当直医が見た膝枕」の続編です。

当直医が見た膝枕 第2話 「枕の母」

 眠い。このままでは眠ってしまう。当直室で大きな欠伸あくびをしたのは桼谷うるしだにだ。夜勤とは違って当直は補助的な役割で、巡回のほかは突発的な何かがない限りは待機しているだけだ。だが、それが却って眠くてつらい。彼は気分転換にとテレビを着けた。ちょうどやっていたのは深夜枠のドキュメンタリーだった。特に期待するでもなく画面を見た桼谷はテロップに目を見張った。『20年越しの親子の再会』
 深夜だからといって低い声である必要もないのだが、聴き覚えのあるナレーターの声が重々しく語る。
「2012年6月29日、首相官邸前に20万人もの参加者を集めた脱原発デモは大きなニュースになった。そのニュースをテレビで見ていた一人の女性がいた。鹿内しかうち真知子さん。秋田県に住む当時46歳の主婦である。彼女はテレビに映る一人の若い男を見て強い衝撃を受けた。そこに映っていたのは20年前に生き別れた息子、真司さんだった。離婚して父親に引き取られた真司さんとは数年間は会っていたが、連絡が途絶えてそれきりだったという。20年経ってもピタリと重なる面影。真司さんだと確信したのは首筋の火傷やけどあとだった。彼女は息子に会いたい一心で東京へと向かった。次の金曜日、デモの群衆を掻き分け探したが真司さんは見つからなかった。翌週もその翌週も。そして4週目、彼女はついに我が子を見つけ出した――」
 と、スリスリと廊下から靴音がしてドアがいた。入って来たのは先輩の松倉だった。
「おお? なに泣いてんだよ」
 慌てて涙を拭こうとした桼谷だったが、間に合わなかったらしい。涙で光らせた頬を松倉に向けた。
「このドキュメンタリーですよ。官邸前のデモってあったじゃないですか。それをテレビで母親が見て。20年振りで。秋田から飛んで来たんですよ。それで毎週金曜日に探すんですけど、会えなくて。で、ついに再会して。息子と再会して――」
 桼谷の顔はグシャグシャである。
「お前がどれだけ感動したかはよくわかった。だけど内容は半分もわからなかったよ。お前、患者さんに説明するときもそんな感じなのか」
「分かりづらいってよく言われます」
「だろうな。それにしてもよくそこまで泣けるよな」
「僕ね、中学の時に母親亡くしてるんですよ。だからこういう話に弱いんです」
「なるほどな。今でも母の思い出にすがっている男、桼谷か。そういや、師長と話してるとき嬉しそうだもんな、お前。新人の可愛い看護師には興味なさそうなのに」
「それは――」
「そうだ、ちょっと思いついた。一緒に来てくれ。見せたいものがあるんだ」
「え? なんですか」
「まあ、ついて来い」

 当直室を出て、二人は薄暗い廊下を歩き出した。
「どこ行くんですか?」
「外科病棟だ。とにかく行けばわかるよ」
 松倉は桼谷を気に掛けず、病棟を渡ってずんずん進んだ。
「先輩」
「ああ?」
「さっき母を亡くしたって話したでしょ」
「ああ」
「僕はね、自分は母のこと好きだったんだって、母が亡くなってから気付いたんですよ。別に嫌いだったわけじゃないんですけど、あたりまえ過ぎたっていうか、母にどれだけ愛されていたか気付いてなかったし、それは明らかに嬉しくて幸せなことなんだけど、生きてる時はそんなに実感がなかったんですよ。でも、死んでから母の純粋さとか温かさに気付いて、そういうところ好きだったんだなって改めて思ったんですよね」
「そんなもんかね。じゃあ、こうしておけば良かったとか後悔したこともあるんじゃないか?」
「そうですね、もう恩返し出来ないっていうのはありますけど、でも、後悔っていうのとは違うかな。ただ、後悔じゃないけど忘れられない思い出っていうか、またして欲しかったなあっていうのはありますよ」
「なんだよ、それ」
「耳かきです。その時に膝枕してもらったももの柔らかさが今でも忘れられないんですよ。先輩はそういうのありませんか。先輩のお母さんってまだ生きてらっしゃるんですよね」
「生きてるけど長いこと会ってない。会いたくもないし」
「え? それは勿体もったいないですよ」
「嫌いなのに無理して会う必要もないだろう」
「嫌いって……どうしてですか?」
「医大に入るためにひたすら勉強させられた。びっちりとメニューを決められていつも監視されてたんだ。一時間ごとに部屋に入って来て進捗しんちょくを確認されて、試験の成績が思わしくないと対策を書かされて。病院に行ったら『よく観察しておきなさいよ』って言われて。熱があって頭ぼーっとしてるのにだよ。俺は医者になんかなりたくなかった。サッカー選手になりたかったんだよ」
「先輩、サッカーやってたんですか?」
「いや、全然。体育で何度か蹴ったぐらいだよ。だいたいそんな暇なかった。学校が終わったら夜まで塾でお勉強。サッカーもしたかったし流行りの音楽も聴きたかったしゲームもやりたかった。息子を医者にしたい母親のエゴの犠牲になったんだよ、俺は」
 松倉はそれきり口をつぐんだ。そうなると桼谷もそれ以上何も言えなくなる。二人はしばらく、長く続く廊下を無言で歩き続けた。

「ここだな」
 松倉が表情を和らげて足を止めたのは両開きのドアの前だった。
「なんですか、この部屋」
「倉庫だ」
「こんな所にありました?」
「最近使われ出したんだよ」
 そう言いながら松倉がドアを開けた。蛍光灯のスイッチをけると、ラックが三列に並び、棚には正座した下半身の模型のようなものがびっしりと置かれていた。桼谷はそれがどういう物か知っていた。「膝枕」という癒しを目的とした商品で、人工知能を搭載してコミュニケーション機能も持っている。持ち主が膝枕されたまま頬が癒着して離れなくなるという事象が多発しており、この病院でも切り離し手術を何件もしているという。ここに並んでいるのは恐らく切り離し手術後に持ち主が引き取りを拒否した物であろう。
 松倉はその中から重量感のあるひとつを取り出してズンっと床に下ろした。
「なんですか、それ」
「母親タイプらしい」
「母親タイプ? へえ」と、桼谷が膝枕の周りを調べ始める。
「匂い嗅ぐなよ」
「先輩と一緒にしないでくださいよ。あ、型番がありますね」
 桼谷がスマートホンの画面をシュルシュルと動かす。
「ありました。おふくろさん膝枕。確かに母親タイプですね。ええと、これは最新のモデルですから声も出るしスマホから辞書登録やらなにやら色々と設定が出来るみたいですね。キャッチコピーは『母に耳かきされた遠い日の思い出が蘇る』ってなってます」
「そこなんだよ」
「え?」
「いまピンと来なかったか?」
「何がですか?」
「『母に耳かきされた思い出が蘇る』ってやつだよ。耳かきしてもらった時のことが忘れられないって言ってただろ」
「ええ、言いましたけど」
「寝ろ。膝枕してもらえ」
「僕をここに連れて来たのってそのためですか。だけどこれオモチャじゃないですか」
「いいから、してもらえ」
いやですよ」
「見ないようにしてるから」
「そういう問題じゃないですよ」
「なんだよ、せっかく喜ぶと思ってわざわざ連れて来たのに」
「あれ? 先輩、ねてます?」
「拗ねてないよ」
「やっぱり拗ねてる。わかりましたよ。寝ればいいんでしょ」
 桼谷は床の埃を払い、渋々と横になって膝枕に頭を預け、ゆっくりと目を閉じた。話には聞いていた「膝枕」。情熱的に踊る膝枕を目の前で見たこともある。とは言え、実際に肌に触れ、本来の目的である膝枕をしてもらうのは初めての体験だった。しかし所詮は大量生産のオモチャ。踊ることは出来ても母の愛情を再現することなど到底困難だろう。そう思っていた。気を利かせてくれた松倉を立てるためには仕方がないかと考えていた。だが、この柔らかさ、沈み込みはどうだろう。あまりに心地よい。「遠い日の思い出が蘇る」というコピーどおり、母の腿に頭を預けているようだった。
 母に膝枕してもらったことはどれくらいあっただろう。幼稚園の頃、熱を出してべそをかいていたとき。三年生だったろうか、喧嘩で負けて泣いて帰ってきたこともあった。何があったわけでもないが、ただ甘えて膝枕してもらったこともあった。耳かきしてもらったのは数え切れないほどだ。自分の頬は少しずつ大きくなっても、母のふっくらとした腿の柔らかさは変わらなかった。
 ツツーっと涙が頬を伝って母の膝に落ちた。桼谷はそのことに自分自身驚いてパチリと目を開けた。
 その瞬間に目に映ったのは、慌てて背中を向ける松倉だった。
「先輩、見てたでしょ」
「いやいや、そろそろいいかなぁと思って振り向いただけだよ」
「先輩もどうですか?」
 桼谷は立ち上がりながら松倉をうながした。
「俺はいいよ。膝枕された思い出なんかないし。もういいだろう。撤収するぞ」
「いいんですか? じゃあこれは僕が戻しておきます」
 桼谷は膝枕をかかえ、棚の下の段にそっと置いた。
「おい、早くしろ」
 もたついてる桼谷を松倉がかす。
「ちょっと待ってください」
 白衣の襟を正しながら、桼谷は小走りに走って戻る。松倉がドアを開けながら電灯をパチリと消した。廊下は誘導灯が微かに床面を照らしているだけで、部屋の中までは届かない。
「待ってくださいよ。まだいるんですから」
 闇の中を桼谷の声だけが追いかけてくる。彼がちょうど追いついた頃だろうか、背後でスリスリと何かが這うような音がした。二人は足を止めて暗い中で顔を見合わせた。松倉がふたたび電灯のスイッチをけると、先程の膝枕が膝を細かく動かしてこちらににじり寄っている。それは意思を持ってそうしているようでもあった。
「桼谷、お前、ちゃんと片付けたよな」
「はい。ちゃんと棚に戻しましたけど」
「しょうがないな。センサーが異常に反応したとか、そういうのかな」
 松倉がみずから膝枕を持ち上げて棚まで運ぶ。重量がある上に、持ちにくい膝枕を抱えて歩くのはなかなかつらいものがある。松倉はそれを棚にドスンと置き、ふうっと一息ついて出口へ向かった。ところが――膝枕がふたたびゴトンと棚から降りて追いかけて来る。それは明らかに、桼谷にではなく松倉に向かっている。そしてスリスリと松倉の足元まで擦り寄り、両膝を動かしている。その動きは、ちょうど犬が飼い主の足に縋るようであった。
「おいおい」
 松倉が面倒臭そうに見下ろす。すると膝枕は擦り寄る動きを止め、絞り出すように小さな声を漏らした。
「タカシ……」
 松倉がピクリと反応した。が、視線をスッと膝枕から外したまま、それきりじっと動かない。
「タカシって先輩の……」
「何だよこれ。プログラミングか。よく出来てるな」
 松倉の声は震えてる。桼谷の言うように、膝枕は松倉の名を呼んだのだろうか。
「先輩に膝枕してあげたいんじゃないですか? 先輩のお母さんだと思って膝枕してもらったらどうですか」
いやだよ、そんなの」
 桼谷の提案を松倉は瞬時に拒否した。
「なにかたくなになってるんですか。オモチャに膝枕してもらうだけでしょ。たかが膝枕でしょ」
「厭なものは厭なんだよ!」
「タカシ……」
 ふたたび呼びかけるその声は悲しげだった。膝が小さく震えている。
「桼谷。これ棚に戻せ。ちゃんと電源切っとけよ」
 強い口調で命令する松倉の声はやはり震えていた。だが桼谷は動かない。
「早く戻せよ!」
 それでも桼谷はこたえない。松倉と膝枕を見つめたまま何かを思案しながら動かずにいる。やがて彼は壁に静かに手を伸ばし、電灯をパチリと消した。
 何も見えなくなった。何も聴こえない。沈黙が闇を一層深くする。闇が沈黙にテンションを与える。闇と沈黙が時間の感覚を麻痺させる。しばらくして――どれくらい経ったかわからない時を経て、闇の中で微かな音が聴こえた。それは誰かが動いた音のようでもあり、何かが擦れる音のようでもあった。動いたのはどちらか。どう動いたのかもわからない。
「ごめんね」
 母の囁きだろうか。
「今さら……」
「ごめん……」
 啜り泣く音がした。それは松倉のものか、あるいは膝枕のものだったかもしれない。
「母さん……」
 母の膝が小さく震えたような気がした。
「母さん。おれ、サッカーしたかったよ」
 啜り泣きがはっきりと聴こえた。やがてそれはふたつに重なり、呼応し合い、そしてピタリとひとつになった。
 ふたたび静寂が続いた。桼谷の目が闇に慣れてきたのか、二人の輪郭がうっすらと見えるようになった。気がつくと窓から月明かりが差し込んでいる。それまで雲に隠れていた月が顔を出したのだろう。母と子は月の光を浴びてくっきりと浮かび上がった。そこにあるのは清らかな母子像。その母の目は何を見ているだろう。我が子の頬を見下ろしているだろうか。あるいは、この子が生まれたときのことを遠い目で思い出しているだろうか。融け合う二つの影。たとえ離れて暮らしていても、たとえ憎んでいても、母と子は何かで繋がっている離れられない運命なのだろうか。
 やがて母の腿からたくましい影が静かに起き上がった。桼谷はそれが松倉であることを思い出して我に返った。松倉は膝枕を大事に運んで棚に戻し、しばらくそれを見下ろしていたが、やがてゆっくりと桼谷の方へ歩いてくる。
「行こうか」
 月明かりに照らされた松倉の頬は濡れていた。
「はい。行きましょう」
 二人は薄暗い廊下へ出て、元来た方へ歩き出した。
「なあ、桼谷」
「はい?」
「ありがとな」
「何がですか?」
「膝枕にいろいろやってくれたんだろう」
「あ、バレてました? でも入れたのは先輩の名前だけですよ。設定できるっていったってその程度ですから」
「ほんとか?」
「ええ」
「ああ……そうか……」
 二人は廊下の奥に消えようとしていた。その後ろ姿を膝枕がずっと見守っていた。いたドアの隙間から廊下に漏れた月明かりが彼女を照らしている。彼らが廊下の闇に見えなくなっても、彼女はしばらくそこを動かなかった。

――了――

PDF台本(縦書き明朝体 B5)

あとがき

 映画などの作品で私がズルいなと思うものに子供や動物を主役級で登場させるというのがある。他にも、を降らせたり、のシーンにしたり。これらはズルいと思いながらも私は意図してやっている。
 たとえば「ヒサコ」「僕のヒサコ」の雨、「当直医が見た膝枕」の夜。本作ではさらにの中、が出て来る。これはズルい。真っ暗闇の中の松倉。これは絵にならない。というか視覚情報ゼロである。しかしその分、音と空気感が冴える。そこへ月だ。ズルい。これによってかなり誤魔化せたのではないかと思っている。病み付きになって多用しないよう気をつけたい。
 惜しいと思うこともある。月に照らされるのが桼谷ではなく松倉だということ。桼谷ならば、月+桼=膝になったのに。実に惜しい。彼は他にも色々とのがしている。主役かと思いきや前作ではダンシング膝枕に、本作では松倉にオイシイところを持っていかれている。本当にツキのない男である。

朗読される方へ

  • 本作品はご自由に朗読して頂いて構いません(非営利に限る)

  • 台詞の言い回しは変えても構いません

  • 読点は、文の構造を誤解しないよう、語の区切りがわかりやすいよう、おもに黙読のために振っています。音読時の区切りや間の指示ではありませんのでご自由に詰めたり開けたりして構いません









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