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『ウェルビーイングの設計論ー人がよりよく生きるための情報技術』

ラファエル・A・カルヴォ/ドリアン・ピーターズ著、渡邊淳司/ドミニク・チェン監訳『ウェルビーイングの設計論ー人がよりよく生きるための情報技術』通読.

ウェルビーイングとは何なのか?

原題の通り,ベースにはデジタル・テクノロジーにおけるポジティブ・コンピューティング――心理的ウェルビーイングと人間の潜在力を高めるテクノロジーのデザインおよび開発(p.13)――があるが,題材的には広く一般に理解できる(というか誰もが考えるべき)内容を取り扱っていて面白い.
この心理的ウェルビーイングもまた,高めるための手段として医学的アプローチ・快楽的アプローチ・エウダイモニア(持続的幸福)的アプローチの3つに分類される.

大前提として,ウェルビーイングの概念は,

食料、水、住居といった、生存に不可欠で基本的な物質的欲求(p.29)

が満たされることが最重要である.本著の中心となるのはエウダイモニア的アプローチだと察する(あるいはそのアプローチによって医学的・快楽的アプローチを包摂し得る)が,その意味するところは

「人生に意義を見出し、自分の潜在能力を最大限に発揮している状態」(p.29)

と理解するのが良さそうである.つまり,その状態を志向することがウェルビーイングの中心課題であると言えよう.

デジタル的に考えるということ

興味深いのは,基本的に「マインドフルネス」や「共感」といった,ややもするとふわっとした怪しい概念と捉えられがちなものを,きちんと定義づけているところにある.その背景にはデジタル化の恩恵が間違いなくあり,記述することの必要性の帰結だと思われる.
途中のコラムに出てくるデヴィッド・カルーソ氏の情動知能のアプローチはその端的な例だろう.

情動知能のアプローチは、感情というのはデータであり、意味を伝え、多様でも予測可能な道筋を辿るものだと仮定している。感情は私たちの心を乗っ取り、間違った方向へ向かわせるとよく言われるが、感情は適応的なものだ。感情は、私たちが生き残り、成長し、発展するのを助けてくれるのである。感情に関する豊富な経験は、豊かな人間関係にとって重要なものとなる。怒りも恐れも嫌悪を含めて、すべての感情は適応的で変化するものであるのだが、定義され計測可能な能力としての情動知能は、ポジティブ・コンピューティングに役立つものであると考えられる。(p.230)

デジタル・テクノロジー時代におけるUI・UXがもたらす影響力を前に,ウェルビーイングの思考は不可欠である(無意識的に洗脳されたり,歪みが悪化する危険性が高い).
例えば,こちらの検索傾向が読まれ,それに合った情報が提案される今のSNSや検索エンジンの仕組みは,「認知的歪み(cognitive distortions)」(p.210)を生じかねない,といったような.その改善策として,次のような提案が為されている.

自然言語処理を使った「すべてか無かの思考(all-or-nothig)」、「過度の一般化(overgeneralization)」、「ポジティブな事象に関するマイナス思考(discounting the positive)」、そして「結論への飛躍(jumping to conclusions)」に関する表現を検出できないかと考えている。認知的歪みを認識できるテクノロジーが、歪みを自分自身で気づくための手助けをする基礎となるかもしれない。(p.210)

建築におけるインターフェースの可能性

もちろん,これには技術的・制度的課題が多大にあるだろうが,認知的歪みの悪影響を踏まえれば検討すべき内容である.
デジタル・テクノロジーが浸透することは避けられない以上,かつてなくインターフェースのデザインが問われている.それは恐らく一方的なものではなく,双方向的interactiveなものである.これは芸術・建築分野でも当てはまることである.

哲学者アラン・ド・ボトン(Alain De Botton)は、著書『The Architecture of Happiness(訳注:幸福の構造)』にて、芸術や建築が、それらを体験する人々にいかに語りかけ、人々の感じ方や行動を変えるのかを説明している。デジタル・テクノロジーは、建築によるその一方的な語りかけを双方向の対話に変える、非常に優れた能力を持っていると言えるかもしれない。(p.35)

恐らく現状,その最たる例はチームラボなのだろうが,建築のインターフェース(あるいはサーフェス?)の可能性はまだまだ途上にあるように思われる.
例えば,連続平面Continuous Surfaceとして設計されたFOAの「大桟橋ターミナル」や,平面が地表からうねるように持ち上がるSANAAの「ロレックス・ラーニング・センター」といった建築は,サーフェス的ではあるが,必ずしもその連続面が内部空間とのインターフェースとなってはいないように思われる.

外部と応答するファサードという意味ではジャン・ヌーベルの「アラブ世界研究所」,noiz architectsの「Flipmata」,トーマス・ヘザーウィックの「外灘金融中心」など可動的なものがある.しかし,これらもまた個人と対話するわけではない.

双方向に対話し得るインターフェースを持った建築とは一体なんなのだろうか? それは今よりも遥かに“柔らかい”建築なのかもしれない.

1991年神奈川県横浜市生まれ.建築家.ウミネコアーキ代表/ wataridori./つばめ舎建築設計パートナー/SIT赤堀忍研卒業→SIT西沢大良研修了