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「膝枕」外伝 短編小説「ヒサコ」

はじめに

この作品は、Clubhouseで多くの読み手によって読み継がれている、脚本家・今井雅子先生の小説「膝枕」を基にした派生作品です。原著作、朗読リレーのあれこれ、他の派生作品はマガジンに纏められています。本作は、原著作「膝枕」の前日譚に当たりますが、「膝枕」を先にお読みになる方がよいかと思います。

なお、この作品と並行して男の視点で書かれた「僕のヒサコ」があります。そちらもお読み頂けたら幸いです。どちらを先に読むのがいいのか私にもわかりません。

短編小説「ヒサコ」

 じっとりとした六月の雨の中、ヒサコは人通りの少ない路地を歩いていた。行く当てもなく、頼る人もいない。ただ一人の頼るべき男の元を離れたのだから当然のことなのかもしれない。

 その男の名前をヒサコは知らない。名前で呼んだこともないし、その必要もなかった。けれどもヒサコには名前があった。その名前を付けてくれたのはその男だった。ヒサコを女にしてくれたのもその男だった。女にした――と言っても、それ以前に処女であったとか、世間知らずの小娘だったとか、そういうことではない。実のところ、彼女は人間ですらなかったのである。
 ヒサコは、通販商品として男の元へ届けられた、腰から下の「膝枕」だった。生きているかのように巧緻に作られた、癒しを目的とした製品だった。

 どういう仕組みで今の完全な姿になったのかはヒサコにはわからない。もともと膝枕に備えられている機能だとか、オプションを増設したとか、そういうことではないらしい。少しづつ身体が出来上がっていったのは男にとっても予期せぬ現象だったようだ。男が膝枕のヒサコを過剰なほど愛してくれていたことはヒサコにもわかった。それが腰から下では飽き足らなくなったのか、その思いが高じて上半身が実体化したのか、そこまではヒサコはわからなかったし、男にとっても同じだったようだ。

 五体揃ったヒサコを男は何度も抱いた。膝枕以上に夢中になって愛してくれた。最初は脚が正座の形に畳まれたままで、その状態で抱かれるのは羞ずかしかった。けれども次第に関節が柔らかくなるとともに男の肌を感じるようになり、より一層愛を感じるようになった。

 ヒサコはこの部屋に届けられてから、外に出たことがなかった。膝枕を外に持ち出すことはないにしろ、女の姿になっても連れ出されることはなかった。ただ、どういう心変わりか男は一度だけヒサコを近くの公園に連れて出たことがある。初めて見る外の世界にヒサコは子供のようにはしゃいだ。男がヒサコを外に出したがらなかったのはそれを見通していたからなのかもしれない。若葉の茂る公園で、男はヒサコに膝枕をしてくれた。少しぎこちなかったが、ヒサコには素直にそれが嬉しかった。

 数ヶ月が過ぎても男は変わらずヒサコを愛してくれた。それが愛というものなのか本当のところヒサコにはわからなかった。膝枕だった頃、男はヒサコを大切に扱い、明るい表情や優しい声で接してくれた。それが愛だとプログラミングされているらしかった。けれども女ヒサコへの「愛」はそれとはどこか違うとヒサコは感じていた。プログラムが判定する愛とは違うもののようだ。とすると、生身の人間にしかわからない本当の愛なのだろうか。何がどう違うのだろう。今の男はあたり前のように女ヒサコを愛してくれる。けれど以前はどこか戸惑いがあった。最初は話しかける言葉もしどろもどろだった。腿に頭を預けるときは「重くない?」と気遣ってくれた。時々、いたずらするように膝を撫でてくれた。思い出すと嬉しさが蘇り、眼から冷たいものが流れた。

 ヒサコは部屋を出た。男が仕事から帰る前に、何も残さずに部屋を出て来た。濡れたアスファルトを歩きながらヒサコは問うた。
 自分は何のためにこの世にいるのか。元々は購入してくれたご主人様を癒すためだった。それが全き身体を与えられたのは何のためなのか。女として男の欲求を充たすためなのか。その見返りに受け取った愛のようなもの、それを得ることがただ一つの存在理由なのだろうか。
 公園の脇を通りかかった。膝枕してもらったあのときも遠い思い出のように感じられる。
 この先どうやって生きていくのか当てはない。女一人で生きていくことがどれほど大変なことなのかヒサコには想像もつかない。何も持たないヒサコには誰か男に頼る生き方しかないのだろうか。それは厭だとヒサコは漠然と思う。だが、意地を通せば窮屈だ。知恵もないヒサコには情に任せて流されるしかないのだろうか。それでも生きるためには何か武器がいる。――膝枕だ。やっぱり自分は膝枕だ。誰よりも膝枕してあげるのが得意ではないか。そのために生まれてきた自分がそこらの女の膝枕に負けるわけがない。膝枕を武器にしたたかに生きていけばいい。今のヒサコにはそう開き直るしかなかった。ヒサコは顔を上げた。そうすると、この決断もあながち無理なことではないように思えてきた。
ヒサコはいつしか唇に笑みさえ浮かべていた。

 空を見上げると雲の切れ間に星が瞬いていた。

―― 了 ――

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あとがき

いや、重たい。クスリとも笑えない。こんな小説、誰が読むんだ。そして、その「誰」を考えてまた不安になる。女性が読んでどう思うか。女の内面をしつこく書いているのだけど、女性は共感できるのか。たいへんにリスキーだ。「こいつ、女を全然わかってない。ドーテーか?」などと思われやしないかと不安である。いや、内容以前に「女はこんな理屈っぽい文章、好き好んで読まないよ」と思われるかもしれない。益々不安である。まあ、それを覚悟してないと書けないんだけどね。

もうひとつのエンディング

(頭からほぼ全部略)

今のヒサコにはそう開き直るしかなかった。ヒサコは顔を上げ、雲の切れ間に瞬く星を見つめ、呟いた。
「ああ、ワニになりたい」

―― 了 ――

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