『英語教師を変える楽しい学び直し』
登田龍彦(2021)『英語教師を変える楽しい学び直し 自律的学習を導く語彙・文法指導の原点』 を読んだ。
「ことば(母語そして外国語)への気づきを通して,自律的学習のできる子どもを育てる」(p. 279: 強調引用者)という筆者の目的の達成への道は決して楽ではなさそうだが,英語学を軽くかじってから英語教師になった自分としては総じて面白く読めた。
本記事では本書の中から特に英語教師全体に共有される常識になってもいいのでは?と感じることを中心に取り上げたい。
先に断っておきたいことがある。英語教師の英文法知識に関する議論になると,個人のブログから今回取り上げたような書籍まで,総じて,「知る者と知らざる者の対立」を煽ってしまいそうな危うさがチラつく。
登田(2021)に対して私があまり好意的に受け取らない部分の多くはその対立を煽りそうな語り口に起因する。
しかし,いざ本記事を書いてみると,どうやら自分も同じことをやってしまっている気がする。「英語教師がこういうことを知っていて,生徒に面白く話せるといいな」という思いが,どうしても「英語教師たる者,これぐらいは知っておけ」という風に読めてしまう。
本記事を読んでそのような苛立ちを覚えた方にお願いしたい。
私のことは嫌いでも,英文法のことは嫌いにならないでください!
There構文
言語学の様々な分野の知見が散りばめられた本書の中で,結構なページ数を割かれて重めな議論がなされている項目の一つがThere構文である。
中学校でThere構文が導入される際「存在」というキーワードが用いられるだろう。
中高生用英語教科書New Treasure Stage 1には次のような説明が掲載されている。
・「(…に)〜があります[います]」と人やものの存在を表す時は<There is[are] ~ (+場所を表す語句).>を用いる。
・文頭のThereは「存在」を表し,主語にはならない。be動詞のあとの'〜(人やものを表す語)'が主語になる。
上の二つの説明にはそれぞれ問題がある。分かりやすい下の文から見ていく。
まず「文頭のThere」について,「主語にはならない」とし,主語はbe動詞の後の名詞句であるとしている。しかし,これは「主語」とは何かの議論なしには成立し得ない主張である。
確かに動詞(この教科書の導入時点で想定されているのはbe動詞)は後ろの名詞句と「一致」する。つまり,名詞句が単数であればis/wasを用い,複数であればare/wereを用いる。
しかし,There is a cat.という文を疑問文に書き換えると,Is there a cat?という文になり,そこではThereとbe動詞を倒置するという操作が行われている。Thereと*助動詞との倒置により疑問文が生成されていることに注目するとThereが主語とも言える。あるいはその疑問文への応答は,Yes, there is./No, there isn't.となり,ここでのthereも主語らしい振る舞いをしていることがわかる。
[*ここでは,疑問文の文頭に移動する語,否定文でnotが付加される語を表す。canやmayなどの「法助動詞」とは区別される。]
さらに上記引用の二つ目の文にはより大きな問題がある。「文頭のThereは「存在」を表」す,とされていることだ。その直前では「「(…に)〜があります[います]」と人やものの存在を表す時は<There is[are] ~ (+場所を表す語句).>を用いる。」と明言している。「存在を表す」のはThereという語なのか,There構文なのか。これは「問題」というより,「意味不明」だ。
これだけでも中学英文法におけるThere構文のいい加減な把握がよく分かる。詳しい解説は本書を読んでいただく他ないが,「thereは無意味なものではなく,心にあるものを,あるいはある出来事を,心にのぼせる機能がある」(p. 140: 強調引用者)という主張は(授業でどう扱うかは一旦置いておくにしても)英語教師には理解されたい。
それと地続きの議論で情報構造についても本書では有益な考え方が紹介されている。中高の英文法指導における「情報構造」の現状の扱われ方は私にはよく分かっていないが,おそらく「新情報」「旧情報」という概念を高校生ぐらいでは導入されていることも少なくないのではないだろうか。
それこそまさにThere構文,他には受動態などの文法を「なぜ」「どういう時に」使うのかを考える際に,それっぽく説明できるからだ。
本書で紹介されているのはBirner and Ward(1993)の「聞き手にとって新しい情報(hearer-new)」と「談話において新しい情報(discourse-new)」という考え方だ。残念ながら私はこの先をnote用に噛み砕いて説明する力を持ち合わせないが,定冠詞付きの名詞句を伴うThere構文,例えば"There are the children."がどのような場合に適切な文と見なされるかを学習者に説明できれば問題ないだろう。
形式・意味・使用
本書第5章「語彙・文法指導」では,ラーセン・フリーマンの提唱した文法の形式・意味・使用の3側面が大々的に取り上げられている。
これは個人的には学校英文法の指導の定番というか,基礎・基本として定着してほしい考え方である。
ざっくり言うと,あらゆる文法事項について「どのように構成されるか」(形式),「どのような意味か」(意味),「なぜ・どういう時に使うか」(使用)の3側面がある。
上で触れたThere構文で言えば,この3側面全てにおいて不十分なことが多いと言えそうだ。形式については動詞に続く名詞句を不定のものに限定して教えている意味で不十分であり,それは「存在」という雑な「意味」の説明と「使用」に関する指導の欠如に起因する。
それ以外にも「(法)助動詞のあとは動詞の原形」という「形式」は徹底的に叩き込まれている一方,様々な法助動詞の「意味」関係,そしてその「使用」場面についての理解は極めて乏しいものになっている印象だ。(大学生の頃の塾講師としての経験による「印象」であり,日本の英語教育を即座に一般化して語る意図はない)
ただ,本書全体を通じて,「形式」「意味」「使用」の3側面,特に(日常生活における)「使用」の側面を前面に出すことへの過度な信頼も見て取れる。
以上のような[引用者註: 教室の言語活動を日常生活でのそれに近づけるような]少しの工夫でActive Learningへとつながり,学習者の興味も無限に湧いてくると思うのであるが,いかがであろうか。(pp. 251-2)
「いかがであろうか」という筆者の問いに、1人の英語科教員として答えると、まぁ過言だろう。
ただ,この辺りは言語学者である筆者ではなく,我々英語教育プロパーの人間が引き受けるべきところだ。
英語学と英語教育
私は学生時代「なんでみんな言語学の勉強しないの?」「言葉に興味ないのに言葉教える仕事したいの?なんで?」と,本気で「疑問」でもあり,小さくない「怒り」の感情もあった。
学部1年生の頃に受けた「英語学入門」の授業は,その内容のほとんどが高校英文法の延長に過ぎず,周りの受講生とも言語の不思議さや面白さを巡った議論などほとんど出来なかった。その授業を担当した教授には後にめちゃめちゃお世話になって距離もずいぶん縮まったので,「今だから言えますけど,英語学入門クソつまんなかったです」と素直に打ち明けたが,責任は教授だけにあるわけではないだろう。
基本的に英語教師になることを目指して入学し,学校で英語を教えることを念頭に「英語学入門」を受講していた学生の多くが英文法に興味を抱いていなかったか,むしろ嫌いだったように思う。その環境が「クソつまんなかった」のだ。だからこそわざわざイギリスまで応用言語学を学びに行きたいという気持ちになったのかもしれない。
学生時代から文法に対してネガティブな意識を抱き続ける英語教師にとっては,多忙を極める教員業務の中で「英文法の学び直し」に踏み出すことはかなりハードルが高いだろうし,ましてそれを「楽しい」と思える可能性はかなり低い。
しかし一方で,自身の文法理解の浅さを文法指導のチグハグ感によって突きつけられ,「ちゃんと勉強したい」という気持ちになる英語教師もいる。多くの英語教師にそういうタイミングがいつか来ることを願って本書のような本が出版されるのだろう。
そのような英語教師のための英文法書の類は教師にとって,ひいては学習者にとって,非常に有益な知見を与えてくれるものであるが,(残念なことに)それがすぐ明日の授業に活気や学びの深さをもたらしてくれるわけではない。
「英文法の学び」を「授業の活気」や「生徒の深い学び」に繋げていくのは(英語)教育学の役割だ。大学の教員養成で言えば,英語学の授業で学んだことを英語科教育法でどう引き取るか,あるいは英語学の授業と英語科教育法の授業をどう関連づけるかという問題だ。
そんなことを強く意識させられた一冊だった。
(そして同じことを繰り返し意識させられそうな文献を複数購入させられてしまった…。)
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