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『nyx 第五号』

〈聖なるもの〉とは何か

『nyx第五号』通読.第一特集の聖なるものがお目当て.
〈聖なるもの〉という概念は,神秘的なものや超越的なもの,あるいは言語化不可能なものを,内容を十分に分別することなく投げ入れる「ゴミ箱概念」(p.8)として便利に利用されている節がある.
それに対して〈聖なるもの〉と何か,その可能性と限界について様々な方が議論している.

佐々木雄大氏は〈聖なるもの〉がなぜそのように使われるかの理由を次のように解釈する.

なぜこの言葉を選ぶのかというと、恐らく「俗なるものではない」と言いたいわけですよね。超越の対義語は内在、宗教の対義語は世俗になりますけれども、それでいえば、〈聖なるもの〉は「俗なるものではない」という意味ですよね。その時の俗という言葉の中には、経済的な利益を目的とするというニュアンスが含まれている。人間の生は経済的価値だけではない、有用性を超える何か、人生に意味を与えてくれる何かがあるんだと言いたいから〈聖なるもの〉と言いたいんじゃないかと推測します。(p.32)

ところで,〈聖なるもの〉という概念は「宗教」の理解においてしばしば導入されるが,

「十九世紀から二十世紀にかけて歴史的に形成されてきた概念であるにもかかわらず、その経緯は顧みられることなく、あたかもア・プリオリであるかのように自明視されている」(p.8)

とされるように,その実体を前提とするには心もとない概念である.それでもなお,現代において何らかの可能性があるとすれば一体なんなのだろうか? 少なくともこの特集から感じたことに少し触れたい.

「ヌミノーゼ Numinose」という「感情」

ドイツの哲学者ルドルフ・オットーが1917年に著した『聖なるもの』の中で提唱した「ヌミノーゼNuminose」という概念に注目しよう.
彼はカントにおける聖の概念に対する合理性のみからなる規定を批判する.

オットー(Rudolf Otto 1869-1973)は、「神性(Gottheit)の本質」を「聖なるもの(das Heilige)」の概念によって規定し、それを「合理的な部分」と「非合理な部分」からなる「複合カテゴリー」とする。ここでの「合理的(ratinal)」とは、「明晰判明な概念」によって規定されうることを意味するが、オットーによれば、聖の概念は、近代以降、「合理的な部分」に即してのみ規定され、例えばカントはそれを「義務の動機から迷いなく道徳法則に従う意志」といった「倫理的概念」乃至「善」の概念に即して規定する。だが、オットーによれば、聖の概念は「合理的な部分」によっては「組み尽くされ」えず、そこには必ずその「余剰」としての「非合理的な部分」つまり「感情(Gefühl)」が残り、むしろこの「感情」にこそ、古代以来の聖の概念の本質が、さらには宗教の本質がある。(p.50-51)

そこでオットーは、「聖なるもの」の「非合理的な部分」のみを指示する「ヌミノーゼ(numinose)」という造語を新たに導入する.そして,その「ヌミノーゼ」は複数の要素から成る.

「ヌミノーゼなるもの」が主体の内に引き起こす「感情」を、①「被造物感」②「畏るべき神秘」③「賛嘆」④「魅了」⑤「不気味」⑥「尊崇」という六つの「要素」に分析する。この感情とはつまり、「聖なるもの」を前にした主体の心をその根底から揺り動かす極めて強烈な敬虔感情に他ならない。(p.51)

「ヌミノーゼ」とは非合理的な「感情」であり,その感情の要因すらも多岐にわたるということ,そこには必ずしも美学的な意味だけでなく「不気味」のように相反する要素が含意されていることも興味深い.

また,「ヌミノーゼ」はその非合理性と複数性から,還元することを棄却し,曖昧なまま認識することを要請する.

「ヌミノーゼなもの」を「表象」を通じて「認識」することとは、その「表象」を、概念に還元することなく不明晰なまま「所有(Haben)」することにほかならない。「〔ヌミノーゼの〕認識は、感情による認識 (gefühlmäßige Erkenntnis) つまり不明晰で不明瞭な認識の獲得を意味する。(p.58)

この理性的に言語化不可能なことの価値こそが,〈聖なるもの〉の特質の一つであろう.

しかしながら,それをただ言語化不可能であることの価値としてしまえば,冒頭で言及した「ゴミ箱概念」としての意味程度でしかない.少なくとも,オットーは非合理的な「感情」が起因する要素を六つ提示しているように,可能な限り言語化を試みている.ではなぜその「感情」が呼び起されるか,というのは現在あるいは将来的に科学的に証明し得るかもしれない.

その現時点におけるどうしても克服できない言語化不可能なものこそ,「宗教」が乗り越えようとするものであり,「神性」を支えるものではないだろうか.

日本における〈聖なるもの〉とは

ところで,この〈聖なるもの〉という概念は日本とは実はあまり相性が良くないように思う.
それは,聖なるものが標榜しているのが,明らかに西洋のキリスト教的な一神教的宗教観に依っているからである.例えば寺社仏閣にも確かに神聖さを感じることはあるが,それは祀られているものが想定し得るからであるし,天皇に対して畏怖の念を抱くのも,一神教的な〈聖なるもの〉の感覚に近いからかもしれない.
つまり,日常的に〈聖なるもの〉という感覚を抱く体験が,西洋に比較して圧倒的に不足していると思えるのだ.

しかしながら,その「俗なるものではない」という〈聖なるもの〉としての価値は,この俗物化が侵攻する現代において注目すべき概念であるように思う.
果たして,それを〈聖なるもの〉と表現するのが正しいのか,あるいは〈崇高さ〉のような別の表現の方が適切なのかは議論の余地がある.

1991年神奈川県横浜市生まれ.建築家.ウミネコアーキ代表/ wataridori./つばめ舎建築設計パートナー/SIT赤堀忍研卒業→SIT西沢大良研修了