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カトリーヌ・マラブー著『新たなる傷つきし者――フロイトから神経学へ、現代の心的外傷を考える』

<可塑性>というキーワードを展開し,<可傷性>や<不安定性>を提示するジュディス・バトラーとも近いテーマを取り扱っている哲学者カトリーヌ・マラブーの著書.この<可塑性>を取り巻く概念が興味深い.

「新しい傷つきし者」とは

まず,「新しい傷つきし者」を彼女は次のように定義している.

(…)さまざまな脳疾患や脳損傷の被害者のことである。頭部の外傷、腫瘍、脳炎、髄膜脳炎等々の神経変性疾患の患者、パーキンソン病やアルツハイマー病もこのカテゴリーに入る。精神分析が治療を試みて失敗した患者たちのことを、統合失調症、自閉症、癇癪、トゥレット症候群の患者たちのことを、思考しなければならない。(p.33)

「新しい傷つきし者」は第一に,脳疾患や脳損傷を負ったものを指しているが,それはなぜか.これは著者の実体験によるところが大きいようだ.

本書の起源には、二つの個人的事情がある。まず、本書は、アルツハイマー病に操作された私の祖母がこうむった、脱人格化という試練への事後の反応である。「操作された」といったのは、少なくとも最期の祖母は、この病気の<作品>、この病気の具現化、この病気による彫像そのものと私の目に映ったからだ。(p.8)

アルツハイマー病にかかる前と後で,祖母の人格が全く変わってしまったこと,そのように認識せざるを得ない状況下に陥ったことが,この概念の基点となっている.
そして,著者が乗り越えようとしているのはフロイトの「神経症」概念であり,心的要因による精神分析であろう.

病因論の領域で対立する精神分析と神経学の状況に参入する必要がある。病因が複雑多岐であろうと、それぞれの疾患に固有の病因論の練り上げは、どの精神病理学にも必要となる。したがって、精神分析と神経学のあいだで有益な対話が可能であるなら、両分野それぞれに固有の損傷の因果性の概念が問われなければならないし、両分野における出来事との関係が明らかにされなければならない。(p.14-15)
二十世紀をつうじて起こった軍事技術や戦争形態の変化に直面し、現代の戦争精神医学は、フロイトの時代に外傷神経症と呼ばれていた障碍から、近年、PTSD心的外傷後ストレス障碍と名づけられた障碍への変転を引きうけざるをえなくなっている。精神分析がこの変化を思考できなかったことについて、『精神分析黒書』よりいっそう納得のいく説明を戦争精神医学は提出しているように私は思われる。その説明は、つまるところ、心的外傷 Traumatisme の一語に要約できる。二十世紀のすべての葛藤、そして生まれつつある二十一世紀のすべての戦争/葛藤が示しているように、精神分析は、かなり以前より外傷を囲い込むことができなくなっていた可能性がある。したがって、心的外傷が問いの中心となる。(p.15-16)

精神分析と神経学のあいだを橋渡しすることで,心的外傷と脳損傷の関係性を再構築する試みである.著者はこの心的外傷と脳損傷を負った患者のあいだに類似性を見出す.

虐待、戦争、テロ、抑留、性的虐待といった体験をもった外傷被害者の振る舞いは、脳損傷者の振る舞いとおどろくほど似かよった特徴を示している。これらの心的外傷を「社会政治的外傷」と名づけることもできる。この包括的呼称のもとに、激烈な相互作用的暴力が引き起こす、あらゆる障碍を理解すべきなのだ。器質的外傷と社会・政治的外傷を分かつ境界線はの輪郭は、現在、いっそうぼやけてきている。(p.34)

この特徴とは,情動に失調を示し,別人格といえるほど人格が変貌し,無関心で冷淡になってしまうというものである.重要なのは,ある外的要因によって,それまでとは全く異なる存在に変容する可能性があるということである.この可能性は誰もが保有している.そしてこの変容を著者は<破壊的可塑性>と呼んでいる.

破壊的可塑性がもたらすもの

傷を決定する原因的意義の認識は、心に対する可塑的な力を視野に入れることにつながる。この「可塑性」という語について、主たる三つの意味を想起していただかねばならない。まず、粘土などのように、かたちをうけとることのできる物質のもつ能力である。二つ目は、最初の意味とは逆に、かたちをあたえる能力で、彫刻家や整形外科医などがそなえている能力である。そして三つ目は、「プラスチック爆弾 plastic」や「プラスチック爆弾による攻撃 plastiquage」という語が証言するように、あらゆるかたちを爆発させ破砕する可能性も示唆している。このように、可塑性という観念は、形式の創造と破壊という両極に位置づけられることになる。(p.42-43)
これは「美しい形態」という彫刻的な枠組みからは、かけ離れている。心の変容の決定因として傷に可塑的な力がそなわっているとするなら、さしあたって可塑性の第三の意味、爆発と無化という意味をあてるしかない。損傷後の同一性の創造があるなら、それは、かたちの破壊による創造ということになる。よってここで問題になっている可塑性は、破壊的な可塑性である。(p.43)

塑性とは弾性限界を超えた先の性質であり,一度進んでしまったら元に戻らなくなる変化である.それはある事物を創造することでもあるし,一方でそれまでの事物を破壊することでもある.脳損傷や社会・政治的外傷は破壊的可塑性を有している.そして,脳損傷や社会・政治的外傷を負った人物は,過去の当人とは同一性を担保されない.

これに対し、脳損傷が引き起こす変化はしばしば、被害者の同一性の先行段階なき変容である。「先行段階なき」というのは、ここでは、主体の過去と関係がないという意味であり、新たな人物(またしても<新たなる傷つきし者>である)が出現するということである。したがって、アルツハイマー病者は、たとえば、「変化させられた」あるいは「変化を加えられた」何者かではない。あるいはそうした者であるだけではない。そうではなくて、じっさいに、別のだれかになってしまった主体なのである。(p.39-40)
神経学の視点から、絶対的な危険という仮説が意味しているのは、痕跡が突然暴力的に消去されるかもしれないということ、この消去により起源も記憶ももたない同一性が形成されるということ、これは関心をもたない同一性、あるいは自身への関心のもちかたが虚偽であるような同一性である、ということである。そしてこれこそが破壊的可塑性の産物なのである。(p.223)

繰り返すようになってしまうが,この突然やってきたアイデンティティの喪失こそが,<破壊的可塑性>の特性である.それは予期せぬタイミングで,突如として現れる危険性なのだ.

人間はえてして安定性を重んじる傾向にある.既得権益であれ,経済的要因であれ,変化することを恐れるのは防衛本能に近い.思っている以上に価値意識は変わらないものである.レジリエンス(復元性・弾性)の重要性がよく挙げられるが,これはあくまで変化を許容しつつも核となる部分は変化しない,ということが前提になっている.
しかしながら,どうしても変化せざるを得ない事態というものが世の中には存在するのだ.

不安定であることで安定する

一方で,著者は「新しい傷つきし者」を脳損傷者や社会・政治的外傷者のみならず,その他のフロイトの時代には認識されていなかった病理にも敷衍している.

「新たなる傷つきし者」たちはまた、フロイトの時代に同定されなかった障碍に見舞われた主体である以上、ひとつの出現である。例としてあげられるのは、近年発見された、強迫性人格障碍や多動性症候群など、「運動障碍」一般の疾患などである。(p.33)
脳事象は、意味を欠いた偶発事故が心に対してもつ重みを示す出来事性の体制をさしていることを想起しよう。したがって私は、「新たなる傷つきし者」を、ショックをうけた状態にある者すべてというふうに、あえてとらえてみようと思う。脳の損傷をこうむっていなくても、外傷のために神経組織と心の安定性に変調をきたしている者も、ここに数え入れる。彼らもまた、とりわけ情動の失調に苦しんでいる者なのである。(p.33)

この資本主義社会のストレスフルな環境下において,程度の差こそあれ,あらゆる外傷による精神疾患や心身不安定な人々は増加の一途を辿っている.彼らもまた,現代社会がつくりだした(あるいは政治的にも)外傷による被害者である,と.
筆者はこの「新しい傷つきし者」たちの<可塑性>に意義深い価値づけをおこなう.

したがって、可塑性は、変形するが溶解しない形式がもつ特性として理解されなければならない。その意味で、変化自体をとおして存続し、変化に抵抗しさえする形式、さらに最初の状態にもどってふたたび顕在化することもできる形式である。つねに「解消される」可能性があり、結果としてこの「唯一の形式」の姿を浮かび上がらせることになるのは、一連の変化のほうである。可塑性は、厳密に、そして逆説的に、この形式の不安定さ永続性を特徴とする。(p.98)

この不安定性と永続性の両義性が<可塑性>の特徴といえるだろう.“不安定による安定”が成立するということだ.
どうしても変化せざるを得ない事態に対して,変化することによって存続しようという本能.これもまた事実である.何らかの衝撃で,それまでと全く変わってしまうこと,それもまた人間の一つの可能性なのではないか.

可塑的に変容した他者のために

著者は<破壊的可塑性>の危険性を転回させることで,それが生じてしまった人々に光明を見い出す.

<新たなる傷つきし者>は退行していないこと、政治的外傷であれ脳損傷であれ、外傷には抑圧の解除という意義がないこと、病者たちの言葉に啓示的な意味がないこと、病いはそれ自体としては、主体をめぐる過去の歴史観からみた真理の形式などとっていないということ。こうした事態は、じゅうぶんありうるし、じっさいにこうした事態こそ、精神分析に根底からの変化を迫る新しい事実である。(p.317)

本質的に外傷はあくまで苦痛である.しかしながら,それは何ら自己を卑下する必要があるものでもなければ,特段の過剰な意味が付与されたものでもない.あくまで,その個人に生じた属性の一時的な変化であり,それ以上でも以下でもないのである.
したがって,われわれはいかなる外傷が存在するのか,なぜその外傷が生じるのか,そしてその外傷によって個人はいかなる変容をとげるのか理解しておかなければならない.そして,その外傷が生じる要因をできるかぎり解決するように努めなければならない.

最後に,筆者は次のように締め括っている.

他者のためにその他者の苦痛を取り集めること。それは他者の場所を占めることではない。それは他者と場所を一致させる/調和させることだ。

いま,外傷を負った他者にとっての場所があまりに不足しているのではないだろうか.脳損傷あるいは社会・政治的外傷によって<可塑的に>変容した人物像を想像し,気づき,寄り添うこと.そして彼らの場所をつくりだすことが希求されているように思われる.



1991年神奈川県横浜市生まれ.建築家.ウミネコアーキ代表/ wataridori./つばめ舎建築設計パートナー/SIT赤堀忍研卒業→SIT西沢大良研修了