『やりすぎ教育 商品化する子どもたち』—英語教育の圧倒的な罪深さ。
武田信子先生の『やりすぎ教育 商品化する子どもたち』を読んだ
全体を通して自分のこれまでの教師としての言動・振る舞い・考え方を批判的に問われ続け,教師という職業の中では比較的筆者の言う「エデュケーショナル・マルトリートメント」に理解があると思っていた自分も,よくよく思い返せば「成功」を目指した教育の一端を積極的にになっている部分もあることを否めないことを自覚した。
第3章には乳幼児期の話,第4章には子どもの健全な発育を阻む社会システムやインフラの問題が取り上げられており,一人の学校教員として全てを引き受けながら読むことは難しい。ぜひ多くの同僚・家族等と一緒に読書会という形で読みたい一冊だと感じた。
一方,それでも一教師として強く受け止めなければいならない部分ももちろん沢山ある。本投稿では特に学校(英語)教員が強く問題意識として持っておくべきだと感じた部分を取り上げる。
「キー・コンピテンシー」と「トータル・コンピテンシー」
本書第1章では現代人に必要な「キー・コンピテンシー」をすべての子どもに求めるような潮流に対して,組織の「トータル・コンピテンシー」を重要視することが求められている。トータル・コンピテンシーとは,筆者の言葉を借りれば「関係する人々の総体的な力」である。冷静に考えれば我々は社会生活のほぼ全ての局面で,周囲の人々の力に支えられながら生きていることは自明である。僕がこの文章を書くことでさえ,これまで出会ってきた人々との関係性の中で可能になることであり,あまり得意とは言えないレビューを書く勇気すらも今繋がっている人々から与えられている。
おそらく今勢いのある多くの私立の学校は,必死で流行を追いかけ,令和の時代に必要とされる能力を提示することで親世代に子どもの将来に対する不安を煽り,それを解決する可能性の高い教育プログラムを提示することで生き残っている。そこで目指されている教育自体は熱い想いと冷静な時代を見る目で支えられているもので,決して悪いとは思わない。また,そこで育成を目指す全ての能力を全ての生徒に完璧に身につけてほしいと本気で思っている教員はほとんどいないだろうと思う。
それでも子どもたち,そしてそれ以上に保護者は「自分(の子)は〇〇が出来るようになるだろうか。出来るようにならなかったらどうしよう」という不安に駆られる。また生徒の中には「どうせ自分には出来ない」と腐っていく者も少なくない。仮に「出来ない」ことが事実であったとしても,トータル・コンピテンシーで社会を捉えれば,何かが出来ないことを理由に腐る必要は全くないはずである。
英語教育のマルトリートメント
本書で書かれている内容を教科教育の話に落とし込んだ時,恐らく最も罪深いのは英語科だろう。その理由は大きく次の3つがあると考える。
①グローバル化により英語が必須のスキルになるという嘘
②脅迫的なまでの検定・スコア化
③教科書で取り扱う内容
① 「グローバル化により英語が必須のスキルになる」という嘘
よく聞くようなフレーズではあるが,これは2つの意味で嘘だと言える。上で触れた「トータル・コンピテンシー」のことを考慮すれば,英語(というかその国で主に話されているもの以外の言語)が組織の全員に必須のスキルである可能性は極めて低いことは明らかだろう。またあえて「キー・コンピテンシー」的な発想に付き合うとしても,オックスフォード大学の発表した「2030年に必要とされるスキル」において「英語」は21位,「外国語」は44位であり,とても「必須のスキル」とは言えないだろう。(ちなみに1位は「戦略的学習能力」)
② 脅迫的なまでの検定・スコア化
先日ある生徒に「先生,英検2級取ったら外国人と普通に会話できますか?」と尋ねられた。彼の疑問が「英検2級とは外国人と普通に会話できるという英語力を示すものか」なのか「英検2級に受かるように勉強すれば外国人と普通に会話できるようになるのか」なのか,はよく分からないが「外国人と普通に会話できるようになりたかったら,英検の勉強やめてALTと普通に会話してみたらいいんじゃない?」と答えた。(ここでは「外国人」「普通」「会話」とかの定義には突っ込まない。)
この生徒からの質問に象徴されるように,英語学習の目的・目標が英検やTOEIC等にすり替えられていることが多い。別に検定を受けること自体は個人の自由だが,本来「英語力」なるものはそう簡単に優劣がつけられるものでもなければ,そもそも色々な状況・環境によって発揮される力が異なるはずである。(これもトータル・コンピテンシー的な考え方。)それがスコア化されることによって2級を持っているかどうか,700点を超えているかどうか,人より◯点高い・低いという優劣がつけられてしまう。(本来のCEFRのように)個人の現状把握とその後の学習の見通しのために用いられるのであれば構わないが,「外部検定試験を大学入試に」という議論になっている時点で絶望的である。
③ 教科書で取り扱う内容
高校の英語の教科書の多くには世界で活躍するアスリートや偉大な業績を残した科学者などの半生を紹介した英文が含まれている(いちいちデータは取っていないが,おそらく誤った観測ではないだろう)。
もちろん何か大きな功績を残した偉大な人物から学ぶことは沢山ある。しかし,「〇〇さんがみんなぐらいの歳の時にはこんなことをしていたんだよ」とか「みんなはどんなことをするといいかな?」とか,偉大な何者かになることが価値を持つことだと刷り込まれることには問題もあるだろう。中学時代の川村少年ぐらい「先生だってたかだか先生とかいう子ども相手の職業についたんだから大した学生時代送ってないですよね?」みたいなことを平気で言う性格なら良いが(良くない),ありのままの(無力な)自分では存在価値がないのだと受け取る生徒もいないはずはないだろう。ありのままのその人を,存在そのものを肯定するという観点で見たとき,英語教育は果たして「教育」と呼べるのか。「虐待」の域に入っていないだろうか。
私立の立ち位置
第5章で筆者は,エリートを育てたいと考える親は「学校教育外でさまざまに育てていくことは勝手にやっている」とした上で,「公教育は,悪条件で育っている生徒たちをどう救い出し支えるのか,悪条件の連鎖をどう食い止めて人生に希望を持たせるかを考えることが何よりも優先されるべきでしょう」と述べている。
この一文を読んで最初自分は「私立の教員としてはちょっと違う考え方をするべきなのだろうか」と疑問に思った。
しかしそう思ったこと自体が「私立に通えているぐらいのお金があり,親が熱心に子どもの将来を思っている子達なのだから,それに応えるべく色々与えるべきだろう」という自分の思考の方向性を示しているし,「私立に通わせてもらえる子どもたちは『悪条件で育っている生徒たち』ではない」と思い込んでいる証拠なのではないだろうか。
この第5章の最終盤での筆者の意図や文脈としては,私立でそれなりに裕福にやっているところは「とりあえず置いておいて」もいいのかもしれないが,私立なら子どもに何でもかんでも与えるべきとはもちろんならないし,そもそも本心から強く望んでその学校に入った子どもがどれほどいるのかも疑問だ。
まだまだ必要なことが十分にやれてなさすぎな学校も恐らくある中,「やりすぎ教育」の問題はまず私立から考えていくべきとまで言えるだろう。本来無料で行ける中学校3年間にお金を出して早いうちから子どもに「投資」し,大学卒業後に「回収」する。まさに「商品化」されている子どもたちは目の前にいる。
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