青木幹勇(1987)『いい授業の条件』国土社
正直,期待していたよりずっと中身が軽い印象。いや,勝手に期待したこちらの問題でもあるのだけど,まえがきで「「いい授業」であるか,そうでない授業かは,いうまでもなく,子どもの側に立っての評価でなければなりません」と述べられている一方で,中身は筆者の主義の表明である部分が多い。筆者が確かに子どもたちの様子を見て「いい授業だ」と思えた経験から抽出した内容なのだろうが,どうしても説教臭く感じてしまう。
とは言え,小学校での国語の授業(者)が本書のターゲットだが,英語教育に引きつけて読むと幾つか重要な視点も提示されている。
文法訳読はダメな授業か?
パソコンやスマホで「文法訳読」と打とうとすると「文法薬毒」と変換されてしまう程度には,文法訳読は悪者扱いされている。(上段は,冗談…。)
しかし,青木の言う「いい授業」の条件に照らし合わせると,もしかしたら文法訳読も「いい授業」になるのでは?と考えることができる。
(教室の実態はどうあれ,理論的には)文法訳読が強く批判(ほとんど否定)され,英語での言語活動中心の授業が推し進められているが,個人的には「文法訳読ってそんなダメ?」という疑いを常に持っている。ここでのポイントは「三分〜五分」という限定だろう。文法訳読「式」と言われる授業は45分(以上)の授業時間のほとんどが教師の説明中心の文法訳読に終始する。それは確かに批判されるべきだろう。しかし,授業の中から「文法規則に沿いながら文章の意味を説明する」という時間を完全に取り去ることを良しとしている英語教師はそれほど多くないのではないだろうか。上に引用した箇所は,英語教育政策や英語教育のトレンドと,教師自身の(経験に基づく)直感とのズレに対する違和感を解きほぐしてくれるような視点だ。
「書くこと」のいい授業とは?
また,本書の最大の価値は後半にかけて怒涛に続く「書くこと」の指導に対する青木の主張と実践だ。国語における「書くこと」の指導といえば「書写」と「作文」が代表的だが,青木は「言語生活の中での「書くこと」」に注目する。
国語を専門と(自認)する教師からこのような言葉が出てくることに,正直驚いた。もちろん良い意味で。
尚,このような種類の書くことの例としては以下の四つが挙げられている。
さて,英語教育における「書くこと」の指導はどうだろう。もし(内容的に極めて希薄で退屈かつ,表現・文章構成に対する創意工夫も求められない)いわゆる「英検ライティング」に終始しているとすれば,悲しいことに,青木のいう「言語生活の中での書く」は全く意識されていないことになる。というか,せいぜい脆弱な「作文」指導があるだけで,「書写」すらもまるで出来ていない。
小学校の国語の授業という文脈を忘れてはいけないが,青木は「視写」の活動,つまり目で見た文章を書き写すことを授業に取り入れることを推奨している。宿題等で済ませるのではなく,授業で取り組むのだ。そのことによって少しずつ,自分が読める程度に正しく速く書く力を身につける。
「そんなのは国語教育の目的ではない」とか「そんなことしなくても,そのうち書けるようになるだろう」とかの批判は容易に想像できるが,青木の次の言葉は肝に銘じておきたい。
これと同じ問題意識を共有するのが,まさに英語授業,特に中学1年生あるいは小学校高学年の段階でより広く活発に行われるべき「文字指導」である。美しく丁寧にはっきりと書く必要はない。適度に書きやすく読みやすい英語の文字を書けるようになることが,その後何年も何十年も続く英語学習のスタートとして必要不可欠なのだ。
そしてその後も英検ライティングだけでなく,様々な種類のライティングを活動の中に取り入れていきたい。話すことについては過剰なぐらい「日常」を意識する割に,書くことについてのその辺りの意識が英語教育界全体でまだまだ高まっていないように思う。(英語教育界全体を本当に見れているわけでは全然ないし,そういう取り組みを実際にしている先生も案外少なくないだろうと思ってはいるのだが,意図的なポジショニングとしてこう書かせてもらっている。取り組んでいる先生方,ごめんなさい。)
聞いた内容を(要約して話すために)英語でメモを取るのも良いし,もっとカジュアルにSNSへの投稿を取り扱ってみてもいいだろう。英検ライティング以外の書くことは,今を「黎明期」だと考えれば,ひとまず何でも良いから日常にある「書く」という行為を目標言語でやってみるという発想で良いのではないだろうか。
英語学習をスムーズに進めるための文字指導,それに続く「言語生活の中での「書くこと」」が英語教育における「書くこと」の当たり前になってほしい。
おわりに
後期の2年生「英語科教育法II」の教科書の候補として手に取った本だったが,学生と議論しながら読み込むにはやや上滑りしそうなところも少なくなかったので,残念ながらボツとした。
それでも私自身は英語教育に対する問題意識やそれへの解決の糸口を優れた国語教育の実践から得ることも多いタイプなので,程よい刺激を受けながら読むことはできた。ただ,冒頭に述べたように,やや説教臭さがあって,(ぎりぎりZ世代と言っても許されるらしい)私には読みづらかった。(世代のせいにするな。)
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