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探究の時間-何も話すことありません。

先日、教職課程の学生2名を引き連れて、北海道の札幌新陽高校に学校見学に伺った。(この記事は校長先生より掲載許可をいただいております)

1日目の午後。高校2年生の「総合探究」という授業を見学させてもらった。生徒たちは「この一年での自分の成長を5分でプレゼンする」という最終課題に向けてスライドを作り始めていた。そのプレゼンは3月に行われるらしい。オーディエンスは他のコースの同級生。基本的に「知らない子たち」らしい。
教室をぐるっと見ていて、この活動に極めて前向きに取り組む生徒と、全くモチベーションのない生徒のコントラストが印象的だった。座席入り混ぜなのに、やりたい生徒とやりたくない生徒で教室が二分されているような空気感。

私は「発表のタイトルを一緒に考えてやって」と一人の先生に声をかけてもらい、二人の生徒と話し込んだ。一緒にタイトルを考えようとしていが、そもそもまだ内容がなかった。「タイトルから考えて内容をそれに合わせちゃうか」とか話していたら、「内容とか何もないし」とのこと。彼女らももちろん2年間高校に通って様々な学びや経験をしてきているし、放課後にはそれなりの頻度でアルバイトもしている。その中で感じた「成長」は確かにあるはずだ。

「バイト始めてからできるようになったこととかある?」

「(飲食店のバイトで)〇〇めっちゃ上手に作れるようになった」

「じゃあ、そういうこと発表したらいいんじゃない?」

「いや、なんかそういうのじゃない感じじゃん」

「そうなん」

こんな感じでスライド作りの話は停滞した。

授業時間も終盤に差し掛かった頃、先生が全体に声をかける。
「まだ書くことないよって人、部活動で大会に出たキャプテンやった、そういうことでもいいです。そういうのもないよって人、発表の日までにボランティアとかもやる機会は作れるので、是非そういうのに参加してみてください」
曖昧な記憶だが、概ねこんな感じのことを言っていたと思う。

そこで先ほど生徒が言っていた「いや、なんかそういうのじゃない感じじゃん」の意味を理解できた気がした。

ここで求められているのは、人と違う目立った功績のようなものなのだ。少なくとも一部の生徒にはそう伝わっている。もしかしたら先生方はそんなことは思っていなくて、もっと日常生活の中で感じる小さな成長でも良いと思っているかもしれない。でも、そういうのを見つけて言語化するのは結構難しい。だから、誰でも何かしらの発表に漕ぎ着けられそうなボランティアとかをついつい薦めてしまうのかもしれない。

「総合探究」という授業で何が目指されているのか部外者の私は知らない。だが、「自分自身の成長」というテーマでプレゼンする上で、日常の中の些細な成長を発表することに対して生徒が「そういうのじゃない」と感じ、先生からも「大会」「キャプテン」「ボランティア」といった言葉が出てくるという状況、それは本当に「探究」しているのだろうか。

この疑問は先生方を責めるものでは全くない。問題があるとすれば、学校教育に強く根付く「システム」であり「文化」とも言える「みんな一斉に」の前提である。その前提から疑わなければ本質的な解決はないだろう。

一人一人日々の生活も違えば、成長の実感も違う。
それでもある決められた日に必ず自分の成長について語ることが求められる。

一年、二年あれば誰だって成長はするのだから、求められた日に発表することはあるはずだ。自分自身をメタに振り返って、その成長を言語化することが大事なんだ。

みたいな意見もあるかもしれない。
それは分かる。確かに私が話した二人の生徒にだって絶対に話せることはあると思う。実際、それ話せばいいじゃんと私は思ったわけで。

でも、それだけではまだ「話したいかどうか」という気持ちの問題が無視されたままだ。「確かに、言われてみれば私は成長したかもしれない。でも、それをわざわざ知らない子たちに話したいと思うほどじゃない」という素朴な感情。

そんなこと言ってたら、いつまで経っても発表なんかできないじゃん

という声もありそうだ。ではせめて【一年間の中で一度は発表する】ぐらいのルールでどうだろうか。それでなんだかんだ何も考えずに年度末が近づいた頃に慌てて考えるのであれば、「まぁもっとタイミングあったけどやらなかったのは自分だしな」と多少の納得感はある。それに不定期に何人もの人の発表を聞く中で、「これぐらいの内容でもOKかな」という「許容範囲」が段々学年の雰囲気として広がっていくことも期待できる。

授業研修として全ての教員の授業が同じ日に外部評価員みたいな人達の目に晒されることになれば、ほとんどの先生が周りを気にして「〇〇先生、研修の日どんな授業します?」と声をかけることは容易に想像できる。と言うか、私が静岡で教員をやっていた頃にそういう場面を沢山見た。同じ日に全員が発表させられるならば、生徒も同じように感じるのは当然だろう。

英語の授業についても同根の問題がある。単元のゴール活動としてプレゼン等の「パフォーマンス」をさせることも段々と増えてきただろうと思う。そのプレゼンに対して「よし、しっかり準備できた。ちょっとオーディエンスを楽しませちゃうぞ」なんて前向きな気持ちで取り組めている生徒はどれぐらい居るだろう。
もちろん発表の時期や回数を自由にすれば全てが解決するわけではないが、それでも、もっと生徒を信頼して、もっと生徒に選択や自己決定の余地を与えられる可能性を探りたい。

「社会に出ればプレゼンや発表なんてものは、勝手に期日が決まってそこに向けてやらなければいけないだろ」

確かにそうだ。しかし、学校と社会のつながりが強く求められる風潮に逆らうようだが、学校が社会と一定の距離を置いているからこそ実現出来る学びもある。学校での学び・成長・失敗、それらが社会に無闇に晒されないからこそ出来る学びがあるのだ。(ポートフォリオで、全ての活動を記録し、一括で公開・把握なんて、愚策中の愚策だ)

話をもう少し大きくすると、「(今の)社会に出たらこうでないといけないから、生徒たちは辛くてもそれに順応しなければならない」と言うならば、それは「社会が変わってしまうから同性婚を認めない」と言うのと何が違うのだろうか。

今回訪問した札幌新陽高校さんは、新しい社会を構成する次の世代を育てている。そこに、今の社会への無抵抗な順応や諦めの姿勢は見えない。そういう高校だからこそ、本当に生徒が「探究」できる実践をいつか実現できるのではないかと遠く金沢から期待し、またいつか訪問に行ってみたい。

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