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哀れなのは誰だったのか

話題の「哀れなるものたち」を見た。
(※)これから少しネタバレを含みます。

エマ・ストーンの演技や趣向を凝らした壮大なセットや映像美の数々はもちろんのこと、今の世の中を風刺していて、変に余韻が残っている。

ヒロインの設定はフランケンシュタインを思わせるもので、フランケンシュタインの作者も女性、しかも波乱万丈な人生を送っていたことから、強く影響を受けているとみて間違いないだろう。

出てくる人物たちは全員見事に「哀れ」だった。
この「哀れ」という言葉自体、非常に多くの意味を持つ。

観た直後は「そうか、登場人物、観客も総て哀れだねっていう感じなのか」と早合点したが、そうでもなさそうだ。ヒロインは人間的成長を遂げ、物語はハッピーエンド風に終わる。また、哀れという言葉を「良くないもの」と一側面だけ認識していたので、物語としても、なんとなく「もの悲しいもの」として結論付けるべきだと整理していたが、よくよく考えてみると、決してそんなことはなく、むしろ力強さや人間の愛の力について再認識させられるシーンも多かった。

ただ、過剰ともいえる(R-18にしているくらいだし)性的表現を軸に人間の「醜さ」が際立って入ってきて、ぶっ壊れた倫理観もそれを助長しているように見えた。セットや音楽、色彩のすばらしさも拍車をかける。暴力と砂糖。ある種の快楽やドーパミン的な刺激を受け続け、状況を前に前に進めていこうとするヒロインは、観る人が観れば勇気をもらえるだろうし神格化したくなるだろう。

振り返ってみて唯一「哀れ」ではなかったのかも、と思ったのが船旅でである老女である。ヒロインに書を与え、知恵を授け、ここでの出会いで、ヒロインはさらに成長を加速させていく。娼婦になっても自分を守れたのはこの出会いがあったからだろう。世界は広いのだ。

破滅の道を歩んだ弁護士も、ヒロインを生み出した天才外科医も、将軍も、売春宿を経営していた老婆も、人生のどこで道を踏み外していったのだろうか。本当に見ていて「哀れ」で、どこかで成長を止めてしまったのか、もう引くに引けなくなり、その生き方で行くことを止められなくなってしまったのか。

そして、成長著しかったヒロインも、物語としては途中であり、どうなっていくかはわからない。

今年、しっかり映画評も読み込みながら後味を楽しんで映画に向き合ってみると、また新たなエンタメとの出会いが広がり面白い。今回は、上記の映画評を参考にさせていただいた。

自分としては、哀れだったのは老婆以外の全ての登場人物、というように結論付けてみたが、よくよく考えれば、それは人生の一時点での、誰かの評価であり、問いを立てて書いている今思ったが、まったくもって意味のない問いだった。自分の問いの立て方自体にも自分の癖が出ているのかもしれない。

そして、作品の分かりやすい意味の有無だけでは、優れたエンターテイメントとはならない。コメディであり、SFであり、ミュージカルであり、風刺である、世間のカテゴライズにはまらない、そんな作品だからこそ、多くの人の心を魅了するのだろう。


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