糸井さんと羽生さん⑥ ~進化の時~
ほぼ日さんでの糸井重里さんと羽生結弦選手の対談、Day6。
アスリートも、ミュージシャンも、俳優も、パフォーマーも、
表現の場はあくまでも「本番」である。
だから「練習における本音」が公に語られることは案外少ない。
練習に全てがあるのだから、練習に関しては完全非公開のプレイヤーも少なくないし、中にはメディア用の受け応えをしているケースもある。
何かで「勝っていく」とは、シェア、発信、共有、拡散とは逆のベクトルを聖域としてもつということかもしれない。だから「プレイヤーが練習について本音を語る」とは、ある意味、自分の腹部のCT画像を公開するようなものだろう。
だが、糸井さんと羽生さんのこの対談では、風通しのよい関係性がベースにあるからだろう、まるでバックステージでの会話のようなリアルなサウンドが連なっていく。
単純に、やらなきゃいけないことが
あまりにも多すぎるんですよね。(羽生さん)
あああ・・・・そうか・・・・そうなんだ・・・・。
スポーツドクターである僕は、いろんなジャンルの人たちに関わる機会があるけれど、フィギュアスケートという競技のもつ根本的かつ構造的なシビアさについて考えたことは今まで一度もなかった。それだけに、この発言はグサリと刺さった。
「要素が多い」という競技は他にもある。
たとえば総合格闘技は、ルール上、やっちゃいけない技の制約がかなり少ない。パンチも、キックも、組みも、投げも、関節技も、馬乗りになっての打撃も、肘打ちも、許されている。(書いてるだけで痛くなってくるくらいだ)
そういう意味ではマスターすべき攻撃も、防御も多いと言えば多い。
だが、それらはマストじゃない。打撃が不得手な選手は、組み技に引き込むとか、接近戦や密着が苦手な選手は距離をとって戦う、というような「選択の余地」があるのだ。
日本柔術界の父とも言われる格闘家・中井祐樹氏はこれを「哲学のぶつかり合い」と表現した。突出した何かがあれば、欠落をカバーできる可能性がある。
だが、僕は遅ればせながら、羽生選手の発言で「フィギュアスケートはそれが許されない」ことに気づかされた。
きっと「スケーティングのスピードが遅い」、ただそれだけで「できない技」もたくさんあるのだろう。
ひとつの欠落をそのままにしておくと、全体が成り立たない。
その上、芸術性までも問われてくる。
あまりにも過酷で厳しい競技である。
そういう意味では、「人前でフィギュアスケートをやるレベルである」という時点で、相当なスポーツエリートであることが伝わってくる。ましてやオリンピックに出場するレベルとなれば・・・・・想像するだけで、脳がクラクラしてきた。
しかし僕たちは、ここから羽生結弦選手という人の
怖ろしいほどの強さを目撃することになる。
しかも音楽にシンクロしてないといけないし。(糸井さん)
はい、できれば。
でも、できてないなーってぼくは思ってますけど。(羽生さん)
この展開、いったい誰が予想できただろうか?
あくまでも観る側、楽しませてもらう側として、あるいは無責任な観察者として、僕は映像で羽生結弦選手のプログラムをみて「音楽とシンクロしていない」と感じたことは一度も無い。
”Let's Go Crazy”に至っては、あの厳しい審美眼をもったプリンスが大絶賛しただろう、とガチで信じられる。体得を超えて、憑依レベルだった。
もし羽生結弦選手以外の人だったら、音楽のエネルギーに飲まれた結果、単なるBGMと化したかもしれない。
だが・・・当のご本人は音楽とシンクロできていないと感じている。
カッコつけたり、エリート意識からの言葉ではない。
本気でそう思っているのがビシビシ伝わってくる。
ヒップホップやダンスにはなくて、
フィギュアスケートにはある魅力もたくさんある。
もし僕なら、自分のジャンルの優位性を他との比較で認識しようとするだろう。そして言葉にすることで自分を納得させてしまうだろう。
だが羽生選手は全く違う。
言葉で自分の感覚を誤魔化すことはしない。
やっぱり、ぼくが観客目線だったら
納得はいかないなと。(羽生さん)
きつい観客ですね、それは。
いますかね、それをそこまで感じてる人って。(糸井さん)
いますよ。(羽生さん)
正直、このやりとりは戦慄ものだ。
ここは譲れない、譲ってはならない。狂の領域の熾烈な意志。
だが、これが羽生結弦選手のスピリットの強さなのだろう。
ほかの表現と比べて
それくらいの差は存在しているんだというのは、
意識しておいたほうがいいと思うんです。(羽生さん)
フィギュアスケートの神様が彼に与えたミッション、
それは「ジャンルの進化」だった。
羽生選手はおそらくジャンルごと背負ったのだ。
優れた先輩たちのパフォーマンスをミラーニューロンに記録してきた羽生
選手は、ダンス、バレエ、ヒップホップ・・・他ジャンルに十分な敬意を払いながらも、そのエッセンスを吸収し、フィギュアスケートという文化全体をさらに高次元に進化させていくだろう。
彼が見ているのは「差」であるが、
彼が見ている以上「可能性」でもある。
『進化の時』、はこれからだ。