よりよい日のために

昼間に少しだけ散歩に出て暑さに驚いた。
駅前の温度計には29℃の表示。
すっかり初夏の気温。
昨日はまだじっとしていれば春らしい肌寒さがあった。
路地の猫も揃って日向ぼっこしていた。
駅前広場では鳩も日光浴中のようで、芝生に座って丸くなっていた。
鳩の座っているのを見たことがなかったので、エサがなくて衰弱しているのかと思った。
そういえば今日から5月だ。

やっぱり人は動いているようだ。
友人はバイトに行った。
元々テイクアウトをやっていたお店なので、店頭販売のみで営業を続けている。
連休前から徐々に客足が増え始め、友人にも応援の声がかかったそう。
仕事があるのはいいことだが、他のお店はだいたい完全休業なので、何か圧力がないかと心配だ。

自粛は何のためにあるのか。
どういうバイアスが、何のためにかけられているのか、気づいている人は少ない。
でも、私も、少しも信じていないものを信じているように振る舞う。
自分にとって、より大きな問題に対処するために、小さないざこざに時間を取られるのは無駄だからだ。
だからマスクも付ける。
本当はすごく嫌いだけれど。
旅行も行かない。まぁ、これはお金がないだけ。

令和がはじまってから丸1年。
これからこの元号の中でどれだけのことが起こるのか。
計り知れない。
私は別に、みんな幸せになってほしいとか、そういうことは思わない。
そんな言い方は甚だおかしいからだ。
でも、本当の暗闇で不当に苦しめられている人々は解放されてほしい(あるいは、死が解放であってほしい、と、彼らのためにはそう考えて、祈る)。
そのためなら闘える。
かっこいいことを言っているだけ、実質の力は塵もない。
だけど、芸術を選び、自分自身で考え生きることを決めたのは確かだ。
僅かな幸運のおかげで。

ここで断っておきたいのは、世の芸術家の9割は、詐欺師と平凡なロマンチストだということ。
私は、絶対に、芸術を偉いとは思わない。
しかし、じじつ、芸術でしか出来ないことがある。
というより、その可能性に頼らなければ、抗いきれない場合がある。
それは時々、自分の人生なんかよりずっと重要で、他人に理解されることよりもずっと大切なことになる。
こんな恥ずかしいことを、人にみられる場所で平気で書いていられるわけはないのだけれど、今日は言っておかなければならない気がした。

正しいことを言って不当に殺された人間がいたとする。
人々は不正に気づいたとき、その不遇の死を嘆くだろう。
善良な人は、いつもこうだ、と。
だけど、私は、正しいことのために不当に殺されたならそれでいいと思う。
なぜなら、その人が「正しい」ことは何かを考え続け、そのために生きて、死んだということは、不当な死によって、まったく何一つ傷付けられていないからだ。

不正に生かされていることに気づいたときに、自分の人生は一体なんだったんだ、と、考え始めては遅い。
問題は常に目の前に全部広がっている。
「正しい」ことが何なのかを知るためなら、何も障害にはならない。
今もこれからも、社会不適合で変わり者であっても、まったく全然構わない。
ただそういうことを、今日は言っておきたい。

For A Better Day