見出し画像

「異文化コミュニケーションの視点から考える英語教育」—鳥飼玖美子氏 特別講演

2021年度ELEC英語教育賞授与式に続いて行われた鳥飼玖美子氏の特別講演「異文化コミュニケーションの視点から考える英語教育」を視聴した。

全体を通して非常に聞きやすいし理解しやすい。これは鳥飼氏の著書等をそれなりにフォローしてきた上にかなり肯定的に捉えていることと無関係ではないだろうけど。

暗雲立ち込める「グローバリズム」

「グローバル化」「グローバリズム」という言葉はもう聞き飽きるほど何年も前から聞かされてきた。たかだか8年前に教育学部英語教育専修に入学した私がそう思うのだから,世の英語教育関係者の多くにとってこれらの言葉はもはや自明視され,ある意味で何の意味も持たなくなってきていたのではないだろうか。
学校説明会,卒業式の招待講演,英語の授業,色々なところで色々な大人が「グローバル化する時代だから…」と言った時,その「グローバル化する時代」そのものに疑いをかけてきた人はどれほどいただろう。

日本の英語教育は長らく「グローバル化」を根拠として推し進められてきた。(何が「推され」何が「進んだ」のかはよく分からないが)
しかし,コロナによってその自明視されていた「グローバリズム」が怪しいものとなった(と市民の目に明らかになった)と鳥飼氏は言う。
どこの国も他国との国際的な交流の重要性も理解しているし,他国に移動できないことの不便さも互いによく分かっているが,それでも「入国禁止」を決めて自国民を守ることを最優先した。
これはグローバリズムではなく,ナショナリズム的な発想に基づいた政治判断だ。そしてその判断を支える論理及び感覚は政治家だけでなく,多くの地球市民に共有されていただろう。

「留学に来たい・行きたい人の気持ちを考えるとかわいそうだけど,仕方ないよね」
と,この2年多くの人が思ってきただろう。私も例外ではない。
いつの日からか「別に受け入れる側の国にだってそれなりに感染者がいるんだから,海外から来た人を特別危険視する意味なくない?」と思い始めたが,それまでは「申し訳ないし,気の毒だけど,これが自分の国の安全を守るために必要なんだろう」と受け入れていた。

「普遍化」から「多言語多文化」へ

日本の英語教育界,そしてもっと広く言えば教育界そして恐らく政界は,グローバル化を「世界の普遍化」と捉え,世界のその流れに遅れじと英語教育を小学校からに早めたり,大学受験を滅茶苦茶にしたり,高校入試にスピーキn(文字数

しかし世界は「普遍化」のフェイズなぞ恐らく迎えない。上で見た通り地球規模の危機に対して地球上の国々は「協力」よりも「断絶」を選んだ。そしてコロナ対応のみに限らずとも,身の回りのローカルな社会を少し目を凝らして見れば分かるであろうように,我々が受け入れるべき現実は「多言語多文化社会」だ。
「何を今更」と言われるかもしれないが,この多言語多文化社会を日本のローカルな問題(「日本だけの」ではなく「日本においても」という意味で)と本気で捉えて,その社会で生きる大人を育てるための英語教育(あるいはその他の言語教育)をしてきた自負のある教育者はどれほどいるだろうか。

鳥飼氏によれば,分断をつなぐことこそが異文化コミュニケーションである。我々の身近には外国にルーツを持つ人々がごまんといる。その人々にとっては英語だけでは確かに不十分だろうが,それでもまずは国際共通語としての英語を学ぶことには重要な意義がある。
また,鳥飼氏は日本語と英語の言語的距離の大きさゆえに,文化やコミュニケーションの「違い」を意識するには英語という外国語を学ぶことには大きな意義があるとする。
私としては言語的距離の問題はそこまで重要とは思わないが,少なくとも英語を教えることのできる人材や環境は他の外国語に比べれば整っており,リンガフランカとしての現在の英語の役割を考えれば英語を学ぶ機会を義務教育で十分に確保することはやはり妥当と言えるだろう。

英語教育を語り,進める際の根本的な視座を世界の普遍化としてのグローバリズムから多言語多文化社会への移り変わりとしてのグローバリズムに置き直すことが必要だ。
(鳥飼氏の著書は数少ない例外だが)英語教育系の文献を読んでいてもまだまだこのような考え方に基づいて論が展開されることは少ない。その点,日本語教育の文脈では「グローバル化」といえば(日本の)「多言語多文化社会」のことを当然のこととして指す。
両分野とも課題は多いが,英語教育の側から日本語教育に学ぶことは極めて多く,重要だと考える。

英語教育を適宜ゆるめる

「英語教育をゆるめる」をテーマに私は普段英語教育や周辺領域について学び,考えている。
具体的に何をどうゆるめるのかはまだまだこれからの課題だが,鳥飼氏が一つのアイデアを提供してくれている。

結論だけ書けば,中学3年間で英語の基礎を徹底的に学び,高校以降は英語を使わない(学校の授業で習わない)進路を選択可能にするというものだ。

この結論に至るまでの色々な前提や条件はここでは割愛するので,是非動画の方を見てほしい。

少なくとも私は今の時点で概ね同意しており,鳥飼氏が大胆にも打ち出したこの主張を,これから守り,育てていく責任の一端を担っていると勝手に思い込んで(思い上がって)邁進していきたいと背筋を伸ばした。

関連する文献



この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?